作品メモランダム このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-12-05 ロンドン王立協会に関する資料

[][][]ロンドン王立協会に関する資料 ロンドン王立協会に関する資料を含むブックマーク ロンドン王立協会に関する資料のブックマークコメント


自然科学における文章の文体(スタイル)は、どのようにして現在のようになったのか。このことを考えるために、目下、王立協会に注目しています。17世紀半ばのイギリスでつくられた学術集団です。


ロンドン王立協会(Royal Society of London)について知るうえで、いくつか重要な文献があります。一つは、同協会が発行している雑誌『Philosophical Transactions』です。誌名に「哲学」という語が入っていることに注目しておきたいと思います。ここで「哲学」とは、元来の広い意味で使われています。つまり、この宇宙や世界について知識を求める学問を指しているわけです。『Philosophical Transactions』とは、会員たちが新たな学問(science)的な発見の情報を交換(transaction)しあう場という次第。そういえば、寺田寅彦も愛読していた雑誌です。


ありがたいことに、近頃、ロンドン王立協会では、同誌の1665年から2005年までのバックナンバーを無料で公開し始めました。これを端から読んでいけば、同協会の活動の様子を垣間見ることができます。


⇒Royal Society journal archive made permanently free to access

 http://royalsocietypublishing.org/site/authors/free-archive.xhtml


⇒Philosophical Transactions 1665-1887

 http://rstl.royalsocietypublishing.org/content/by/year


 また、同協会の歴史を綴った書物があります。古いものは、Google Booksなどで閲覧できます。以下にいくつかリンクを張っておきましょう。


★Thomas Sprat, The History of the Royal Society of London, the improving of natural knowledge (1667)

 http://books.google.co.jp/books?id=g30OAAAAQAAJ&hl=ja


★ Thomas Birch, The history of the Royal Society of London for improving of natural knowledge from its first rise, in which the most considerable of those papers communicated to the Society, which have hitherto not been published, are inserted as a supplement to the Philosophical Transactions (2vols., 1756)

 http://books.google.co.jp/books?id=e2EVAAAAQAAJ&hl=ja


★Thomas Thomson, History of the Royal Society: from its institution to the end of the eighteenth (1812)

 http://books.google.co.jp/books?id=nqjjR4Qt9IgC&hl=ja


★Charles Richard Weld, Charles Richard Weld, A history of the Royal Society: with memoirs of the presidents (2vols., 1848)

 http://books.google.co.jp/books?id=mQIBAAAAYAAJ&dq


まだ全部は読んでいませんが、上から三つ目に掲げたトーマス・トムソンの本は、同協会の沿革から始まって、学問の分野別にまとめてあるため、とても読みやすいです。

2011-12-03

[][][][][]日本における辞典と事典の歴史 日本における辞典と事典の歴史を含むブックマーク 日本における辞典と事典の歴史のブックマークコメント


目下は、もっぱら二つのテーマを追跡しています。一つは、ロンドン王立協会について。もう一つは字典・辞典・事典の歴史。備忘録を兼ねて、手にした本などのことを記してゆこうと思います。


杉本つとむ『日本語講座3 辞典・事典の世界』(桜楓社、1979/06、ISBN:B000J8G33G


本書の巻頭に見える「日本の辞典・事典の歴史」は、タイトルの通りその歴史を辿り、概要を脳裏に描く上で大変有益です。主に江戸の終わり辺りまでを凝縮して論じています。


辞書は、その時代の文化や社会を言葉の面で反映する器のようなものでもあります。それだけに「辞典の編集・研究の跡をたどってみると、おのずから日本文化の本質や構造を知ることができると思う。辞典は文化でありそのもっとも象徴的な存在である」(同書、まえがき)と言えましょう。


また、面白いことに辞書をいろいろ見てゆくと、各種の書物や辞書からの抜き書きを集めたものであることも少なくありません。「こんな言葉の使い方をした人がいた」という事実の記録でもあり、厖大な文書から他ならぬその文章を選んで集めた編纂者のものの見方の記録でもあります。


