昔懐かしい恥ずかしい論文

▼そろそろ心機一転ブログを再開しよう。研究しないとおそろしいことになりそうだ。

過去の自分を思い返すと「うわああああ」と逃げ出したくなるような頭を抱えたくなるような居心地の悪さや気恥ずかしさを感じることがままある。若気の至りってやつ。なんなんかね、この気持ちは。後悔なんかね。ただ、後悔って言うともっと理性的・反省的な語感が強い気がする。


▼それはいいとして。なんでこんなことを言い出すかって言ったら、以前書いた論文(というレベルには至らないが)を読み返す必要があったからで。いやー、恥ずかしくてたまらんね。これは。うわあああああ。足りないものばっかだな。ざっと思いつくだけ指摘しても、

・まずやっぱ抵抗感というテーマがイマイチだったな。実証的・心理学的な話を哲学論文で扱うのは難しい。相性が悪い。ロールズなんかも正義論3部あたりで、発達心理学とか触れて、おおよその人間はこういう傾向性(ex.互恵性)があるから社会は安定するんだよ云々とかやっているけども、説得力は落ちるし。扱うんであれば、もっと慎重に扱わないとダメだな。実験データとか世論調査、法制度等々を広範に調べるべきだった。そもそも抵抗感という語が曖昧だよなぁ。個人的に嫌なだけなのか、第三者的に不当だと考えているのか、熟慮後なのか、熟慮前なのか判別しづらい。
・表現が曖昧だな。もっと解釈の余地を残さない表現を使わないといけない。誤魔化してる・・、というより単に明晰に捉えられてないだけなんだが。
・消極的自由と積極的自由の話をなんでしてないんだ。不干渉権と自己所有権は完全に2つの自由のバリエーションであって、自由に関する文献を読んでいないとかありえないだろ。不干渉権は自己所有権の必要条件であるという見方もナイーブにすぎるかもしれない。積極的自由(自己実現)は、消極的自由をある程度制限して(例えば、財や資源の分配とか教育)成り立つっていうのはよくある話で。身体に対して同じようなゴチャゴチャがあるのかしらんが。
・「眼球くじに対して、拒否する自由を認めるべきだと考える一方で、かつ、抵抗感を抱かないということはありえない」→ダメ。
・「眼球くじにおける候補者の選定方法は、眼球の分配であるからには、眼球に関わる要素をもとにした方法が適切だ」→ダメ。

・そもそも僕自身が直観主義嫌いだから、直観を肯定的に扱うのは得策ではなかった。論文自体というより、自分の思考の志向性・位置づけを把握できていなかった。
・某先輩に言われた通り、自己所有権の正当化の説得力は非常に弱いかなー。自己所有権が程度はわからんけどありそうっていう感じの正当化をしていて、これが自己所有権だ!って感じのことができれば言えたら良い。無理だが。
・某先生に言われた通り、アイデンティティの話もしなきゃいけない・・・かもしれない。でもそっちはあんまり興味ないんだよな。
・某先生に言われ通り、この論文の意義を示せていない。でもこれは力不足、知識不足によるものだよなぁ。まぁ、もっと論争史上における位置づけを把握するという意識をもって研究するべきだっちゅうことかな。


▼ざっとこんなところか。今書き直すとしたらどうするかなー。自己所有権の正当化なんちゅう問題設定自体が無謀かなぁ。第一原理をさらに基礎づけるみたいなもんだからなぁ。自己所有権を認めた方がいい社会ができるじゃんってな帰結主義型。これはでも哲学というより社会の制度設計=政治経済社会学的な話になる。義務論は使い方次第では有効かもしれんね。でもノージック以上の議論は無理かなあうーむ。契約説型もありえそう。ゴティエを読まなきゃだめか。スーエロにも関係ありそうだしな。
 

Sandel, Justice 1〜3章

Sandel,M.J, 2010, Justice, Penguin Books.を読む。日本語ではこれ→「これからの「正義」の話をしよう」

久しぶりの更新です。学会報告、カス等々順次たまったものをうpしていきます。とりあえず今日はサンデル。サンデルブームに乗っかろうキャンペーン!というわけではないけども、今学期はなにかとサンデルとご縁がありますな〜。レビューなんかはアマゾンその他に腐るほどあるので、ざっと紹介と感想をば。


▼紹介
1章は、正義に関して3つのアプローチ(福利、自由、美徳)があってね、トロリー問題があってね、という倫理学の初歩のお話し。2章は、功利主義の話。ベンサム、ミル。3章は、リバタリアニズムの話。ノージック、ウィルトチェンバレン


