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風信2011

2017-10-11

本庄陸男『石狩川』を読む

本庄陸男『石狩川』(『北海道文学全集8 開拓の礎』立風書房1990 所収)読了。戊辰戦争賊軍となった仙台藩支藩 岩出山伊達家は俸禄のほぼ全面的な削減にあい、藩主を先頭に家臣団の一部は新天地を求め北海道に渡り、石狩川沿いの当別開拓という困難な事業に挑む。開拓主事となった元家老を中心に、開拓庁との交渉、厳しい自然との闘い、廃藩置県による藩再興の夢の断念、故地に残留した人々との軋轢などを乗り越えて、一筋の未来が見え始めるまでの怒濤の様を描いた、歴史小説
本庄自身(1905-39)が、佐賀藩士の開拓農民の子として当別に生まれ、北見で育ち、カラフトにも住み、上京して青山師範学校にはいり、教員をしながらプロレタリア作家として小説を書き、教職を追われた人物であり、1930年代後半という同時代の厳しい状況のもと、自らの父祖の思いを馳せて渾身の力を込めてこの作品を描いた。雑誌連載した前半部分を単行本として大観堂から刊行後二カ月にして病没。続編が書かれることはなかった。
戊辰戦争から明治初期の大激動期を生き抜こうとする有為転変のストーリーの迫力のみならず、北海道の土地・植物・気候など自然の描写に優れ、また登場する人物の所作や心理的動きの描写も特徴的である。お勧めしたい。
この伊達家支藩のある岩出山は、私の出身地である池月とは江合川(荒雄川)を隔てた隣町であり、1954年の町村合併で同一行政区となったところであるが、代々農民であった私の先祖からは、この隣町の武士団の苦闘について話しを聞いたことはなかった。伊達家進出の以前からの住人でありその支配を潔しとしない者たちの末裔であったと推測され、その没落にも北海道移住にも関心を寄せなかったからではないかと思う。
ただ、この本庄陸男の『石狩川』の本は幼少年期に見た記憶があり(それが我が家であったか、親戚の家であったか、判然としない)、いつか読んでみたい作品と思っていたが、このたび、北海道に通う用務を担う機会を得て、初見から数十年振りに読むことになったのである。読んで、優れた作品であること、また150年前に隣町の人々に激しい暴風雨を襲ったことに、改めて気付かされた。

私が読んだ本庄陸男『石狩川』が収録されている「北海道文学全集第8巻」の本づくりについて苦言を申す。
これには、出典が記載されておらず、また校訂の方針も示されていない。いかがなものかとと思うが、本文を読んでいて、行間に付された(ママ)に怪訝な気持ちを抱かされた。これは、本書収録にあたっての編集側の配慮と推測されたが、その(ママ)がどのような方針をもって付されたか、分からないことである。
例えば「尨大」の「尨」に(ママ)と付されている。推測であるが、担当者は、当用漢字表制定以降の書き換え漢字である「膨大」ないし「厖大」が正しい表記で、「尨大」は誤りと判断したのであろう。困ったちゃんである。
また「硬ばる」の「硬」に(ママ)と付している。これは「こわばる」と訓めるが、当用漢字音訓表には「硬」の訓読みが「かた」だけであり「こわ」がないために、担当者は(ママ)と付したと推測される。困ったちゃんである。あるいは「強張る」ないし「強ばる」だけが正しい表記と思ったのかもしれない。しかし「硬ばる」は今日でも使われている言葉である。
他の例をあげることもできるが省略。
こんなことに労力を使うよりは、複数箇所に出て来る「戊申戦争」に(ママ)を付けてくれないかなあ。言うまでもなくこれは「戊辰戦争」の誤りである。
石狩川』は当用漢字制定以前の作品である。もちろん、当用漢字表以外の漢字もたくさん出て来る(それどころか、どう読んだらいいか分からない漢字もたくさん出て来る)。そうであるにもかかわらず、制定後の基準でもって判断し(ママ)を付すのは、端的に間違いである。
典拠不明、校訂方針示さずの罪は大きい。版元は、今は亡き立風書房

2017-08-19

高橋和巳『わが解体』(杉浦康平装幀)と清州古印刷博物館

高橋和巳『わが解体』(杉浦康平装幀)と清州古印刷博物館
8月16日、韓国忠清北道清州市
現存する世界最古の金属活字印刷本『直指』を印刷した興徳寺の跡に建てられた清州古印刷博物館は、日本への大学院留学生3人他を同行しての見学だった。その『直指』に関連する展示、活字印刷のプロセス、また世界の印刷史の展示など、とても興味深いものであった。
私が驚いたのは、展示されている世界印刷文化史年表の現代の項に、高橋和巳『わが解体』(河出書房新社 1971)の書影があったことである。なぜ? どうして?
ハングルを解読すると『わが解体』の書影の下には「현대 가나 문자 (現代仮名文字)」とあり、右には「가나로 적힌 책표지 (한자혼용)(カナで書かれた本の表紙(漢字混用)」 とある。
そして、それらの下には中国の「현대 한자 (現代漢字)」とある。
つまり、この博物館の世界印刷文化年表は、現代のかな文字の本の代表例として、高橋和巳『わが解体』を掲げている。装幀は、杉浦康平
この本は、1971年3月の刊行。その5月に高橋和巳逝去。青山での葬儀には、19歳の私も参列した。私にとって思い出深い本である。
博物館の意図を深読みしたくなるが、あるいは、この展示は高橋和巳の作品への注目というよりは、杉浦康平装幀への評価に基づくものかもしれないとも思った。東アジアでは、杉浦康平に対する評価が極めて高いらしい。
なお、同行した延辺朝鮮族出身の京都大学院留学生は「高橋和巳というのは、李商隠について本を書いた人ですか」と声をかけてきた。その通り! 小説家として、そして中国文学研究者としての高橋和巳は今も生きているのだ。(写真二つが展示の年表、最後はネットより)