さて、杉本さんの同書は以下のような目次です。


口絵写真(4ページ)

まえがき

一 日本の辞典・事典の歴史――辞書史のための試論

二 『早大本 節用集』の考察――『節用集』研究のための序説

三 『増補下学集』の構成と語彙――辞典編集の方法をさぐる

四 永井如瓶子『邇言便蒙抄』小見――近世語研究の鍵

五 中村綃斎『訓蒙図彙』の構造――日本最初の絵入百科事典

あとがき

索引


この本は、杉本つとむ日本語講座」(全7巻)の一冊で、この叢書は以下のような構成です。


第1巻 異字体とは何か

第2巻 方言はどう探究されたか

第3巻 辞典・事典の世界

第4巻 語彙と句読法

第5巻 国語学と蘭語学

第6巻 外国語と日本語

第7巻 国語学の諸問題


版元は桜楓社(現・おうふう)。


杉本氏は、最近も『日本本草学の世界――自然・医薬・民俗語彙の探究 』(八坂書房、2011/09、ISBN:4896949811)を刊行したところです。最近のまとまったものとしては、八坂書房から杉本つとむ諸作選集」(全10巻)が刊行されています。


杉本つとむ著作選集」全巻構成

第1巻 日本語の歴史

第2巻 近代日本語の成立と発展

第3巻 日本語研究の歴史

第4巻 増訂日本翻訳語史の研究

第5巻 日本文字史の研究

第6巻 辞書・事典の研究I

第7巻 辞書・事典の研究II

第8巻 日本英語文化史の研究

第9巻 西欧文化受容の諸相

第10巻 西洋人の日本語研究 総索引 総目次


以下に同著作選集のパンフレットがあります(pdf)。


⇒八坂書房 > 「杉本つとむ著作選集」

 http://www.yasakashobo.co.jp/books/images/1247571285-phpeU.pdf

[][][]『ヒストリー・オブ・アイディアズ』誌2011年10月号 『ヒストリー・オブ・アイディアズ』誌2011年10月号を含むブックマーク 『ヒストリー・オブ・アイディアズ』誌2011年10月号のブックマークコメント


『Journal of the History of Ideas』誌2011年10月号(October 2011 Vol. 72.4)の目次。


・Lodi Nauta, Philology As Philosophy: Giovanni Pontano On Language, Meaning, And Grammar


・Carl Philipp Emanuel Nothaft, From Sukkot To Saturnalia: The Attack On Christmas In Sixteenth-Century Chronological Scholarship


・Martine J. Van Ittersum, Knowledge Production In The Dutch Republic: The Household Academy Of Hugo Grotius


・Kevin Killeen, Hanging Up Kings: The Political Bible In Early Modern England


・David Dwan, Edmund Burke and the Emotions


・Benjamin Ware, Ethics And The Literary In Wittgenstein's Tractatus Logico-Philosophicus


・Ben Mercer, The Paperback Revolution: Mass-Circulation Books And The Cultural Origins Of 1968 In Western Europe


⇒University of Pennsylvania Press > JHI

 http://jhi.pennpress.org/strands/jhi/abstracts.htm;jsessionid=851C2B9234842D40FB8782DEE38137C8

2011-12-02 ブログの使い道

[]ブログの使い道 ブログの使い道を含むブックマーク ブログの使い道のブックマークコメント


ウェブサイト、blog、twitterFacebookmixi等々、ネット上でものを書くサーヴィスがあれこれ増えて、新しく登場したものを使ってみるつど、それまで使っていたサーヴィスの見え方が少しずつ変わります。


2011年前半まではtwitterをよく使い、目下はFacebookへの投稿頻度が高くなっています。私の感覚では、twitterは見知らぬ人も含めたいろんな人がいる往来もしくは居酒屋。Facebookは、もっぱら知人友人としゃべる喫茶店もしくはバーのような印象です。


それはともかく、投稿がどんどんと流れていってしまうタイプのサーヴィスを使ってみると、翻って流れていかずに比較的固定されたデータのありがたみやメリットも感じられる昨今です。