▼感想
やっぱり話の流れが上手いやね〜。たとえ話の提示が非常に秀逸。倫理学の話って、トロリー問題とか見ればわかるように非現実的で関心が持たれにくい。そこで、現実にあったノンフィクションをもってくると、読んでる側としてもはっとする。そこ大事。見習わなければ。

あと、リバタリアニズムが最初の方で1章分出てくるってのもなかなかアメリカらしいよね。日本だとやっぱカントの義務論の話がまず出てくるところでしょーね。まぁ、あとでカントも出てくるみけど。倫理学の3大アプローチの内の1つが自由=リバタリアニズムと書いたら、カント学者には怒られそうだな。

基本的に一般書(一般読者への紹介)なので、内容的に批判するべきところはほとんどないわけだけど、4つほど。
1.伝統とか慣習を固定的に捉えすぎ。The case without perfectionでもそうだけど。たとえば、今回は2章で、「独身女性が男と夜をともにするのは非道徳的」=「伝統的、慣習的」としてるけど、そんなに伝統的とも言えないだろう。歴史家に怒られそう。今後明確な記述が見当たればいいなぁ。
2.リバタリアニズムを不当に貶めている。そこは藁人形論法かなぁ。3章で、リバタリアンは、自殺幇助、売春、臓器売買等々を認めるはず。果たしてそれでいいんですか?と問うてるわけだけど、そもそもリバタリアンがこれらを認めるかどうかは必ずしも自明ではない。認めるリバタリアンは確かに多いが、リバタリアンも一枚岩ではないからね。例えば、森村進さんなんかは、生命を奪うような臓器売買は認めない。当然自殺幇助も認めないだろう。笠井潔さんなんかも自己奴隷化契約を認めない。おそらく自殺幇助も認めないだろう。ノージック、スタイナーなんかは自己奴隷化契約に肯定的なので、自殺幇助も認めるかもしれない。ナーヴソンなんかは自殺幇助を認める。まとめると、リバタリアンも一枚岩ではないので、もうちょっと丁寧に書いて欲しかったな。
3.強欲=不当としているが、そうでもないだろう。
4.ハリケーンの後、賃上げ禁止が社会全体の効用を増すというところがよくわからんかった。




これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

Justice: What's the Right Thing to Do?

Justice: What's the Right Thing to Do?

カス『治療を超えて』 その1

第3章 優れたパフォーマンス を読む。これも講義で扱っているのでちょっとずつ感想を書いていく。

50頁くらい分量があるけど、内容としては、一言で言える程度のもの。(ある種のバイオテクノロジーのような)人間性や尊厳を冒すようなことはしないようにしようぜ。保守的な、ある意味では非常に常識的な立場を、それなりに異論反論も踏まえて詳しく論じているところは良い。


でも、ひでぇ話だったなぁ。単なる常識の表明なら議論する必要もないわけで。以下、気になった点を。


▼1.人間性や尊厳に関する明確な定義がなされていない。   それっぽい記述だと「積極的で自覚的で自発的な活動主体としての我々の十全な開花(p.151)」とか、「一体となった心と精神と身体の働きを目に見える美しい活動として表現する人間(p.155)」とかあるけど、とてもじゃないが内容がよくわからんやろ。

この手の議論でいつも疑問に思うのは、人間性、尊厳、卓越性等々に関して、(1)定義がわからんこと(上記)と、(2)なぜポジティブな評価を与えるのかがわからんこと。人間性って必ずしも崇高や神聖という性質を備えている場合に使うわけではなくね?人間ってそんな綺麗なもんなんか?ダイエット中にケーキを食べてしまった人間を評して、人間的だねと言ったりするだろ。自堕落な人間も人間的だと思ったりもする。169頁以降でそうした反論も少し扱ってはいるが、とても説得的とは思えない。尊厳という言葉を使えば、まぁ、ポジティブな意味づけを与えても良いと思うが、やっぱり定義がよくわからない。エンハンスメントによってマッチョマンになることは、尊厳を失わせる行為なのか、あるいは、依然として人間である限り尊厳を備え続けるのか?後者であるとすれば、エンハンスメントを規制する根拠にはならない。前者だとすれば、マッチョマンになる人には尊厳がないことになる。シュワちゃんに向かって「あんた尊厳ないよ」とかとでも言うつもりなのだろうか。何様のつもりなのだろうか。尊厳について最も洗練された議論をしているのは誰なんだろう?誰か知ってたら教えてください。

