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風信2011

2013-05-18

鄭玹汀『天皇制国家と女性:日本キリスト教史における木下尚江』(教文館、2003年2月)

鄭玹汀『天皇制国家と女性:日本キリスト教史における木下尚江』(教文館、2013年2月)
本 書は、木下尚江についてフェイスブックに書かれていた未知の鄭さんに私が応答し、そして献本していただいたものである。見知らぬ私にお贈りいただいた鄭さんに感謝する。
私は木下尚江自身の著作を含め関連本を数冊所蔵している。それは、私が関心を寄せる明治期の運動の担い手として、また関心を寄せる人々の周りによく登場する人物が木下尚江だからである。例えば、初期社会主義運動やキリスト教史。例えば、北村透谷田中正造幸徳秋水、堺利彦、片山潜などなど。木下尚江についてきちんと取り組まなければならないと思いつつ、脇に置いてきたというのが正直なところである。その意味で、今回、本書をいただき、いい機会と思って読んだ次第である。

本書は、大日本帝国憲法発布(1889年)と教育勅語の発布(1891年)以降から明治末期の時期を対象として、女性の問題に焦点をあてて日本のキリスト教の特質を明らかにすることを目的としたものである。その際、明治キリスト教界の指導者と、キリスト教界内部からの批判者である木下尚江との思想的対決を分析の軸としている。その意味で、本書は、明治国家ないし近代日本を正面から問い直そうとする意欲的な作品である。

私は、本書により、様々なことを教えられた。以下は、その一端、特に明治キリスト教界の指導者に関連したことをを記すことにする。
一番驚いたのは、それなりに先進的な活動を展開してきた指導者と思っていた女子教育の巌本善治が、著者によれば「天皇制国家に適合する帝国臣民としての女子をいかに養成すべきかという課題」に結び付いた主張の代表者であるとされていること。
同じく、日本キリスト教界を代表する植村正久が「日清・日露戦争の時代「洗礼を受けたる武士道」をもって自らが愛国者であることを公に表明するとともに、国民精神振作の先頭にたって武士道の宣揚に尽力した」人物であるとされていること。特に植村が1904年2月の説教の中でキリスト者社会運動、とりわけ足尾鉱毒事件に関与することを非難して「今日の教会が無暗に社会問題に手を出したり、伝道者が漫然慈善事業に奔走したり、甚だしきは田中正造の手先きと為つて、得々然たるは何たる間違であるか」と述べていること。
そして、同志社を中心とする日本組合基督教会の代表的指導者である海老名弾正は「忠君敬神」という概念を用い、日本「国体」とキリスト教との調和を図っている。さらに1897年の『六合雑誌』には「進んで皇道を世界に布くに至るべし、忠君の大義は国家の統一に於て最大の力あり、敬神の大義は国家の膨張に於て最大の力を有す、敬神の士豈に奮興せずんばあるべからず」とまで述べている。
著者が描く明治キリスト教界の指導者の像には驚いてしまう。驚くのは私が無知であるからだろうが、このようなことはこれまでにも指摘されてきたことなのだろうか。
そして、このような明治キリスト教界への内部からの批判者として著者が取り上げるのが木下尚江である。その具体的な展開については本書をご覧いただきたい。
ただ、このような明治キリスト教界の指導者をどのように捉えるかという課題が私たちに突きつけられる。問題の根は、本書のタイトルに示されているように「天皇制国家」だからである。

2011-11-05

堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』、堀孝彦『開国と英和辞書』について

堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』、堀孝彦『開国と英和辞書』について、ツイッタ―をまとめてみました。

2011年07月09日(土)1 tweets

明治古典会七夕市で注目したのが堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』。日本最初の英和辞典文久2年刊の増補版、慶応2年刊。状態は良くないが入札最低価格が7万円。開いてみるとPrefaceの署名がHori Tatsnoskay 。その綴りに先人の苦辛が偲ばれる。政治学の堀豊彦は直系の子孫。

2011年07月11日(月)1 tweets

明治古典会七夕市入札結果。堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』は日本最初の英和辞典で文久2年刊。その増補版は慶応2年刊で、これに入札を試みましたが、依頼した古書店の主人の予測通り、落札できず。この堀達之助は、吉村昭の小説『黒船』に出てくる長崎の通辞。辞書作成には、西周も関わっています。