言えば当たり前みたようなことではありますが、多様であるおかげでそれぞれの価値がいっそうくっきり浮かび上がってみると申しましょうか。


そんな気分が高じて、目下は長らくほったらかしにしているウェブサイトの再構築や、いっそのこと紙で小さな冊子をこしらえて発行したいといった気持ちにがふつふつと高まりつつあります(もっとも例によって言っているだけかもしれませんが)。


そこで自分としては、一番悩ましいのがブログの使い道でした。が、あまり気にせずほいほい気になるものをクリップする使い方をしばらくしてみようと思います。ゆくゆくはウェブサイトでやってみたいことがありまして、そのための試験も兼ねるという感じです。


と、その前に、サレン+ジマーマンのルールズ・オブ・プレイ(ソフトバンククリエイティブ)の下巻翻訳作業を終わらせてしまわなければなりませぬ。うむむ。

2011-12-01 寺田寅彦 学術連環

[][][][]寺田寅彦 学術連環 寺田寅彦 学術連環を含むブックマーク 寺田寅彦 学術連環のブックマークコメント


ご無沙汰しております。


この夏に取り組んでいた原稿が形になりましたので、お知らせします。河出書房新社の「道の手帖」シリーズ最新刊寺田寅彦――いまを照らす科学者のことば』池内了責任編集、2011/11)に寄稿しました。


「知を結ぶ――寺田寅彦 学術連環」と題して、寺田寅彦の知を育んだもの、彼が生み出したものの全体を、『寺田寅彦全集』(科学篇を含む)全体から抽出してマッピングしてみようという試みです。誠に粗雑ではありますが、部分ごとに語られがちな寅彦先生の関心全域を一望する地図を鳥瞰してみたいという目論見でありました。今後機会があれば、今回こしらえた地図を改訂して参りたいと念じております。ご笑覧いただければ幸いです。


同書全体の目次情報をあまりお見かけしませんので、ここにその全体を記しておきたいと思います。


★巻頭言

池内了寺田寅彦は常に新しい」


・「寺田寅彦を知る10のキーワード」

池内了×最相葉月「特別対談 いま寺田寅彦から何が読めるか」


★論考:寺田寅彦の現代性

・須藤靖「いごっそう寅彦の教え」

・川上紳一「寺田寅彦――異分野横断からの視座」

・小山慶太「紙切り芸と寺田物理学」

八代嘉美「本当は恐い寺田寅彦

・内田麻理香「寺田寅彦の懐疑と情熱と」

・小林晋「謎解きと科学研究」

・村松秀「考えること、疑うこと。」

渡辺政隆「出でよ、現代の寅彦」


寺田寅彦アンソロジー

・「鎖骨」

・「知と疑い」

・「森の絵」


★特集:その学びと仕事

山本貴光「知を結ぶ――寺田寅彦 学術連環」

米沢富美子「才能を活かしきった人――寺田寅彦のあれこれ」

・鎌田浩毅「寺田寅彦の仕事術――どう学び、どう生かしたか」


寺田寅彦の思い出

中谷宇吉郎「指導者としての先生の半面」

和辻哲郎「寺田さんに最後に逢った時」

・野上豊一郎「窓の躑躅――寺田さんの思ひ出」


★文人としての寅彦

出久根達郎「寅彦の文章と私――小説のヒント」

角川源義寺田寅彦正岡子規


★寅彦が蒔いた科学の芽

・高田誠二「科学史の中の寺田寅彦

戸田盛和「物理学の楽しみ」

・小林惟司「長岡半太郎寺田寅彦


・ブックガイド

寺田寅彦略年譜

(191ページ、2011年11月30日初版発行)


