出張

土曜日、名古屋まで出張である。
出張というからには仕事ではあるけれど、こちらから積極的にプレゼンテーションをする必要がなく、話を聞いていればよい仕事なので気楽である。休日ということもあり、スーツ、ネクタイではなく、半袖の襟が開いたシャツを着て、裾はパンツの外に出している。
つれあいによると、どんなに忙しい時のどんなに厳しい日程の出張でも、いやいや出発したことはけっしてないし、たいてい出発したときよりも元気になって帰ってくるという。たしかに、考えてみれば、会社に行くのはおっくうなときも多いけれど、出張に行くときにはそんなことはない。
家を出るとき、「まあ、出張は仕事だから」と言いながら、ことさらにきびしい表情を作ろうとしても、どこか浮かれている。昨日、会社で、への字口で「土曜日に出張が入ると、来週きつくなるんだよな」と言いながらも、目尻が下がっていたに違いない。

希望のない将来

小学校のころ、自分の将来の希望について、という課題で「希望のない将来」という題の作文を書いたことがある。
陰々滅々とした内容、というわけではなく、今の自分には医者になりたい、プロ野球選手になりたい、というようなしっかりと形になった将来の夢はない、という内容の作文だった。
この作文のことは、たまに家族のなかで話題となる定番の笑い話である。「こんな作文の題名を見て先生はぎょっとしただろう」とか、「おまえは子供の頃から先生の意図とか考えずにマイペースにやっていたんだな」とか、「いつもへりくつをこねたような作文ばかり書いていたから」とか、そんな話になる。



古本屋の文庫本の棚を眺めていたら、山口瞳「血族」(文春文庫 ISBN:4167123045)が目に入り、衝動的に買ってしまった。
ずいぶん昔のことなので記憶が定かではないが、NHKのドラマ人間模様というシリーズで、この「血族」を原作としたドラマを見た記憶がある。ストーリーはほとんど忘れてしまったけれど、自分のルーツを探している主人公を小林桂樹が演じており、ようやく見つけた先祖の墓の前で、苦み走った表情で立ちすくんでいる場面が、妙に印象に残っている。
古本屋で「血族」の背表紙を眺めた瞬間に、このドラマの記憶がよみがえり、読んでみようと思ったのである。
この小説のなかで、山口瞳が自分の幼少時代を回想している、こんな一節に、引っかかった。

 子供のときから、ずっと、私は、言ってみるならば漠たる不安に悩まされ続けてきた。私のような者が、どうしてこの世に生きることができようか。私は、まったく、自信がなかった。金を稼いでいる自分というものが、どうにも想像できなかった。どんな仕事でもいい、どんなにか人から嘲笑されるような仕事でもいい、あるいは世間から賤業と見られているような種類の職業でもいい、もし、それが私に与えられるならば、一所懸命に、辛抱強く、しがみついていようと思った。辛抱強いということでは、いくらかの自信があった。多分、私は、親の期待を裏切って、単純な作業をするところの労働者になってしまうだろうと思っていた。運がよかったらという条件つきの話なのであるが……。そのときは、私は一人だ。一人で、三畳の部屋で暮らしているだろう。そうなったら、それはどんなに楽しい生活であることか。そのことを考えるのは、私にとって、ひそかにして甘美なる空想だった。しかし、おそらく、そういう幸運は訪れないだろうと思っていた。少年時代の私には、野心というものが、ひとかけらもなかった。あきらかに、私は、異常なほどの小心者であり、人生に対する構え方において卑怯者だった。人と争って、そこを切り抜けてゆくなどということは、とうてい考えられない、私の身の上にありうべからざることだった。