2011年07月17日(日)1 tweets

静嘉堂文庫「日本における辞書の歩み」展で、明治古典会七夕市で入札し轟沈した堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』改訂増補版が初版とともに展示されていました。1862年刊の初版は、活字本として刊行された日本最初の英和辞書。英語が鉛活字で、日本語は銅版。3万5千語。200部刊行。

2011年09月06日(火)3 tweets

http://t.co/XRwuU91 驚くべし。150年前に出版された『英和対訳袖珍辞書』の原稿が発見された。堀孝彦『開国と英和辞書 評伝・堀達之助』は、その発見による成果を踏まえた新著。堀達之助の4代目になる孝彦は遺稿集『デモクラシーと抵抗権』(東大出版会)の堀豊彦の子息
posted at 14:34:37
堀孝彦氏には、昨年11月の第7回南原繁シンポジウムの懇親会でお話しいただき、それは堀孝彦「政治と政治学との緊張関係:「日本政治学会」成立史に学ぶ」として『南原繁日本国憲法天皇制戦争放棄をめぐって』(Editex社)に収録されている。
posted at 14:37:35
堀孝彦著『開国と英和辞書』で発見が報告されている堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』1862年刊の初版は、活字本として刊行された日本最初の英和辞書であり、出版印刷文化史でも貴重なもの。英語が鉛活字で、日本語は銅版。3万5千語。200部刊行という。
posted at 17:17:43

2011年09月16日(金)3 tweets

竹中 英俊 のぞみ車内で堀孝彦『開国と英和辞書:評伝・堀達之助』(港の人)を読んでいる。ビッドル、ペリーとの交渉を経て、下田と獄中での吉田松陰との接触、蕃書調書時代の『英和対訳袖珍辞書』の編纂で、全体の半分まで来る。この異文化接触と媒介に携わる人物の記録と考察が何とも面白い。
posted at 14:52:29
‎1862年刊の堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』は200部印刷。現存が確認できるのが20部。静嘉堂文庫展示本は大槻文彦旧蔵本。堀家所蔵本は吉野作造寄託中に関東大震災で消滅。また、マインツグーテンベルク博物館に一本あり。常設展示されているという。4年前に行ったが迂闊にも気付かず
posted at 15:46:01
堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』がグーテンベルク博物館にあるのは、ナチスゲッベルス宣伝相のお声掛かりで、1940年グーテンベルク発明500年記念博覧会が開かれた際に、日本の国際文化振興会が中心となって日本国からドイツ国に贈られたもの。「文化」の美名を借りた国威発揚と堀孝彦は批判
posted at 16:43:00

2011年09月19日(月)2 tweets

堀孝彦著『開国と英和辞書』の口絵に、『英和対訳袖珍辞書』1862年初版に対する改訂増補1866年版のための原稿あり。Absolute の初版訳語「限りなき。充分なる。整ふたる。強勢なる」の「強勢なる」に「自由なる」と入朱、改訂された。「自由」の意味として興味深い。
posted at 12:17:31

2011年09月20日(火)2 tweets

堀孝彦『開国と英語辞書:評伝・堀達之助』読了。本格的、そして年季の入ったすぐれた著作だ。日本初の印刷された英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を誕生させた人物。その幕末開明知識人が、職を退いた後の明治14年に著した『歴史問答作文』の陳腐さ。二世を生きた不遇の人に愛おしさの感を抱いた。
posted at 23:24:11

‎8月末に古書店でみつけた『英語事始』(日本英学史学会編、1976年、ブリタニカ刊、当時3500円)は、大久保利謙、金井圓、さねとうけいしゅう、高梨健吉、芳賀徹吉村昭など錚々たる38人の執筆陣によって著されたもの。B5変型316ページ。カラー・白黒の豊富な写真・図版が嬉しい。
posted at 23:46:00

古書をもう一冊紹介。高梨健吉『文明開化の英語』(中公文庫1985年)。著者は日本英学史学会会長をつとめた方。本書は、堀達之助、ジョン万次郎から新渡戸稲造斎藤秀三郎まで扱った読み物。長いタイムスパンでの文明開化を概観するには最適の書であり、「武士道捏造説の紹介など鋭い。
posted at 23:56:29

9月30日
惣郷正明著『図説日本の洋学』を寄贈さる。判型がタテ150ミリ×ヨコ225ミリ。筒型の段ボール箱入り。先進的精神を体現した学問を対象とした著者が、先進的精神を担った出版社築地書館から、先進的精神をもって挑戦したブックデザイナー杉浦康平によって刊行した本。1970年のこと。
posted at 06:39:04

2011-05-13

武士道』日本語版の刊行(2)

