連休の記録その2



深大寺鬼燈まつりへ。
本堂にお参りした後、手作り市や猿回しなどのパフォーマンスを見て(猿回し、楽しかった)、一休庵で天ぷらそばを食べて(天ぷら、美味しかった)、ほおずきは浅草で買ってしまっているから、参道をぶらぶらする。陶磁器のお店で信楽焼の蛙を見掛け、実家の庭の灯篭の中に置いてあったのが子どもの頃とても好きで、毎朝柄杓で水を掛けていたと話したら、同居人が小さいのを買ってくれた。帰って居間に飾るといい気分。

生きうつしのプリマ



これ、好きだなあ。予告からは想像できないけど、人が死んでりゃ横溝正史、という筋立てにも関わらず、遠くから見れば悲劇も…じゃない、渦中の主人公ゾフィ(カッチャ・リーマン)が終盤には吹き出しちゃうんだもの。私も勿論、笑ってしまった。


色々な線で結ばれた(それらは全て「男と女」由来である)六人が食卓で「未来」と「過去」に乾杯し、娘が「彼女はもう、誰のものでもない」と歌い、「死んでやる」「殺してやる」と脅しあった男同士から解放されたその母がようやくの笑顔を見せる。生きている女達は新しい歌を歌うようになるだろう。ベタな言い方だけど「人生賛歌」なんだな。


オープニング、花束をシートに、鼻唄混じりに車を走らせる老いた男。スクリーンの中で車が走るのは、ミラーや窓に映り込む風景のせいか、何か、例えば「時の流れ」に逆らって進んでいるようにも見えるのが面白いと思っていたら、作中何度も出てくるその道を各々が車でゆく時、彼らは確かに過去へと遡る。一人だけその道を辿らないのは、ずっとそこに住んでいる者である。


死んだエヴェリンに「生き写し」のカタリーナ(バルバラ・スコヴァ二役)の、「生きている」感が強いのが心に残る。父親(マティアス・ハービッヒ)に頼まれゾフィが彼女に会いに発つ時、二人が見た記事のカタリーナの写真がスクリーンに大写しになると、画素の荒い、いかにも「記事の写真」なのに、なぜか今にも動き出しそうなのだ。後に父とゾフィが見る、彼女が歌う映像の顔のアップも凄い(としか言い様が無い)。


ゾフィがすぐ男に目を付けられるのも印象的。ニューヨークで通りすがりの男に声を掛けられるという、一見「意味」のない場面が二度、更にはカタリーナに近付くのも「男」頼みだ(いい男なので「渡りに乗りたくなるような船が来た」という感じ)。これは家族というものの根っこの多くがそうした「男と女」にあるということの示唆だと受け取った。「彼女は近寄りがたいが君は違う」「ありがとう」とは(何て失礼なやつだ!と思うけど)含蓄あるやりとり。

ビヘイビア



「カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016」にて観賞。アルコール中毒の母親と暮らす少年チャラ(アルマンドバルデスフレイレ)と、彼が慕うベテラン教師カルメラ(アリーナ・ロドリゲス)の時間を描く、2014年キューバ作品。鮮烈というんじゃない、地に足のついた映画だった。


オープニング、屋上で鳩と犬の世話をし、下に「先生」を見つけ声を掛け、部屋に戻り制服のスカーフを手に急いで出掛けるチャラの様子から、(後にカルメラいわく)「机にパンをのせているのは彼」であることが分かる。しかし子どもだからようやくお金を作っても電気代が払えなかったり、母親がセックスしているのに遭遇して家に居られなくなったりする。


カルメラいわく「子ども達は(教員免許を取って50年たつ)私よりも弱い存在なのです、かつて世の中はもっと単純でしたが、今はそうでなく、私に出来るのは、何に近付いてはいけないかを教えることだけです」。(時系列順にはこれは終盤の出来事だが)この場面に続くのは、チャラが同じクラスの女子生徒イェニを「俺の女になれば守ってやる、もう誰もいじめない」と口説いて装飾品をやる場面(イェニは「喜ぶと思ってるの?」)と、飼っている闘犬を連れてカルメラの住居を訪ね「用は無いか」と聞く場面(カルメラは「犬を連れている時に会いたくない」)。これらにまさに、教員が何から子どもを守らなねばならないかが表れている。


外国の映画は乗り物を見るのが楽しいものだけど、これもそう。ごつい高架の上をのろのろがたがた走るごつい列車が何度も映る。高架の横を毎日行き来するイェニ親子の、市場で働くための、荷車に自転車をくっつけた乗り物や、車道を走る、馬にうまいことベンチを引かせている乗り物などの手作り感がいい。列車のでかい車輪の向こうに少年達が歩いているのを捉えたショットが面白いと思っていたら、その後、彼らにとっての「列車」の意味が分かる。きらきらと「コマ」(ネジ)が降ってくる光景は、美しいというより何とも妙に心をかき乱す。


顔立ちも体も美しいチャラ(面差しにはベン・スティラーブラッドリー・クーパーとを備えているふうに見えた・笑)は、襟を立て前をはだけた格好、やることなすこと、全てが「男」である。役者である少年の素なのか演技なのか分からないけれど、「男」と「女」がはっきり分かれている(日本とはまた違うふうに、そのように見える)この「社会」の反映のように思われ、それが彼らを、また遠くに生きる私をも苦しめていることが分かっていながら、その「男」の部分に惹かれてしまう。


それは、タクシーの中でチャラに「本当のおばあちゃんだったらいいのに」と言われちょこっと顔をほころばせるカルメラ、あるいは高価な扇子をもらい「きれいだよ」と言われ微笑むイェニの気持ちに少し通じるのかもしれない。きっちりと距離を置き思ったことを言う、大人のカルメラは当然としても、少女の偉いこと。キスときて、最後は抱擁なのだ、やっぱり。