⇒作品メモランダム > 寺田寅彦――因果の網状図

 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20111020

河出書房新社

 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309740416

2011-10-20 寅彦曼荼羅――因果の網状図

[][][][]因果の網状図 因果の網状図を含むブックマーク 因果の網状図のブックマークコメント


この夏は、寺田寅彦の全集とScientific Papersをひたすら読むということをしておりました。


読みながら、一種の索引データベースをつくり、寅彦が言及したもの、読んだもの、見たもの、聞いたものを、ひとまとめに総覧できるようにしようという目論見です。


全集そのものにそうした索引があればよかったのですが、少なくとも今回参照した最新の全集には、索引がなかったため、自分で読みながらこしらえてみた次第。


その成果の一端は、来月刊行される『KAWADE道の手帖 寺田寅彦河出書房新社、2011/11/22発売予定)に寄稿したエッセイでお目にかける予定です。


それに付随して、誠信書房が発行している「誠信プレビュー」というPR誌(新刊書などの案内)の第133号に、「寅彦曼荼羅――因果の網状図」というエッセイを寄稿させていただきました。


寅彦が『物理学序説』のために手帖に描いた因果のモデル図をめぐって考えさせられたことを記したものです。南方熊楠のミナカタ曼荼羅を念頭に置きながら、「寅彦曼荼羅」と仮に名付けてみましたが、これについては今後ともよくよく考えてみたいと念じております。いや、ほんとに面白い図なのです。


「誠信プレビュー」は、紙版のほかに、同書肆のウェブでもPDF版が公開されています。下記リンクからご覧いただければ幸いです。


⇒誠信書房 > 「誠信プレビュー」No.133(PDF)

 http://www.seishinshobo.co.jp/files/pre-113.pdf

2011-10-16 「しあわせ」の条件を考える

[][][][]「しあわせ」の条件を考える 「しあわせ」の条件を考えるを含むブックマーク 「しあわせ」の条件を考えるのブックマークコメント


宣伝で恐縮です。2011年10月22日(土)に、朝日カルチャーセンター横浜にて、講座を担当させていただきます。


「哲学カフェI 「しあわせ」の条件を考える」というタイトルです。


幸福やしあわせは、いつの世も問題であり続けてきました。古来哲学における大きな問題の一つであり、名だたる哲学者たちがこのことを検討してきましたし、詩や小説や戯曲や映画など、さまざまな分野でもテーマとされています。


また、哲学や芸術ということを離れても、誰一人このことに関係のない人はいない、そういう問題でもあります。


自然、社会、政治、経済、科学技術、文化など、人間をとりまく環境や状況がめまぐるしく変転するなかで、しあわせということについて、どのように考えてみることができるか。


当日は、私から少しだけ議論の手がかり(ストア派からグレッグ・イーガンまでという心算)をお示しして、あとはご参加くださる皆さんと一緒に考え、議論しながら進めて参りたいと思います。


時間も18時から20時半までの2時間半と、少し長めに設定していただきました。


いわゆる「哲学」の予備知識は不要です。知識の多寡や有無というよりも、よりよく考えてみることに重点を置きたいと思います。ですから、参加者それぞれの方の具体的な経験や記憶を糧としつつ、その場で考えを進めながら、しあわせをめぐる哲学を実践してみたいと考えています。


ご家族・ご友人・恋人などお誘い合わせのうえ、気軽にご参加いただけたら幸いです。


なお、この「哲学カフェI」という講座には、姉妹編として「哲学カフェII」「哲学カフェIII」もあります。それぞれ単独で受講もできますし、合わせてお申し込みいただくこともできるようです。


「哲学カフェII」は、東京農工大学講師の大屋定晴さんによる「「環境的正義」を考える 震災と原発事故を経て」(11月12日)、「哲学カフェIII」は、わが相棒・吉川浩満(id:clinamen)による「言葉の力と無力さ」(12月10日)という予定です。


詳しくは、以下のウェブをご覧いただければと思います。


⇒朝日カルチャーセンター横浜 > 哲学カフェI

 http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=134593&userflg=0


⇒朝日カルチャーセンター横浜 > 哲学カフェI・II・III

 http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=134592&userflg=0

2011-10-05 天網恢恢疎にして漏らさず

[][][][]天網恢恢疎にして漏らさず 天網恢恢疎にして漏らさずを含むブックマーク 天網恢恢疎にして漏らさずのブックマークコメント


新潮社の季刊誌『考える人』2011年秋号、「特集=考える料理」が発売となりました。


川上弘美さんのもてなし料理」(カラー10ページ)を筆頭に、70ページ近い特集です。料理の発想やコツや考察など、面白くてためになる内容満載なのはよいのですが、一つだけ困ることがありまして、夜中にベッドの中で読んでいると、お腹が空いていけません。