 1938年刊行の岩波文庫『武士道』は矢内原忠雄の訳。
 1937年12月に矢内原は東京帝国大学教授を辞任。38年に岩波書店から岩波文庫の新渡戸稲造武士道』と、岩波新書第1・2番のクリスティ『奉天三十年』上下との、この2点の翻訳刊行を行っている。前者が1938年7月の訳者序の日付で10月の刊、後者が9月6日の訳者序の日付で11月の刊。立て続けの翻訳作業、出版作業であったことがわかる。
 これらの翻訳と刊行に関わる矢内原に関連する事柄については、実は極めて興味深いものがあるが、ここでは触れない。『武士道』刊行についてのみ記す。
 1905年桜井訳『武士道』は、新渡戸の校閲を経たものであり、またリズム感のある文体で、矢内原も言うように「桜井氏の訳はなかなかの名訳である。」しかしながら、新たに矢内原が翻訳に取り掛かったのは(岩波茂雄による慫慂があったのかどうかは記されていないが)次のような判断による。
 《[桜井]氏の訳書がすでにしばらく絶版であって容易に発見せられないことのほかに、氏の訳筆が漢文漢字の素養の一層乏しくなれる現代日本人にとりて難解であることを恐れるのと、内容上の瑕瑾もまた絶無とは言えざるが故である。》
 桜井訳が1908年、その30年後、つまり一世代を経て、「漢文漢字の素養の一層乏しくなれる現代日本人にとりて難解」となったと判断されている。しかして、矢内原訳の改版がなされたのが1974年。「改版にあたって」を書いた矢内原伊作は「この機会に現代口語体に改めて今日の読者に読みやすいようにすることも考えたが・・・」それはせず、表記の現代化にとどめたことを断っている。矢内原訳が1938年、その36年後、つまり一世代を経て、現代口語体にして今日の読者に読みやすくすることが検討されたのである。
 1974年改版から37年後、つまり一世代を経た今日、この矢内原『武士道』の文体は若い人にとってはどうなのだろうか。
(『武士道』日本語版は、戦後、複数出版されている。)

2011-05-12

武士道』日本語版の刊行(1)

 新渡戸稲造武士道』は英文版がもとであるが、その英文版について、著者本人は、「日本では誰もこの本を読みたいとは思わぬ、出版など考えもしないだろう」と考え、日本での英語版出版も、また日本語訳出版も考えなかった。日本語訳版出版を考えたのは、英語初版が好評なのと、日本での翻刻英語版が9刷も重ねたこと、とによると思われる。
 英語版は増補改訂を施し、1905年にあたらしく G. P. Putnam’s Sons, New York および 丁未出版社から刊行された。邦訳版は同じく丁未出版社から桜井鴎村(彦一郎)の訳により1908年(明治41年)に刊行されている。
 この1908年版には1938年岩波文庫矢内原版で「第一版序」として収録されている「原序」のほかに、「上英文武士道論書」というタイトルの著者序文がついている。日付が「明治三十八年四月」。これが興味深い。
冒頭は「伏して惟るに、/皇祖基を肇め、/列聖緒を継ぎ、浩業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、武士道茲に興り、・・・」という独特のリズムをもった文章で始まる。(スラッシュは原文改行で、二行目三行目は他の行より一字突出している。これは独特の作法に基づいたもの。)
そして、文末には「誠惶頓首」が置かれ、「京都帝国大学法科大学教授従五位勲六等農学博士 新渡戸稲造再拝白」とある。これも作法に基づいた独特のスタイルと思われる。
 この「上英文武士道論書」の内容にあって矢内原版にはないのは、明治9年に「聖上東北を巡狩し、三本木駅に於て、畏くも稲造の居宅を仮行在所に充て給ひ、爾時祖父の追賞を蒙り、子孫国事に奉ずべしとの聖諭を拝せり。」云々という、新渡戸伝ではよく知られた部分である。
 この1908年桜井版には、「訳序」も付いていて、桜井は新渡戸が『武士道』(英文)を脱稿する際に、新渡戸のフィラデルフィアの仮寓に泊して大旨を聞き、後、日本で『英学新報』を創刊して、新渡戸の示教説明に基づいた詳註を付したこと、そして1905年増補改訂版(英文)を日本で公刊するに当たり、桜井自らが発行者となった、書いている。
 この邦訳にあたっては「訳文は悉く博士の校閲を経たり」とあるので、本文もまた「上英文武士道論書」も新渡戸が目を通したと考えるべきだろう。
 なお、奥付表記は、「明治四十一年三月二十日印刷/明治四十一年三月二十五日発行」とあり、また「訳者 桜井彦一郎/発行者 土屋泰次郎」で発行所が「丁未出版社」。印刷所が「牛込区市ヶ谷加賀町」の「秀英舎第一工場」とあるから現在の大日本印刷である。