まぁ、他の章で定義がされているかもしれないし、言葉の問題であって、それほど重要ではないかもしれない。保留にしておこう。


▼2.事実と規範を混同させている。   次に問題なのは、意図的なのかどうかは知らないが、「である」を「べき、よい、ねばならない」と混同させているところがある。「そのような〔治療とエンハンスメントの〕境界を設定することによって我われが守ろうとするもの、あるいは守らなければならないものは何なのだろうか(p.142)」
線引きをすることで我々は何かAを守ろうとしており、その守ろうとしているものAは何だろうか。ふむふむ、そこまではわかる。何かを守ろうという目的がなければ、線引きなんてする必要ないもんね(厳密に言えば、「守ろう」としているとは限らないが)。うん。問題はその次。(線引きをすることによって我々は何かBを守らなければならないのであり、その)守らなければならないものBは何だろうか。えっ!?これはおかしくね?
例を変えてみる。我々がパンよりご飯を好むのは、我々が何かBを守らなければならないからである・・・。そんなバカな。我々が賞味期限という線引きを設定するのは、我々が何かBを守らなければならないからである・・・。これはまぁ理解できる。というのも、「賞味期限の設定は健康維持に必要である」⇒「健康は守らなければならない」⇒「賞味期限の設定するのは、我々が健康(B)を守らなければならないからである」という論証であって、暗黙の前提となっている真ん中の前提が一般的には正しいからである。

もちろん、論理学的に言えば、「あるいは」以降の部分は意味をなさないとしても文章全体の真偽が変わるわけではない(ex.ドラえもんは、ロボットであるか、あるいは食べ物である)。が、まぁ、一般的な文章の記述としてはミスリーディングだよね。


174頁でも、「尊厳を持つことは人間的である」から「尊厳を持つ方がよい」を導いている。ここでも「人間的」の曖昧さにつけ込んでいる。この路線で論証するためには、「尊厳は人間的である」⇒「人間的であることは良い」⇒「尊厳が良い」とすべきであって、真ん中の論証が抜けている。人間性・尊厳というブラックボックスから都合の良い主張ばっか引っ張り出して来やがって。人間性を定義しないつけがここにも回ってきている。むしろ僕が知りたい&彼らが彼らの主張に説得力を持たせるために示すべきなのは、その真ん中の部分の論証だろう。

まぁ、この辺りは翻訳の問題ということもありえるかもしれない。原著を手に入れてから考えることとする。保留。


▼3.批判者に対する説得力が皆無である。社会的な規範たりえない。   ここが最も問題だろう。確かに尊厳(←カスらの言う、エンハンスメントを規制しうる意味での尊厳)をもって生きたいという人はカスらの主張に賛同するだろうし、実際にそういう人も多いだろう。僕も当面はマッチョマンになりたいとは思っていないし、尊厳をもった人生を生きたいさね、そりゃあね。しかし、そうではない人もたくさんいるだろう。尊厳?知ったこっちゃない。俺はマッチョになることに命賭けてるんだ。邪魔をするな。
実際、カスらも「人間の活動と人間の尊厳についてのはなはだ哲学的な捉え方が必ずしもすべての人に対して説得力を持つわけではないということは十分に理解できることである(p.179)」と述べている。だが、批判者に対して(さえも)説得力を持たせようという目的を放棄してしまったとしたら、その主張にいったい何の意義があるのか?彼らの目的は何なのか。単に意見を決めかねている人々の浮動票を手に入れたいだけなのか。大統領生命倫理評議会報告書たるものが?

まぁ、はじめに辺りを読めば、目的については書いてあるかもしれない。保留にしておこう。

共同体主義保守主義とはやっぱりそりが合わないね・・(´・ω・`)。

サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由』 その1

サンデル(2010)(林芳紀他訳)『完全な人間を目指さなくてもよい理由』ナカニシヤ出版
を授業で読んでいるので、ちょっとずつ感想を書いていく。

アメリカで聾の親が聾の子供を作ろうとする話が物議を醸した話から入って、身長・記憶力・性選択・筋力増強に関するエンハンスメントのさわり。安全性・公平性・パーソンなど生命倫理学の常套的な困難を仮にクリアしたとしても、これらに対して忌避感を感じるとすれば、それはなぜだろうか?


