平日の記録


苺の新商品。
左上から時計回りに、久々に立ち寄ったミスドにて、半々の形が面白いなと手にしたポン・デ&イーストドーナツ、の苺版。餅が苦手なので「モチモチ」もダメだけどつい買ってしまった。
カフェドクリエでは苺とヨーグルトムースのケーキ、エクセルシオールカフェでは「とちおとめの苺クリーミーロール」。
カフェ珈琲館では、苺風味のアーモンドミルクフロスティ。一見毒々しいけど「自然」な感じで美味しく飲み干せた。

細い目



シアター・イメージフォーラムにて開催中のヤスミン・アフマド特集で、2004年に制作された監督二作目を観賞。


映画が始まると、中華系の少年が母親に詩を読んでいる。「どこの人が書いたと思う?インドだよ」「言葉も文化も違うのに気持ちが伝わってくる、不思議ね」とは(「映画」についても言えることだから)面白いオープニングだと思っていたら、話が進むにつれ、「いい子だからではなく、ただ我が子だから愛している」という詩の内容や、「この詩人はもう亡くなった」に対する母親の反応などが喜劇的に、あるいは悲劇的に思い出されてならなくなるのだった。


少女、主人公であるマレー系のオーキッドも本を読む。自分の本を気まぐれに開いて見ている親友にその内容を説明する。「植民地が被植民地にどのような心理的影響を及ぼしてきたか」というものだが、こちらでは、木の階段を下りてゆく二人の少女の黒髪を真上から撮った画や、その後に家の中を動き回る様子に心奪われ、彼女が語るその内容が耳に入らない。しかしこちらも、話が進むにつれその意味が、重くはないが確かにのしかかってくる。


英語の字幕と日本語の字幕を比べながら見ていたんだけど、私は英語はよく分からないけど、たった二言語間でもニュアンスが違う。そう思う時、この映画が「言葉が違っても心が伝わる」という話に始まることや、「翻訳してもロマンスは無くさないで」なんてオーキッドが言っていたことが蘇る。彼女が大好きなジェイソンとの会話においても彼の言葉の始めの方を怪訝そうに聞いているのが面白く、日本人の女の子とは違うなと思ったものだけど、もしかしたら共通語である英語を掴むためかもしれない。あるいはああいう顔付きを表す、「怪訝」とは違う意味の言葉があちらにはあるのかもしれない。


オーキッドは自分の体を了解無しに触りまくったボーイフレンドに対し「英語の成績も悪いエセ白人、無教養を晒すな」とちょっとした啖呵を切る。ここでは誰とでも話せる、共通語である英語を学ぶ事が意欲や思いやりの表出に即、繋がる。相手が中華系と見るや中国語を使ってもみるオーキッドは、更に「一歩踏み込む」タイプであることも分かる。彼女の母親とお手伝いさんが、中国(語)のドラマを字幕頼りに楽しんでいる図なども面白い(喋りかけてくる夫に「セリフが聞こえない」と言い「何言ってるか分からないのに」と返され憤慨する・笑)


今回の特集にあたり、「金城武が大好きな主人公」という紹介文に惹かれてこの作品から見たんだけど、彼はいわば話の導入だった。とある世代の日本人の私にとって、今振り返れば金城武は「国際的」なスターだが、あのマレーシアにあっては特にそうした意味はないのかもしれない。ジェイソンは「恋する惑星」のVCDに自分の電話番号を添えて渡すが、多言語の飛び交うこの映画にそんな場面があると、「恋する惑星」で金城武が何か国語もを話す場面が見たくなった(笑)

ラブン/ムアラフ


ヤスミン・アフマド特集にて、更に後日、時間の合った二作を観賞。いずれも先の「細い目」(2004)と比べながら見てしまった。



▼「ラブン」は2003年の監督一作目。「オーキッドが初登場する」程度の情報で見始めたところ、彼女は殆ど出てこず、メインはその両親だった。定年退職し悠々自適の夫婦は田舎に持っている家を改築中で、「お隣さんの息子に仕事を頼んでお金を払えばそれこそ鍵をかけなくたって安全」との認識だが、当のイスラム系の青年はお金に困っていることもあり、彼らを「金持ちマレー人め」と憎む(「今の私」にすれば、彼の事情は相手の気持ちを確認しない求婚が発端という釈然としないものである)。作中「家」が何度も映るが、青年が継母と暮らす家がある朝違うアングルで映った時にははっとした。


本作を見るとアフマド監督が音楽を好いていることが分かる。怖くて暗闇に投げ付けた棒切れが愛する人を傷つけてしまった時も(笑いが起こっていたが随分と示唆的な場面だと思った)、そこには音楽が現れる。「月の光」が延々と流れるラストシーンは、「細い目」同様いかようにも解釈できる。私は「細い目」のラストは「彼女と彼が会話している」、本作のそれは「夢」だと受け取った。それは、私が生死の壁よりも人の心の壁の方が大きいと思っているということだろうか?ともあれ彼女の映画には現実と夢とがパイ生地のように層を成している。


「細い目」の際、見たばかりということもあり「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(感想)を思い出したものだけど、本作には「タイ系の父親が好きで」エルヴィスと名付けられた(母親は中国系の)青年が出てくる。その父親とは「クーリンチェ」の彼らくらいの年代だろうか?アジア中に散らばったエルヴィスの種を感じた。映画としては、「クーリンチェ」にもアフマド作品にも「映画ではこうあって欲しい」女性が描かれていると言える。願う者が違うとこうも違うのかという例だ。



▼「ムアラフ」は2007年の監督五作目。一人の青年と一人の女性(「青年」にあたる、女性を表す言葉が無いのは困ったものだ)の出掛けを交互に見せていたかと思いきや、彼の車の前に彼女のバイクが割り込むというオープニング。アフマド監督の映画に出てくる女性は皆「飛ばし屋」で、この映画の姉妹の姉アニもそうである。一方妹アナの通う学校の教員ブライアンは、遠く離れた実家から乗ってきているのであろう大きな車をのろのろ走らせる。そうしていた理由(と、彼の決意)が分かるラストシーンにはほろりとさせられる。


こちらで「クーリンチェ」を思い出させるのは、学校の授業とそれに反発するアナの姿である。ここで教師が「黒板に描いた象の絵を模写させている」というのも(「象」であるということをさておいても)面白い。図画工作でどのようなものをどのように学ばせるかに、その時の国の姿勢が表れるからだ(尤もマレーシアではそうした見方は通用しないのかな?)。更に面白いのはアニが「理解出来ないことを口に出すのはよくない」と諭すと、アナは「そうすれば周りの大人が教えてくれる、(大学教授であり亡くなった)ママは教えてくれた」と主張することだ。しかし実際の学校の先生は、彼女の暗記をすごいすごいとはしゃいで褒めるのみなんだから情けない。


本作にはこれより前に作られた二作には無かった視点がある。この姉妹や以前の作品に出てくるオーキッド達は私からすると「普通」だが、本作で朝食を食べに出向いた先の男性店員は姉妹を「変わっている」と言う(同時に「(アニを)ものにする」とも言う)。ここへきて初めて、監督の描いてきた女達は「この社会では普通ではない部類だ」と明かされる。それでは姉妹が安住の地を求めて逃げる原因となった、父親はどうだろう?父親の暴力が何かの象徴ならば、それを「父親の暴力」には象徴させて欲しくなかった、というのが正直なところだ。それにしても、アニの仕事仲間が彼の手下に危害を加えられると分かった時に「最低な男ね」と言う場面が非常に(このカットでは彼女が何を見ているかまだ分からないというちょっとした演出も含めて)鮮烈だった。