2011-05-01

新渡戸稲造BUSHIDO刊行をめぐって(2)

 新渡戸稲造に『幼き日の思い出』(邦語は加藤武子訳、新渡戸基金、2007年1月1日、1905円、和英併記)がある。
 この著者生前は未発表の英文原稿を、没した翌年の1934年に丸善から出版されるにあたり、メリー・ニトベが寄せた「はしがき」がある。ここに英文 BUSHIDO の日本での翻刻版出版のトラブルについて、以下のような記載がある。

 《[『武士道』は]夫の健康上医師に強制された休暇の間、アメリカで書かれたものです。この本は、一九〇〇年にアメリカで最初に出版されました。私は新渡戸に、ぜひとも日本で同時に版権をとるように求めましたが、彼はその必要はないし、日本では誰もこの本を読みたいとは思わぬ、出版など考えもしないだろう、と思っていました。》
 この1900年という時点では、アメリカで出版したものが日本でその版権が保護されることにはなっていなかったのだろうと思われる。(不平等条約撤廃で改善されたかどうか、また、著作権条約について、要調査。)

 《ところが、結果は、彼[新渡戸]が一、二年後に帰国しますと、『武士道―日本の魂』が、すでに九版を重ね、学校の教科書にも使われていたことがわかりました。彼は二度東京の出版社に抗議にまいりましたが、二度とも、どのような処置をなさったかと私が訊ねましても、答えるのも厭う様子の帰宅でした。》
 この「東京の出版社」が「裳華房」である。同社は英文版のみならず、1901年にドイツ語版も出している。
 なお裳華房は、1898年に新渡戸の博士論文をもとにした『農業本論』の版元である。『農業本論』は奥付に「札幌農学校学芸会蔵版」とあり、札幌農学校の「札幌叢書」の第1冊として刊行されたもののようだ。同書奥付裏広告には、続刊として20冊の書名が挙がっており、その中には新渡戸『農業発達史』(結局、未刊)、宮部金吾『植物学大原論』(これも未刊か)が見える。

 《私どもは出版社がその本から得た収益を自慢していることを知っておりました。ところが彼は著者[新渡戸]に向かって、妻の病の話を痛々しく訴えました。さて著者は、妻が病気だということが、いかに大変なことか知っておりましたので、気の毒に思いました。そのような次第で、彼[新渡戸]はこの手に負えぬ出版社の主人を厳しく処するに忍びませんでした。同情をもって遇せられた出版社の主人は、さらに厚かましくなり、新渡戸の印を実際に偽造してしまいました。その時、いわば、こらえにこらえた武士の刀が鞘走りました。》
 この「武士の刀の鞘走り」について、訳註で《小石川原町居住時代、出版社主人が玄関に現われるや、「恥を知れ!」と大声一喝、出版社主人はふるえ上がりし由。》とある。訳者は新渡戸の孫であり、このようなことを聞いていたのだろう。また、出版社主人が1898年時点と同じとすれば、芳野兵作であろう。

 岩波文庫版『武士道』の矢内原忠雄「訳者序」によれば、BUSHIDO は、1905年第10版に際し増訂が施され、「アメリカ(G. P. Putnam’s Sons, New York)および日本(丁未出版社)にて発行された。」国会図書館で検索すると、1905年に東京の Student Co. から Rev. & enl. ed. が刊行されている。これが丁未出版社にあたるのだろうか。
 結局、BUSHIDOを1万5千部を刊行したという裳華房からはその後新渡戸は新しい本を出していない。メリーによれば、《法的処置は取られませんでしたが、この出版社は、失った信用を二度と取り戻しませんでした。》と書いている。
[版権や印税のトラブルはよく起きることであり、以上のことは新渡戸側からのものであり、出版社側からの言い分については不詳である。ご存知の方にご教示いただければ、幸いである。]

2011-04-30

新渡戸稲造BUSHIDO刊行をめぐって(1)