▼邦題
この邦題はどうなんでしょうかね〜。原題は、The case against perfection。2点だけ気になった。その1。Perfectionを「完全な人間」と言ってしまうのは、ややミスリーティングだと思う。講義中に某氏が言ってたけど、客観的な能力を表す「完全性」であって、評価用語としての「完全な」ではないはず。つまり、このパーフェクションは、例えば、筋肉モリモリのマッチョマンになることとか、IQがどえらい天才になるとか、超絶イケメンになることとか、あくまでそれ自体は客観的な能力を表す完全性だと思う。それに対して、完全な人間と言ってしまうと、少なくとも私は、聖人君子的な者を第1に想像してしまうんですよね。慈愛にあふれた善い人間の最高の形が完全な人間であるというような。邦題だと、善人にならなくてもよいっていうような誤解を与えてしまいかねない。少なくともそういう意味も含まれてしまうとは思う。確かに、「完全な人間」は、何についても完璧にこなす人という意味もあって、その場合当然上で触れた能力としての完全性も含まれるとは思うが。両者の違いを別な言い方にすれば、サンデルなんかは「(能力的には)完全な人間」を目指さないことこそが「(人格的に)完全な人間」に近づく方法であるって言いたいんじゃないかなぁなんて思う。

その2。で、もう1点は、againstを「目指さなくてもよい」としているところ。(英語に明るくないから間違っていたら申し訳ないんですが、)againstは「目指すべきではない」というような意味なんじゃないんかな。「目指さなくてもよい」としてしまうと、じゃあ、「目指してもいい」のかい?となると思うんですが、サンデルは「いやいや、やっぱり目指すべきじゃないんだよ」と言うような気がするんだよね。つまり、許可canの話をしたいんじゃなくて、当為shouldの話をしたいんじゃないかな。

私だったら、素直に『完全性に対する反論』ってしたいところ。まぁ、邦題については最後まで読み切ってもう1回考えよう。



▼社会に対する義務
某氏は社会に対する義務(聾の子供を生めば社会に負担(少なくとも金銭的負担)を強いるから)を考えると、聾の子供を生むべきではないというようなことを言っていた。それに対して、じゃあ、金持ちなら生んでも良いのか?、あるいは、聾ではなくて、ガンになる可能性が高い子供を生むべきではないのか?と疑問を呈されていた。その疑問ももっともで、検討しなくちゃいけないと思う。

ただ、私が気になるのは、別のところにある。社会に対する義務がどっから出てくるのか。例えば、我々の社会、現代日本においては、障害者に対する援助は間違いなくある。聾の子供を生めば、社会は援助するだろう。そのことに対して苦々しく思う人もいるはず。そこで、だ。勘違いしてはならないのは、解決の方法は2つあるっていうこと。1つは、個人を変えること。即ち、聾の子供を(少なくとも意図的には)生むな、ということ。確かに、こういう方法も考えられる。冒頭の某氏はこういうのだろう。でも、もう1つ方法があるはず。それは、社会の方を変えるということ。彼らは、(少なくとも意図的に)聾を生んだ家庭に対しては援助をしないという社会制度を(少なくとも理屈の上では)作り出すことができる。(もちろん、この2つの方法は、あくまで苦々しく思った場合の話であって、むしろもっと援助するべきだという人も多くいるとは思う。)

前者は、社会の存在を第一義的に認め、個人は社会に合わせて生きるべきだと言う。”我々(健常者)”の負担を減らすために、”あなた方(聾)”は我慢するべきだと言う。多数派は、多数派の利益を維持するために、少数派の(消極的)自由を制限しようとする。後者は、個人の存在を第一義的に認め、社会は個人に合わせて作られるべきだと言う。”我々(健常者)”は”あなた方(聾)”の選択を尊重すると言う。ただし、その為の援助は我々は負担したくないと言う。多数派は、多数派の行動を多数派の利益を維持するために、多数派自身の行動を変えるのであって、少数派の(消極的)自由を制限するわけではない。

色々論点がある。社会の存在と個人の存在はどちらが優先されるべきか。後者の策では、「消極的自由」(干渉されないという自由)は尊重されているが「積極的自由」(したいことができるという自由)は尊重されていない。それは選択の自由を尊重したと言えるのか。これは、自己所有権の議論でも意味があるところで、身体に対する完全な所有権(消極的自由、干渉されない自由)があったとしても、外界物に対して一切の権利をもたないとしたら、我々はほとんど何もできない。例えば、食物を食べることも、歩くことも外界物に対する使用権を前提にしている。外界物に依らずにできるのは、ただ死にいくことだけ。つまり、消極的自由のみを確保するだけでは、何もできない。それは自由か。リバタリアンはこれに答えないといけない。立岩真也さんと、Eric Mackさんを読もう。

ゴッホの絵の所有者なんですけど、燃やしていいですかぁ?