以下に特集部分の目次を引用してみます(新潮社のページから)。


f:id:yakumoizuru:20111010142312j:image:right

f:id:yakumoizuru:20111010142245j:image:right

川上弘美さんのもてなし料理


・「魯山人の美食」を茄子尽くしで試みる 山田和


張競先生の「臨機応変」中華料理


・「コート・ドール」斉須政雄シェフ フランス料理の発想


・美味しさの考察

 ・玉村豊男 おいしい豚ヒレ肉の料理法

 ・張競 文人と豆腐料理

 ・小泉武夫 発酵は料理のマジシャンである

 ・福岡伸一 分子生物学的料理のコツ

 ・隈研吾 どんぶり建築論

 ・町田成一 トマトの甘い魔力

 ・山田和 天下の美味、茄子

 ・椎名誠 野外料理の強烈レシピ

 ・坂本素行 糖尿病S氏の食の愉しみ


・プロに訊く料理のコツ

 ・捌く 築地「魚河岸三代目 千秋」

 ・煮る 那覇「割烹 潮」

 ・焼く 六本木「レスプリ ミタニ」

 ・炒める 代々木上原「ジーテン」

 ・とんかつ 赤坂「フリッツ」

 ・天ぷら 赤坂「楽亭」

 ・調味料 広尾「分とく山」


・アンケート 私の好きな料理の本 ベスト3


青山南朝吹真理子池内紀池澤夏樹いしいしんじ入江敦彦内澤旬子内田樹大貫妙子/岡戸絹枝/小川糸/角田光代/川原真由美/岸本佐知子岸本葉子栗田有起最相葉月/島村菜津/白洲信哉/高橋秀実/高山なおみ長崎訓子/仲村清司/滑川海彦/早川光/原田泰/堀江敏幸/三谷龍二/山川みどり/山本一力山本貴光湯川豊/横山貞子/渡辺都


なんでもジュンク堂新宿店で、この特集に合わせた棚が組まれているとか。友人の阿久津若菜さんに教えていただきました。上の写真も阿久津さんが撮影したものです。選んだ人ごとに本が並べられています。私も覗きに行こうと思います。


ブックフェアは、三省堂神田本店、有楽町店でも始まっているとのことです。(2011/10/14追記)


また、連載させていただいている「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」は第4回となりました。今回は「法律――天網恢恢疎にして漏らさず」と題して、法律のスタイルを眺めてみております。


⇒新潮社 > 『考える人』最新号目次

 http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mokuji.html

 次号は「山を愉しむ」という特集のようです。

2011-10-03 筆跡に宿るもの――藤本なほ子「のこらないもの」展を見て

[][][][]筆跡に宿るもの 筆跡に宿るものを含むブックマーク 筆跡に宿るもののブックマークコメント


その部屋に入ると、壁に何枚かの紙が貼られている。また、部屋に置かれた二つの台にもそれぞれ紙片が置かれている。


壁に近づくと、貼られた紙が、手紙だと判る。事前に案内を読んでいるせいもある。しかし、そうした知識がなかったとしても、おそらくその紙片の様子から、「これは手紙だ」と感じたに違いない。


中山奈美さんによる照明は、日の出から日没までの陽光をゆっくりとなぞるように変化する。明暗の繰り返しのなかで手紙を読んでいると、田舎の家の縁側で、電気もつけずに、誰かから届いた手紙に没頭しているような心持ちになってくる。照明がもっとも暗く落とされた状態でも、手紙の文字は読める。すっかり日が暮れたというのに、ランプをつける手間も惜しいほど夢中で小説を読んだ夏休みのことを思い出し、そんな記憶が重なって、ますます目の前の手紙を熱心に読む。