新渡戸稲造のBUSHIDOは、1900年、フィラデルフィアの The Leeds and Biddle Company から刊行された。この英文が執筆される経緯は、たくさんある日本語訳版の解説でも触れられているので、ここでは繰り返さない。
フィラデルフィアでの出版と同時に日本では、同年に東京の裳華房から英語翻刻版が刊行された。裳華房から刊行されたのは、新渡戸の博士論文をもととした『農業本論』が1898年に裳華房から出版されているつながりによると思われる。
ところが、裳華房からのBUSHIDO刊行をめぐっては、その後、版権、印税についてトラブルが生じたようである。出版に携わる者として、何があったのか、関心がある。そのことの資料を次回に紹介する前に、裳華房のホームページから新渡戸BUSHIDOに関する該当箇所を下に引用する。


http://www.shokabo.co.jp/corporation/busi.gif
『BUSHIDO(武士道) The Soul of Japan』
新渡戸稲造明治33年(1900)
本の大きさ:菊半裁
 明治日本が輩出した真の国際人、新渡戸稲造の精神的真骨頂を著した主著の一つ。
 1899年に米国で出版されたものの翻刻版。武士道を、日本の道徳形成の基本とする良き精神的伝統を西洋に紹介。
 この版で15,000部が売れたとされる。
 著者は、札幌農学校を卒業(明治14年(1881))後、米国J.ホプキンズ大学に留学、さらにドイツにも遊学し、札幌農学校教授、国際連盟書記局次長にもなった。
 本書のほかに、裳華房から『農業本論』(明治31年(1898))を出版している。これは新渡戸稲造本来の研究テーマである農業政策について国際的視野に立って論じたもので、彼の初の本格的論文であり、博士論文ともなった名著である。

2011-04-21

斎藤勇と新渡戸稲造:米国講座叢書のつながり

 英文学研究の斎藤勇の著書に『アメリカの国民性及び文学』がある。1942年有斐閣刊。これは「米国講座叢書」の第5編として刊行されている。東大法学部の「アメリカ政治外交史」講座の前身「米国憲法、歴史及外交」(通称、ヘボン講座)での前年1941年11月の3,4回の講義をまとめたものである。まさに、真珠湾の直前。「ほめるのでもなく、けなすのでもなく、ありのままにアメリカン・キャラクターを見たい」という趣旨で講義をしたという。
 文学部教授の斎藤勇が法学部で「文学」というタイトルのついた講義をしたのは、ヘボン講座担任の高木八尺の依頼によってであった。ヘボン講座は、1918年2月9日に開講式をしているが、開設にあたっては、美濃部達吉による米国憲法、新渡戸稲造による米国史、吉野作造による米国外交についての特別講義が行われ、吉野作造のを除いて、「米国講座叢書」の名で刊行された。第1編が美濃部『米国憲法の由来及特質』(1918年)、第2編が新渡戸『米国建国史要』(1919年)である。
 この叢書のほかのものを挙げると、第3編が、ジョンソン博士講述、高木八尺・松本重治共訳『米国三偉人の生涯と其の史的背景』(1928年)、第4編が、講座専担の高木による『米国政治史序説』(1931年)、第5編が上述の斎藤『アメリカの国民性及び文学』(1942年)、そして第6編が都留重人『米国の政治と経済政策:ニューディールを中心として』(1944年)である。叢書刊行のタイムスパンが長いが(長すぎる!)、法学部という枠を超えた「総合的アメリカ研究」を意図した布陣とテーマとを見て取ることができよう。
 注目したいのは、新渡戸稲造である。新渡戸の第一作は英文の『日米関係史』(The Intercourse between the Unitede States and Japan:Historical Sketch)であり(これは1891年にジョンズ・ホプキンズ大学出版局から刊行されている)、上記『米国建国史要』も勘案すると、新渡戸はアメリカ研究の先駆者として位置付けることができる。新渡戸は、英文『武士道』などで日本を外国に紹介するとともに、アメリカを日本に紹介する役割を果たしていたことになる。
 
 なお、斎藤真「草創期アメリカ研究の目的意識:新渡戸稲造と『米国研究』」は、すぐれた新渡戸研究である。この論考が収録されている細谷千博・斎藤真編『ワシントン体制と日米関係』(東京大学出版会、1978年初版)は、重版され、現在も入手可能である。
 また、東大教養学部アメリカ研究資料センター発行の『斎藤勇先生に聞く:アメリカ文学研究への径路』(アメリカ研究オーラルヒストリー・シリーズ、Vol.7)も、日本のアメリカ研究を考えるうえでの重要文献である。非売品だが、東大大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋研究センターの図書室にある。