夏の夜の人々



アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画」にて観賞。1948年、ヴァレンティン・ヴァーラ監督作品。原作は、アキが映画化した「白い花びら」の作者ユハニ・アホとも交流のあったフランス・エーミル・シランペーの同名小説。
とても好みの映画だったけれど、オープニングの意味がよく分からなかった。田舎道を猛スピードで走ってくる車の排気ガスだか土埃だかによって枯れてしまった草木の画に、舞台となる村の健やかな草木の画が続く。この意味するところは、私には、「現代人」は見捨てていいものと青年いわくの「汚してはいけない神聖な」ものとを分けているということに思われたのだけど、それで「正解」なんだろうか。


本人いわく「莫大な借金」と何人もの子を抱えて男達に酒、借り主に体を売っている女がいる。仕事に来ている(後に木こりと分かる)が村人と顔を合わせるのを嫌がる、見るからに他の男とは違う青年がいる。わざと女を誘ってみせるが、現れた男に「君の恋人かい」と言うと「そうだとしても他に女はたくさんいる」と返される。これが、彼が身に付けなければとあがくが身に付かないマチズモだろうか。
リーフレットによるとフィンランド初のホモセクシュアルの役と言われるこのノキアを演じた役者さんがユッシ主演男優賞を受賞したとのことなので、彼が群像劇の中心なのだろうか。見ながら確かにそう思った。70年前のことだから、彼は物語の外でも中でも「悲劇の同性愛者」である。朝陽の川辺に立つ恋人同士が「全てはこの時のためにあった」と家へ帰るラストシーンに、彼のことを振り返らずにはいられなかった。


白夜の風景の数々を捉えたカメラが最後に引いていくと窓枠が映り、部屋の中だと分かるショットがとても美しい(その後、窓辺で恋人同士が愛を語らう)。単純なことだけど、白夜こそ、あって欲しい北欧映画の要素だろう。行ったことのない者には「見られない」んだから。
白夜の「朝」は、鳥のさえずりに始まり動物や植物の映像で表現される。こうしたショットはアキのモノクロの映画にもあるから、動物や植物の生命とはカラーに近い要素を持つのかもしれないと考えた。作中の動物は野生や家畜だが、唯一猫だけがそのどちらでもなく可愛がられているのに、猫の特別性を思った(笑)

白いトナカイ



アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画」にて観賞。1952年、エーリック・ブロンベリ監督作品。
リーフレットによると神話が元だそうで、オープニングにそれを歌う曲が流れる。「生まれながらの魔女」の死までが語られるが、そうと分かって見ても悲壮感はない。魔女の性が現れている時には眉がトナカイのつのの形になってるのがいい(笑)犬も可愛く、楽しく見た。


フィンランドが舞台の「夏の夜の人々」の村のダンスに「サーミの血」の祭りを思い出したものだけど、この映画を見ると、やはりラップランドは「フィンランド」ではないのだと思わされる。「魔女なんてライフルで撃ってやる」と豪語する男が「南から来た奴には分からない」と言われていたけれど、あの「森番」はフィンランドから来たのだろうか。
「夏の夜の人々」と本作は、私としては「窓枠」つながりでもある。こちらも窓枠の出てくるショットがいい。その影が濃くなることで月がくっきり姿を現したと示される。あらがえず、一人寝のピリタは白いトナカイに変わる。


トナカイレースで競い合い皆から離れた二人がふと見つめ合い、「結婚しよう」となる冒頭からしばらく、トナカイと共にある愛の暮らしの描写がとてもいい。捕まえたはぐれトナカイにスキーをつけて群れの夫の元へ滑っていくあの多幸感たるや、どんなだろうと想像した。夫がトナカイを連れて留守にする時は、いつまでも、いつまでも、いつまでも見送る。
しかし彼女が、あたりをよく見渡して「祭壇」の存在に気付く、巨大なトナカイを精霊として崇めるその前に、幾人もがトナカイを生け贄にした跡がある、そこから変わってゆく。ここから繰り返される、「呪いのテーマ」とでも言うエキゾチックな曲が耳から離れない。全編に渡って音楽も素晴らしかった。



特集上映をコンプリートしたのは初めて。頑張った!(笑)単純なことだけど、アキがこれ、見て、好きで、選んだんだと思うだけでまず見てて楽しかった。アキにも映画館にもありがとう。