そこに貼られた手紙は、どうやら二人の女性がやりとりしたもの。一人は大学生くらい。もう一人は高齢の女性。二人のやりとりを、なんだか判らないまま読んでゆく。


判らないのは当然のこと。いま自分は、二人の人間が、互いに宛先とするその人だけに向けて、その人だけを読み手として言葉を選び、書いたはずの手紙を読んでいるのだから。二人がこの手紙を書くにあたって暗黙のうちに共有していることや、それまでのつきあいから互いの脳裏にあるはずの相手の人物やそのエピソードなどは、第三者には判らない。


壁の手紙を見ながら、寅彦の手紙を思い出す。この夏のあいだ、寺田寅彦の全集を繙いて、その書簡も隅々まで読むということをしていたのだった。人が交わした書簡を覗き見るという意味では、寅彦の書簡も、目の前にある誰かの書簡も選ぶところはない。


しかし、寅彦については、当人の著作の全体や研究書、伝記といったものに目を通していることもあって、なんだか知っている人のような気がしている。もっと言ってしまえば、数えるほどしか会ったことのない親類や、同じフロアで仕事をしながらあまり言葉を交わしたことがない会社の同僚よりも、寅彦先生のほうが近しい気さえしている。だから寅彦の書簡を読む私には、そこに書かれたことを推測したり、理解するための文脈や手がかりがあった。翻るに、目の前にある手紙についてはどうか。


連想ついでに加えて言えば、寅彦の書簡は、一部葉書をそのまま印刷したものを除けば、活字に直されたもので読んだ。いま壁に貼ってある手紙は手書きのもの。フォントがなんだろうが書かれた内容が同じであれば同じものじゃないか、仮にそう考える人がいるとすれば、その人こそ真の活字中毒者というべきかもしれない。活字とは、書き文字が具えているゆらぎや多様性をそぎ落として、一種抽象化を施したものだ。活字には活字それぞれのリズムがあるように、書かれた言葉には、その書きぶりでしか味わえないリズムがある。


一筆一筆丹念に置きながらバランスをとって書かれた文字もあれば、いま書いている文字を書き終えるのもまだるっこしいとばかり、大きく形が崩れて次の文字へと流れていくような文字もある。体調や気分も字面に現れていはしまいか。


そこには、考えながら書き、書いては考えるといった、思考の流れと淀みが現れているようにも感じられる。後から思いついて言葉を挟んだり、書きかけた文字を消して、別の文字を書いたり。要するに、言葉が書き並べられたときに流れていた時間が保存されている。


活字として整えられた文章にも、たしかにそれが書かれたときの時間は保存されている。第一、文章という文字の羅列そのものが一種の時間の流れでもあるから。しかし、いま述べてみたような、文字の姿や加筆訂正といった、書くという営みにかかる時間の痕跡は、活字では薄められている。


そんな考えともいえない考えのようなものが脳裏に去来する。しかし、もっとも奇妙な感覚に襲われるのは、こうして読んでいる手紙が、じつは当の手紙の書き手が書いた手紙ではないということだ。コピーというわけではない。たしかに、手で書かれたものが目の前にある。


実はこれらの手紙は、藤本なほ子さんが、他人の手紙を書き写したもの。そう言われて中世の写字生が写本を写す場面を連想する。でも、それとも違っている。なにしろ手紙の主の筆跡まで書き写しているというのだから。


しかしこうなると、もはやそのこと自体が本当かどうか判らなくなってくる。本当は、そういう設定自体が創作で、藤本なほ子さんが筆写したという手紙は、他ならぬ手紙の書き手が書いたものであるかもしれない。頭のなかで、本物の手紙と筆写された手紙がぐるぐると廻り、どちらがどちらか判らなくなってくる。


かろうじて目の前にある手紙が筆写されたものだと思えるのは、それらの手紙が例外なく白くて同じ大きさの紙に書かれているためだ。それに対して、それぞれの手紙は、もともと書かれた便せんや葉書の大きさやそこに刷られていたかもしれない絵などによって、文字の配置が制限されている。だから、もう残る行数がなくなってきたのでといってちょっと文字が小さくなりながら文末を結ぶ手紙にも、たっぷりと余白がある。


