週末の記録



新宿区長選挙の投票へ。静かだと思いきややはり投票率は30パーセントを切っていた。これからもいつも行く。
映画のチケットを取りに恵比寿ガーデンプレイスに立ち寄る。他の飾りに比べたら地味だけど可愛いリースの後ろで写真を一枚。
国立新美術館で開催中の東山魁夷展を見る。とてもよかった。障壁画の再現展示も圧巻だけど、冒頭の「国民的風景」の素敵なこと。
六本木から外苑前まで歩いて、来週からのいちょう祭りに備えて色づきをチェック。かなり色が変わっていた。もうほんとに秋だ。

パグ・アクチュアリー



「のむコレ」にて観賞。パグが出てくるからこの邦題って(原題はその犬の名前「Patrick」)なんだそりゃと思いつつ見に行ったらとてもよかった。主人公サラが祖母の葬儀で形見のパグを見ての開口一番は「ridiculous」。映画の最後にふとこの言葉を思い出す。何て馬鹿馬鹿しいんだと。でもって何て素晴らしいんだと。


映画はサラが犬を飼い始めるのと国語教師として働き始めるのが同時進行する。まず彼女は生あるものを無下にできない。パグの素行に手を焼きシェルターにやるよ!と言ったところで絶対そうしない。でもってEnglishという教科が好き。合わせて先生に向いている。あんなにうまくいくわけないけれど、学校映画としても悪くない。


新しいことを始めると、人との関わりにより世界がひろがってゆく。映画とは概ねそういうものだが(考えたら現実だってそうだが)、この映画の無茶にも近い、それこそパグの突進のような前進具合は爽快だ。何と言っても、嫌な人にここが嫌だときちんと言うと相手が後日それを謝って直して仲直り、というなかなかない要素がよかった。


ちなみに本作でパグがやるのと全く同じことを、同じ意味合いで、同じロンドン映画の「輝ける人生」のラストシーンでイメルダ・スタウントンがやっていた(笑)あの映画では彼女が次第にとんでもない美女に見えてきたものだが、こちらの映画ではそんなことは起こらない。別に全然楽しいし、そういう映画って好きだ。

マンディ 地獄のロード・ウォリアー



薬の一滴、針の一刺し、自分を見てほしいけれど何をどう見るかは制御したい。男の「お前が私を呼んだ(!)」「私はお前のことを理解している、お前も私のことを理解するだろう」「私は得られるべきものを得られなかった」なんて言葉が世界に蔓延する悪としてはっきり立ち上がってくるのは、昔の映画もそうだったのか、あるいは今の映画を今の私が見ているからなのか。


アンドレア・ライズボロー演じるマンディは登場時とラストのニコラス・ケイジの想像内においてモトリーのTシャツを着ている。80年代に子どもだった私はロックバンドのファンの女のファッションには二種類あると思っていた。彼らに性的に求められるのを目指すか仲間になるのを目指すか。特にモトリーのようなバンドの場合、後者は土台無理だし概ね前者になる。そのどちらでもない、ああいう格好をするのは自己が確立した大人の女。マンディはそういう女だから殺された。私にはそういう話に思われた。しかしそういう話、つまりマンディの話だとすると、ニコラス・ケイジは一体何なのか?


知人のメタルファンはカーペンターズが好きだったものだ。「カーペンターズもいいけど…」と曲を聞かされたマンディが笑うのは趣味の違いなどではなく、あれが「本物じゃない、何でもない」から。旧友との会話において、ニコラス・ケイジははっきりと「カルト集団だ」と口にする。無い方がいわば粋に違いないのに、こう断言することで、全編を彩る戯言が戯言でしかない、マンディのように笑い飛ばすべきものなのだということが強調される。そうしたことにより殺されるなら、満身創痍でこちらも戯言を駆使して挑むしかない。ケイジの役どころはそれである、一応。