自分も子供の頃、これと同じような感覚があった。おそらく、今でも同じような感覚はどこかにかある。
小学生から中学生の頃、ハイエルダールの「コンティキ号漂流記」やスウェン・ヘディンの「さまよえる湖」の子供向けのリライト版を愛読していて、ばくぜんと外国の遺跡を発掘する考古学者なれたらいいなと思っていたけれど、同時に、実際に自分が考古学者になって、探検隊を率いて海外の遺跡に発掘に行くなんてぜったいに無理だと思っていた。
「希望のない将来」という作文も、今では家族の笑い話のひとつとなっているけれど、よくよく考えてみれば、あのころの自分の無力感を反映した深刻な作文だったのかもしれない。仮に将来なりたいものがあったとしても、絶対になれっこないと考えていたならば、「将来の希望」を書けという課題の作文をまともに書けるわけがない。
また、山口瞳はこんなふうにも書いている。

 私の理想とするところのものは、せんじつめれば、金利生活者である。情けないけれど、そうなってくる。昔の子供言葉でいえば、我利我利亡者である。金満家の吝嗇漢がいるが、それでどこが悪いかと思っていた。私は、そういう人に憧れ、それになりたいと思っていた。もっと具体的に言えば、預金通帳を抱いた晩年の永井荷風である。

母親によると、私は「高等遊民になりたい」とよく言っていたという。また、アガサ・クリスティの小説のように、あったことのない叔父さんが死んで、多額な遺産が転げ込んでこないものか、ともよく言っていたような気もする。いまでも金利生活者になるのは理想である。それほどの遺産はないから実現は不可能だけれども。
ただ、憧れているのは、晩年の永井荷風ではなく、夏目漱石「門」(岩波文庫 ISBN:4003101081)の宗助と御米の夫婦である。あんなふうに、世の中の片隅でひっそりと夫婦で暮らすのはいいなあと思う。考えてみれば、いまは理想に近い生活が実現しているのかもしれない。



子供の頃を思い返してみると、自分に対する無力感があったことも確かだが、自分の周囲、親や親戚、学校の先生からもさっぱり期待されていなかったようにも思う。特に、私の兄はずいぶん期待をかけられていたようだったから、それとの落差が大きかった。もともと、自分が自分に対して大きな期待をかけていなかったから、周囲から期待されないことに落胆することはないけれど、客観的に見て、どうしてこんなにも期待されないか不思議だった。
それにしても、子供が高等遊民になりたいと言っていたとしても、親がそれを真に受けて、この子は正業には就かないだろうと思うものなのだろうか。子供に対して、もう少しは、盲目的に大きな期待をかけてみたりするではないのだろういか。
会社に入ってから、上司からそれなりに期待をかけられるようになったが、非常に新鮮な感覚だった。かつては、期待されないのは自分のせいだと思っていたけれど、ある程度人から期待されるようになると、期待されないのは自分のせいだけでもないと思うようになった。
自分が何者かになると思っていなかったから、周囲も何者かになると思えなかったのか。それとも、周囲から何者かになると思われなかったから、自分でも何者かになると思えなかったのか。

清国、柏戸

期待されていた兄には、神童伝説のようなものが伝わっている。
まだ言葉もよくしゃべれない幼児だったころ、神戸製鋼のカレンダーを見て、「おんも、おんも」と叫んだいう。「おんも」とは、お相撲のことだった。しかし、なぜ、神戸製鋼のカレンダーを見て、お相撲と言ったのだろうかと誰もが不思議に思った。そして、神戸製鋼の「戸」の字と、そのころ横綱だった柏戸の「戸」字が同じだからではないか、ということになった。言葉もよくしゃべれない兄が、漢字を読んでいた、というのだ。
実際、冷静に考えれば、「神戸製鋼」の「戸」と、「柏戸」の「戸」の字がおなじなどという話は、牽強付会もはなはだしいのだが、そういった話が家族のなかでまじめに語られてしまうような雰囲気があったのは確かだろう。
さて、それはともかく、山口瞳山口瞳「男性自身」傑作選中年篇」(新潮文庫 ISBN4101111332)に、その柏戸についてこんな話が書いてあった。