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2017-05-27

日産書房:小林秀雄、金田一昌三、山本健吉、三浦徳治

日産書房:小林秀雄、金田一昌三、山本健吉、三浦徳治
「戦後北海道の出版文化」展で矢内原忠雄内村鑑三新渡戸稲造』(日産書房 1948)が展示。この日産書房は、発行者の三浦徳治札幌の金田一昌三が運営したようで、その奥付住所は港区芝田村一ノ二日産館 と 札幌市南二条西四丁目一。疎開系出版社か。
小林秀雄は戦前の三部作『文芸評論』『続』『続々』を戦後この日産書房から刊行している。そして日産書房では文芸評論家となる山本健吉が働いていた。
矢内原『内村鑑三新渡戸稲造』についての5月19日付け金田一昌三から山本健吉宛の手紙も展示。それは、時間の関係で印刷所の内校を待たずゲタ履きのままのゲラを送るので、矢内原先生へのとりなしを願う内容。札幌で印刷組版が行われていたことが分かる。
なお、金田一昌三はのち北海道図書館長、三浦徳治は、北海道創元社筑摩書房鎌倉文庫の責任者も務めた人物で、ブローカー的な存在らしい。

2017-05-05 回想 市川の真間の手児奈

今日、山本健吉の『釈迢空』(角川選書 1972)を読んでいたら、万葉集に載る千葉県市川の真間の手児奈伝説の歌が出てきて、懐かしくも思い出したことがある。46年前のことである。

19歳、大学2年生の時、教養ゼミで、契沖研究が専門である林勉先生の「古代研究」をとった。その6月のフィールドワークで「真間の手児奈」伝説の地を訪れた。集合地がどこだったか覚えていないが、コースは、金町から葛飾柴又を経て、矢切の渡しを対岸の松戸に渡り(その地は伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台)、国府台、そして市川の弘法寺の手古奈霊堂を訪ねるものだった。(葛飾柴又の寅さんブーム、ちあきなおみ「矢切の渡し」を歌う前である。)
万葉集には手古奈を詠んだ高橋虫麻呂山部赤人長歌反歌があるが、反歌は次の通り。
「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂
「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」(山部赤人

このゼミでは、夏休みに大和旅行があり、東北地方出身の私は、奈良や飛鳥に触れて大きなカルチャーショックを受け、その後、記紀万葉から離れられないことになった。秋には埼玉本庄早稲田ゼミ合宿があり、記紀万葉に見る「近親相姦系譜」を発表したが、それは西郷信綱の焼き直しに過ぎなかった。
何とも不十分な出来だったので、林先生にお願いし、単位外ではあるが、翌年のゼミにも参加させてもらった。その後、奈良や飛鳥を何十回となく訪ねたが、今でも、最初に訪れた時のショックを克服できないでいる。

