教育問題のつづき

別に不登校になったりとか、学校が嫌いになるというほどの経験はないけれど、学校というものにあまりなじめなかったような記憶がある。
学園祭やスポーツの大会で、クラスが一致団結してがんばろうといわれても、自分で選んで入ったクラブではなく、たまたま先生がきめたクラスという集団で、なんで団結してがんばらなければいけないのか、うまく理解できなかった。別に学校や先生、クラスに反抗しているというわけではなく、素朴に、不思議に思っていた。クラスという集団に限らず、学校には、いくつか根拠がよくわからない掟があって、それになじめないことが多かった。
今になると、なんで学校にいろいろな掟があるのか、その理由はわかる。要するに、限られたリソースで、多くの児童、生徒を管理しながら教育するために、そういった掟が必要だということだ。そういった掟の大部分は、児童、生徒のためにあるのではなく、学校という制度のためにあるのだ。
教育のためには、必ずしも「学校」という制度が必要なわけではないし、学校外で行われる教育も多い。学校教育の目的には、教科の学習と社会への適応という二つの側面があるのだろう。そのうち、教科の学習のためには、クラスという形態をとる必要はほとんどない。理想的には、進度がそろった少人数のグループで協力しながら学習するのがよいだろう。また、教科によっても適当なグループの人数も違っている。語学の教科を40人のクラスで学習するのは、効果的とは思えない。それでもなお、一律40人のクラスで教科の授業をするのは、「学校」としての管理の都合であるのだろう。
もちろん、「学校」を責めているのではない。文部科学省の決めた基準、限られた予算、人員のなかでは、学校の掟にしたがった管理が必要となるのだろう。しかし、その管理が、さまざまな問題を引き起こしている側面も無視できない。いじめの問題から逃げ場がなくなってしまうの原因のひとつに、クラスが固定されていることがあると思う。クラス単位の管理をやめて、もっと柔軟に授業をしようとすれば、いまの学校では教員の数が足りないだろう。
教育問題の議論を聞いていると、今の学校の体制ではできないことを要求しているように見える。もちろん、学校経営を改善する努力も必要だろうけれども、それ以前に、もっと学校にリソースを与える必要があるのではないだろうか。