 銀座の小料理屋のお内儀さんが相撲を見に行った。
「お相撲、どうでした?」
 私は彼女にきいてみた。彼女は七十歳という齢恰好である。
「今日のソラマメは、ちょっと固うござんした」
 五月場所へ行くときは、ソラマメとヤキトリが楽しみなのである。冷凍のエダマメはあるが、冷凍のソラマメはない。私は、近頃は、相撲は先生の御席を頂戴するので、相撲場のソラマメを食べたことがない。先生の御席は砂っかぶりで、酒はおろか煙草も吸えない。お茶も飲めない。茶碗や灰皿があると相撲取りが落ちてきて怪我をするからである。
「そうじゃないんだ。相撲は、どうだった。清国は勝った?」
「清国はよごさんじたけれど、柏戸がねえ……柏戸がどうも……」
 それだけで涙ぐんでしまう。東京の年をとった女性は、柏戸が負けるとがっかりしてしまう。彼女は柏戸のことを、カシャードと発音する。

私自身は、柏戸の現役時代は記憶にない。清国はかろうじて覚えている。江戸時代風のいい男で、いかにも玄人筋の女性に人気がでそうな力士だった。柏戸も、そんな粋な力士だったのだろう。
これまでの日記で、貴乃花を同情しているという話を書いてきた。そのことには変わりはない。彼の悲劇性には心を惹かれる。しかし、力士として見た場合、あまり好みではない。
柏戸、清国、北の富士、二代目若乃花の若三杉といった、昔風で粋な感じで、ギスギスしていない鷹揚な雰囲気の美男力士というのは、今のスポーツ化した大相撲からは出てきそうにないが、ちょっと懐かしい。
最近の歌舞伎界は、毎年、海老蔵勘三郎、翫次郎と、大きな名跡の襲名披露で話題を作って、集客が好調である。大相撲も、なまじスポーツ化するよりは、伝統芸能としてやっていった方がよいのかもしれない。少なくとも、東京の年をとった女性の人気を保つためには。

引用のための引用

なにか小理屈を付けて、理由のある引用のように見せかけているけれど、単純に書き写したいだけの時もある。今日は、もう、小理屈を付けるのも面倒なので、単に気に入ったところを、ただ書き写してみる。
「血族」の終わりの方にでてくる山口瞳の母親の遺書である。

 自分の死後は、これをよんで参考にして下さい。
 みんなよくしてくれて嬉しい。特に治子佳代子にわがままな正雄を残していく事がほんとうにすまないと思ふけど、これも何かの縁とあきらめて大切にして上げて下さい。
 私の通夜は、私の親しい人々でいいのです。派手にしなくて、みんな私の毒舌や、そそつかしい話などで遊んで下さい。
 葬儀も質素で、火葬にしたらすぐ浦賀にもつていく事。
 寺におさめるお布施などは保次郎と相談して下さい。なるべく保険金で間に合う様にする事。寺におぼんとお彼岸の付けとどけを忘れぬ事。わからない事は人に聞く事。
 かたみわけは、麗子栄治子佳代子と相談する事。但し私の着物は大体水準以上のものですから、いいものはやらず染めかへしてみんだで着なさい。古谷のお母さん平山のお母さん鎌倉の叔母さん、保次郎のおかみさん、羽仏のしまえさん、尾原さん、坂本さん、佐久間町のお姉さん等。他はまかせる。私のかたみなんかほしがらない人の方が多いよ。
 死後しらせる人は
  有楽町の小林さん 57 2234
  坂本さん、尾原さん
 ここまで書いたら、一寸涙が出た。
 和子さんには真珠など洋服のアクセサリーを上げて下さい。
 純夫婦及び瞳、昭とも夫婦仲のいい事はほんとうに安心、喜んでゐます。きつと永久に仲よくやれると信じてゐます。
 ただ栄だけ心残りです。彼女の一人前のすがたがみたかつた。だけど彼女には芸がある。それをのばす事。吉住小三郎だつて芸と人間が両立しなかつたもの。しかし、栄ちゃん、愛情も大切だよ。私のやれなかつた夢を貴女にたくして私は守つてゐる。
 孫たち。これこそ何ものにも代へがたいもの。みんなみんな目的にむかつてすくすくとのびてね。おばあちやんは、きつときつと貴方たちが大きくなるまでお空からみてゐます。

自分には、こんな遺書を書く時は、決してこないのだろうなと思う。