2017-04-05 追悼 宇野重昭先生

【親愛なる宇野重昭先生を悼む】
4月1日、国際政治学者で中国現代政治研究者の宇野重昭先生が逝去された。享年86. 昨年暮れまで日中文化交流会の機関誌などでお元気な様子の写真を拝見していたので、訃報に接し不意をつかれる思いをした。
先生と初めてお会いしたのがいつだったか記憶がはっきりしないが、おそらく細谷千博編『太平洋アジア圏の国際紛争史』(1983.2) の刊行にあわせて細谷先生の関係者が集った国際文化会館でのパーティだったと思う。その時、国際政治学者でアメリカ研究者有賀貞先生から紹介されたと記憶する。そして、その後、宇野先生から本格的な中国共産党史論を出版したいと要請され、その分野の第一人者であったので、了解したと記憶する。
1980年代前半、私は編集者として、政治学講座と国際政治学講座と行政学講座と地域研究叢書とを同時に構想した。
うち、国際政治学講座について、当時、東京大学教養学部の教授であった渡辺昭夫先生に可能性を打診した。返事は保留であった。ついで、有賀貞先生に打診した。有賀先生は、当時、国際政治学会の理事長であった宇野先生に相談してみるがいいか、と言われた。私は、学会ポリティクスに左右されるような企画は立てるつもりはないが、一研究者としての宇野先生にご相談されるのは大賛成であると申し上げた。これの成果が、有賀貞・宇野重昭・木戸蓊・渡辺昭夫・山本吉宣編『講座国際政治』全5巻(東京大学出版会 1989)である。
この講座の編集会議は1986年から89年まで持ったが、印象的なのは、国際関係論は果たして学問として成り立つのか、という問いを宇野先生が繰り返し発し続けたことである。この根源的な問いとの緊張感関係を意識しながら、『講座国際誠治』の企画が立てられたことは、重要であると、今でも思っている。
その後、宇野重昭・鶴見和子編 『内発的発展と外向的発展:現代中国における交錯』(東京大学出版会 1994)および宇野重昭・天児慧編『20世紀の中国:政治変動と国際契機』(東京大学出版会 1994)を刊行した。いずれも、何度も企画段階の編集会議を開き、また提出原稿に基づく編集会議を開くという、理想的な出版プロセスを歩むことができた企画だった。執筆者の可能性を最大に引き出すという宇野先生の編集哲学があってこそだったと思う。そして、会議後の酒席での雑談も実に楽しい、ためになるものだった。
ある時、先生から、出身地の隠岐の島に招待されたことがある。松本健一隠岐コミューン』を読んでいた私は、一も二もなく、お願いしますと申し上げたが、私が仕事で最も脂の乗り切っていた時でもあり、実現しなかった。そして、先生は1995年、成蹊大学の学長、専務理事、そして島根県立大学の初代学長に就かれた。島根に来るようにという案内もいただいたが、私も東京大学出版会の編集局長、常務理事の用務に忙殺され、応えることができなかった。
この間、実は、私の友人である国際書院社長の石井彰さんが宇野先生関連の仕事を専一的にするようになり、先生の動向については、それなりに聞いていた。国際書院は宇野先生関連の本を刊行した最高の個人出版社である。
宇野先生を思う時、先生に私が発した問いと先生の答をを思い出す。
《宇野先生は、神道家系に生れ、成人してキリスト教信仰し、そして毛沢東中国共産主義を研究しているのですか》
《そうです》

2017-03-24 鹿島茂『吉本隆明1968』

鹿島茂神田神保町書肆街考』(筑摩書房)に続けて、同著者の『吉本隆明1968』(平凡社新書 2009)を読んだ。著者が述べるように、これは「団塊世代の吉本体験」を反芻し描いたもの、つまり、団塊世代(戦後ユース・バルジ世代)の後衛(1968年に大学一年生)である著者が、当時読み得た吉本の1960年代までのポレミークな評論集である『犠牲の終焉』から『自立の思想的拠点』や『高村光太郎』を対象として、「自立の思想」に至る吉本の思想展開を追跡したものである。
同時に鹿島茂は、本書を「出身階級的吉本論」であるとしている。これは、《下層中産階級の出自を持つ人間が知的上昇を遂げて階級を離脱するときに訪れる根源的な「悲しみ」》を戦前ユース・バルジ世代の一員である吉本が真正面から見据えたことに、大学生となった戦後ユース・バルジ世代が《一族での最初の大学生》体験を吉本と共有することによって、「わがことのように受け止めた」ことを指す。
このように一般化して整理してしまうと、本書の持つ「私小説的評論」という魅力を殺いでしまいかねず、丁寧に紹介すべきであるが、ともあれ、戦後ユース・バルジ世代の次の世代としての私は、本書によって自分の吉本体験を共感を持って反芻するとともに、「階級」と「世代」を強調しすぎではないか、とも感じた。もう一度、吉本の著作をひもどいてみようという気になったのは、本書の功徳と言える。

2017-02-16 大川真「サムライの国に持ち運ばれた「アメリカ」」を読んで

吉野作造記念館館長の大川真さんの論文サムライの国に持ち運ばれた「アメリカ」」を読む。これは、台湾の『淡江日本論叢』No.32(2015-12)に掲載されたもの。デモクラシーの日本での源流を探るもので、特に多数決の思想がどうであったかなど「決め方の歴史と論理」に焦点をあてている。力作。ぜひ、本論考を手にとっていただきたい。
なお、言葉の表現という点で私にとって興味深かったのは、アメリカの代議制や大統領制を日本に1850年代に紹介した正木雞窓という人の文献『美理哥国総記和解』。これは、『海国図誌』の和解(漢文を日本語にして解釈したもの)であり、漢語はほぼ踏襲し、それに日本語のルビを振っている。このルビは、正木の解釈を示すもので、異文化接触の具体相がよく表れている。
例えば「公堂」には「やくしよ」、「会議」には「よりてひようぎ」、「公議」には「ただしきひようぎ」、「合議」には「ひようぎのあふ」、「合意」には「こころのあふ」とルビを振っている。このようにして、議会政治は「評議」をベースとしたものであることを、読者に分かりやすく伝えようとしている。
もちろん、ルビを使用しての表現の工夫は正木のオリジナルではないが、注目される。明治に入ってからも、このようなルビによる表現の仕方はある。例えば、新律綱領や改定律例にも見ることができる。ただし明治15年刑法旧刑法)からは消えている。この変化の意味を読み解いたのが松浦寿輝明治表象空間』(新潮社 2014)の第I部である。