それにしても、どうして手書きの文字というものは、人によってある形を湛えるのだろうか。毎回書くごとにぶれたり違ったりしてもよさそうなものなのに、私たちが書く文字は、判で押したようには一致しないまでも、だいたい「同じ」文字になる。それは身についた習慣、繰り返したことによって自動化(無意識化)された行為だからだと言えば、なんだか判ったような気にもなる。しかし、ならばどうして完全に同じ文字にならないのかとも思う。


他人の筆跡をなぞるということは、自分の筆跡を抑えて、自分が自由に筆を運んだらそうなるはずの進みとは必ずしも一致しない方向に筆を動かすことだ。想像してみると、そこには自分の習慣との摩擦や抵抗、あるいはそうした習慣を放置して、他人の筆の流れに身を委ねる気持ちのよさというものもあるかもしれない。これだけの他人の筆跡を写してみて、藤本さんはどんな心持ちがしたのだろうか。


そんなふうにして、脳裏に心地よい混乱を生じさせてくれる作品群だった。


藤本なほ子さんによる「他人の筆跡を書き写した紙、その他のインスタレーション」を展示した「のこらないもの」は、表参道画廊で2011/10/03から10/08日まで。開場時間は、12:00-19:00(最終日は17:00まで)。


⇒表参道画廊 > 藤本なほ子「のこらないもの」

 http://www.omotesando-garo.com/link.11/fujimoto.html


twitter > 藤本なほ子

 http://twitter.com/#!/nafokof


*2011/10/07 一部誤記を訂正しました。

2011-10-02 ディオニュシオスの弁論術2

[][][][]ディオニュシオスの弁論術2 ディオニュシオスの弁論術2を含むブックマーク ディオニュシオスの弁論術2のブックマークコメント



(承前)ディオニュシオスが古代弁論家として最初に取り上げるのは、リュシアス(紀元前5世紀から4世紀に活動)です。


ディオニュシオスは、リュシアスが書き残した弁論の文体について、次のような美点を数え上げています。


・純正なギリシア語

・標準的で一般的な用語法

・明晰さ

・簡潔さ

・端的な言葉づかい

・生き生きとした描写

・人物設定

・適切さ

・優美さ


筆頭に述べられている「純正なギリシア語」という観点に、興味を惹かれます。「純正」とは、そうではないギリシア語があってこそ意味を持つ言い方。ディオニュシオスが、ローマでギリシア語弁論の先生をしていたらしいことも関係していそうです。


このことで連想することがあります。専門学校や大学で留学生と接しているときに、「この言い方は日本語として正しいですか?」と問われたり、説明することがしばしばあります。そうした機会に、一応日本語としてはこういう言い方をする場合が多いと説明しながら、しかしなぜそうなのか、と考えさせられるのです。


それを「純正」と言うか別の表現を選ぶかは別として、或る言語が異文化に接してゆくとき、その境界で言語の「正しさ」が問題となるのではないかと思います。逆の立場で考えてみても、異語を学ぶ際、「この言い方で正しいか?」ということが絶えず気になったりします。


すでにいろいろな形で論究されていると思いますが、言語の文法や語彙の分析・整備の進展と異文化の交流の関係について、どんな研究がなされているのか追いかけてみたいと思います。文法史と世界史地図を並べてみると、なにか見えてくるかもしれません。


二つめに挙げられている「標準的で一般的な用語法」というのは、詩的に凝った表現や稀にしか使われないような語彙をひねり回さず、ありふれた日常的な語彙で考えを述べる、という意味です。


これも、なにをもってありふれた日常的語彙とみなすかは、いろいろ考える余地があるところです。しかし例えば、廣松渉の文体や一部のライトノベルスなどで使われる大仰な形容、あるいはしばらく前に盛んに書かれた現代思想の翻訳文体などを並べてみると、実感が湧いてくるやもしれません。