この問いに対して、多くの人は「燃やしていい」と答えるだろうとした上で、続けてこのように述べられている。

たしかにそのゴッホの絵は彼の所有物である。だから国家に寄付するのも、さらに高く売るのも、やすく売るのも彼の自由である。しかし、ゴッホの絵の作品としての価値は「公共財」(public goods)である。 加藤尚武『合意形成とルールの倫理学』 p.191

狭義の自己所有権(狭義SO)を考える上で、所有権の定義を明確にしないといけない。副ボスからそんな指摘を受ける。所有権に処分権は必然的に含まれるのか。それとも、処分権のない所有権も成立するのか。これはこれで考え出したら手に負えなくなりそうだなぁ。
所有権に関する哲学的議論で必ず取り上げられるオノレはリベラルな所有権の要素を11挙げていて、その内に当然所有権も含まれる。ただし、ややこしいかつ重要なのは、全ての要素が成立していなくても所有権は成立していると言うのよね〜。家族的類似性みたいな。だから、オノレ的には、処分権がなくても他の多くの要素を満たしていれば、それは所有権だと言えるはず。狭義SO限定すると、コーエンも森村も処分権のところは取り立てて説明しているわけではないしな。

処分権ではないけど、所有権を持ちながら、ある種の使用が制限されることは往々にしてある。景観保護のため、高層マンションを禁止する。まことちゃんハウスも似たような例。こういうのはどういう正当化の論理なんだろうか。

こういう使用制限を認めてしまっていいのんかなぁ。極論を言えば(あくまで極論ですよ!)、この制限を認める方向性を推し進めると、「ブサイクは整形しろ」ってことになると思うのよね。まさに容姿的な景観保護の名の下で。もちろん、生来性とか忌避感の差とか色々ハードルはあるけれども。やっぱり外的選好をもとに何かを禁止してはならんと思う。話は変わりますが、この間帰宅中、ゲイがチューしてるのを見たんですよ。そらぁビックリですよ。別に否定的な意味ではなく、単にそういうのを見る機会がないという意味でね。私個人は同性愛とか全然構わないけど、こういうのも公共性ゆえに不快感を感じる人が多ければ禁止されてしかるべき?

加藤「身体を所有しない奴隷」  奴隷でもなく自己所有者でもなく

加藤秀一(2001)「身体を所有しない奴隷―身体への自己決定権の擁護―」『思想』922を読む。

自己身体にかんする所有権は、私がこの私としての存在を享受するための条件をなす・・・しかし他方、所有(権)という概念の本質に含まれる譲渡や移転の可能性は、<私の身体>が<私のモノ>でなくなるという事態を潜在的に想定している。 p.123


このようなディレンマを回避しつつ、なお<私の身体>という水準を確保する方法は一つしかない。すなわち、譲渡や移転の可能性に先立たれた所有権という概念によってではなく、それを端的に認めることである。 p.124


とてもおもしろい論文だった。社会学者って哲学者以上に哲学者っぽいこと考えるなぁ。立岩真也然り。この2人だけなのか、そうじゃないのか。立岩さんより文章表現が読みやすい。他の著作も読む価値は大いにありそう。

内容について。奴隷であること(強制的奴隷)を回避するためには、自己所有権を言う必要がある。その一方で、自己所有権を言うことは、奴隷となる道(自己奴隷化契約)を開くことになる。ここにジレンマがある。

2通りの解決の仕方がある。1つは、あくまで自己所有権に執着する。(一部の)リバタリアン的な回答。それは見せかけのジレンマであって、ジレンマではない。自己所有者として、自由意思でもって自ら奴隷になるのならばそれは一向に構わない。ノージック的な見方。  あるいは、自己所有権を支持しながら、別の論拠で自己奴隷化を否定する考え方もありえる。森村進的な見方。  あるいは、自己所有権という概念自体が自己奴隷化を容認し得ないという笠井潔的な見方(これは無理があると思うが)。

もう1つは、加藤さんの言うように、自己所有権を諦めて、別の論拠から強制的奴隷回避を望む。例えば、加藤さんは(従来の自己決定権とは違う水準の)自己決定権という論拠を挙げる。ただ、やっぱり基礎づけが難しいところよね。「端的に認める」なんて超弩級の難題をどう克服するのか。「俺は認めない」というリバタリアンに対していったい何を言い得るのか、って言うのがね。とても常識的な大人な考え方だとは思うのだけど。