気迫

ここ数場所、大相撲がおもしろい。
初場所両国国技館に相撲を見に行き、熱戦続きで、じつに満足した。最近行った格闘技の興行のなかでは、だんとつのおもしろさだった。
朝青龍が他の力士を圧倒していた時期が終わり、上位の力士は本気で優勝をねらって相撲をとるようになった。その雰囲気が伝わったのか、全体的に気迫のこもった激しい相撲が続くようになってきた。
土曜日の十四日目、ふと目にした栃東千代大海の取り組みは、優勝や勝ち越しがかかっているというわけではないけれど、二人がすばらしいスピードで激しくぶつかりあっており、見応えがあった。こういう相撲が普通にでてくるということがすばらしい。
もちろん、千秋楽の魁皇白鵬での魁皇の気迫、朝青龍白鵬での朝青龍の捨て身の投げもよかった。今日は連敗してしまい優勝できなかったけれど、これで悔しさを味わったことで、白鵬の来場所以降の相撲への期待感も高まった。優勝が決まった後の朝青龍の表情やインタビューでのスピーチは、はなやかなスター性があってすばらしかった。
次の東京での五月場所、ぜひ、両国国技館に行かなければ。いまの大相撲は、生で見に行く価値がある。

亀田兄弟の残酷な楽しみ方

昨日、長谷川対ウィラポンのタイトルマッチをテレビで見た。
長谷川はスピードがあり、パンチも多彩で、これこそがボクシングだったのだと見直した。ウィラポンは全盛期は過ぎているのだろうけれど、真っ向勝負を挑み、それが試合を盛り上げていた。
こういう試合を見ると、亀田兄弟も、あわてずにじっくりと育てて、実力がピークになったときに世界タイトルに挑戦ができるようになればいいのにと思う。ボクシングのことはまったくの素人だから、亀田兄弟をきちんと育てれれば、長谷川のような本格的な世界チャンピオンになれる素質があるのかどうかはよくわからない。しかし、彼らは、彼らをスターにするプロジェクトから抜け出すことはできないから、ほんとうに強くなるための試合が組まれることはないだろう。そのことを気の毒に思う。
以前、フィギュアスケートを見る楽しみの一つに、ジャンプを失敗するのを密かに期待して見ることがあると書いた(id:yagian:20051218:p4)。亀田兄弟の試合も、同じような楽しみがある。
ここまでは、彼らが勝てる相手、倒せる相手を選んで試合が組まれてきた。世界タイトルを獲るには、いずれ危険な相手と試合をしなければならない。それに、いかに安全な相手を選んでいても、ボクシングである以上、赤井英和のように万に一つの間違いが起きる可能性もあるだろう。
亀田兄弟の試合のテレビ中継があると、つい見てしまう。それは、いずれ起きるであろう、彼らがマットに倒れる瞬間を見逃したくないと思うからだ。今の彼らは、試合内容そのもののおもしろさより、いつ負ける瞬間がやってくるのかというスリルの方がまさっている。

かのように

しばらく前の記事だが、「夏のひこうき雲」の「正しい信仰とは盲信を強要するものでも理性を制止するものでもない」(id:summercontrail:20060313:Bultmann)を読んで、森鴎外「かのように」(「阿部一族舞姫」(新潮文庫 ISBN:4101020043)所収)を思い出した。相変わらず、少々長いが引用をする。

……一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師に為るためで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来学問をしたものには、宗教家の謂う「信仰」は無い。そう云う人、即ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音を尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家が綺麗に洗い上げた、滓のこびり付いていない教義をも覗いて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。

神学や聖書学は、鴎外がいうように、信仰を持つために必要なものではないように思う。神学を通じて信仰が深まるということはあるのかもしれないけれど、聖書学と信仰はほとんど関係ないのではないか。また、神学や聖書学は、研究の対象となる宗教を信仰していなくとも、可能だろう。人類学者が、ある文化を研究するとき、異文化の観点を持っていることが重要だ。これと同じように、客観性を持った研究をするには、信仰がない者が研究することに意味があるかもしれない。
「原来学問をしたものには、宗教家の謂う「信仰」は無い」とまでは断言できないと思うが、近代以降の実証的な科学に基礎を置く世俗的な教育は、少なくとも信仰を獲得するうえでプラスにならないし、現代の社会は、信仰を獲得したり、深めるために優れた環境とはいえないように思う。
自分自身のことを考えると、宗教や信仰に関心は持っているし、宗教の教義を読むといいことを言っていると思い、共感することも多い。しかし、だからといって、信仰を持つまでには至らないし、信仰までの距離はずいぶん遠いように感じている。
また、「かのように」には、次のようなことも書かれている。

……自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うもののそんざいしなのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大抵世界を相待に見て、絶待の存在しないことを認めているが、それでも絶待があるかのうように考えている。宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神父であるかのように考えると云っている。孔子もずっと古く祭るに在すが如くすと云っている。先祖の霊があるかのうように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立している。即ちかのようにが土台に横たわっているのだね。
……
神が事実ではない。義務が事実ではない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。行為は勿論、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴が出てきたのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。……どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。

鴎外も、なかなか過激なことを書いていると思う。
私自身、ほとんど共感しているのだが、完全に同意してよいか、疑問をぬぐい去れでいる。
最近、このウェブログの中でこだわって書いている「伝統」も、結局、典型的な「かのうように」であるとは思う。すべての「伝統」は「かのうように」だ、と言い切ることはかんたんで、話はすっきりするのであるが、ほんとうにそう言い切ることができるのか、どうしても確信が得られないところがある。
自分自身のなかを探っていくと、確かに、論証不可能な価値観、もっとやさしい言葉で言えば、好き嫌いがある。この好き嫌いは、論理的にいえば「かのように」だろうと思う。しかし、論証不可能な好き嫌いは、自分の気持ちのなかでは、論理的に導き出した結論に比べて、かえって確信の程度が深いのである。なぜ、そうなるのかがわからないと、鴎外の「かのうように」の説に同意できない。
信仰については、自分の体験として語れないので、実際のところはよくわからないけれど、根拠が論証不可能だからこそ信仰は信仰であり、それゆえ重要で貴重なものということなのだろう。そうだとすれば、私が自分の好悪の情も、ある意味、信仰と似ているところもあるように思う。