私自身は、自分が書いた文章を、声に出して読んでも自分として恥ずかしくならないかどうかを、一つの基準にしています(そのため、内容を問わず、ゲラの段階で必ず何度か自分の言葉を音読してみています)。また、脳裏に各方面から集めた何人かの読者代表の委員会がおり、この人たちに向けて朗読しても大丈夫かという観点から確認したりもします。


と、ディオニュシオスがリュシアスを褒め讃えるポイントから連想することをいくつか述べてみました。もう一つ「優美さ」が大いに気になるところですが、これはもう少し具体的にディオニュシオスの議論を見ながら述べてみたいと思います。

2011-10-01 ディオニュシオスの弁論術

[][][][]ディオニュシオスの弁論術 ディオニュシオスの弁論術を含むブックマーク ディオニュシオスの弁論術のブックマークコメント


いとも賢いアンマイオスよ、われわれは今のこの時代におおいに感謝せねばなりません。というのも、他のさまざまな研究分野が以前よりも改善されたうえに、とくに市民弁論への関心がおおいに高まったのですから。じっさいわれわれに先立つ時代には、古くからの哲学的弁論術は踏みつけにされ、不当な扱いを受けて衰退していました。マケドニアアレクサンドロス大王の死以来、この弁論術は徐々に生気を失いしぼんでいって、われわれの時代には、ほとんど消滅してしまわんばかりでした。そして別の弁論術がその地位に取って代わったのですが、この弁論術というのがたえがたいほどに厚顔無恥で下品なしろものであり、哲学ともその他の一般教養とも無縁なものだったのです。この弁論術はひそかに無知な民衆を欺いて、富と贅沢と華やかさとを先の弁論術以上に享受したばかりでなく、哲学的弁論術こそが手に入れるべき、国家における名声と地位までもみずからのものにしてしまいました。まことに卑俗で不快なこの弁論術のせいで、とうとうギリシアはだらしない道楽者の家みたいになったのです。

(「第一章 弁論術の衰退」、木曽明子+戸高和弘訳、西洋古典叢書G039、京都大学学術出版会、2004/08、4ページ)


これは、ディオニュシオスの「古代弁論家――序」の冒頭部分です。


この書物は、言葉の編み物である弁論をどのように学ぶべきか、その手本として誰の弁論を参考にするとよいか、それはいかなる特徴を備えた弁論であるかを論じたもの。


外から見る限り、政治の世界にも法廷の世界にも、そもそも弁論術らしきものが見あたらない日本では、いまひとつピンと来づらいかもしれません。しかし、日常生活から各種の議論まで、ほとんどのことを言論でまかなっていることを思えば、言葉をどのように選び、配置し、述べるかということの重要性は誰もが感得するところだと思います。


上に引用した部分で興味深いのは、弁論がいくつかに分類されていることです。これはアリストテレス『弁論術』でもなされていたことですが、「同じ」言語が、目的や使われ方に応じて区別されているわけです。


といっても、私たち自身、さまざまな場面で言葉を使い分けているわけだから、別段いまさら驚くようなことではないかもしれません。さりながら、昨今のようにネットをはじめとするさまざまなチャネルから多様な言葉がごちゃごちゃに流れてくる状況になると、改めてきちんとそうした分類や用途の異同を確認してみたくなります。


古代ギリシアやローマに書かれた各種の弁論術書や弁論は、そうしたことを考えるうえで得難いヒントを与えてくれます。同時に、それでは翻って中国や日本ではどのような弁論術や修辞学があったか、そんなことも含めて集め読みながら、ときどきご紹介してみたいと思います。


⇒京都大学学術出版会 > 西洋古典叢書

 http://www.kyoto-up.or.jp/jp/seiyokoten1.html


Wikipedia > Dionysius

 http://en.wikipedia.org/wiki/Dionysius_of_Halicarnassus

 http://fr.wikipedia.org/wiki/Denys_d%27Halicarnasse

 http://de.wikipedia.org/wiki/Dionysios_von_Halikarnassos

 上記は英仏独の各ページへのリンクです。