岡本さえイエズス会と中国知識人』(世界史リブレット109、山川出版社、2008/10、ISBN:4634349477


文化と文化が遭遇するところで、人と書物と理解と誤解が入り混じる。


「思想」の世界史をたどってゆくと、さまざまな時代、さまざまな場所で、そうした遭遇の痕跡に行きあう。たとえば、インドから仏教を移入した中国、古典ギリシアの叡智を換骨奪胎したイスラーム、政治体制の転換期に西欧文明に遭遇した幕末日本などはよく知られたケース。


本書は書名にも見えるように、そうした興味深い遭遇のひとつ、イエズス会と中国の遭遇の過程を描いたものだ。


16世紀前半に、イグナチウス・デ・ロヨラ(c1491-1556)たちによって創設されたイエズス会は、世界各地へ布教の旅に出た。日本史でもおなじみのフランシスコ・ザビエル(1506-1552)も、そうした宣教師の一人である。


さて、イエズス会士たちが、中国での本格的な布教活動を開始するにあたって、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)は、他の地域での布教とはちがって、中国文化を尊重する方針を立てたという。会士たちは、あらかじめ中国語を学び、ヨーロッパの学問を使って、中国の文化人・知識人層にわたりをつけようというわけだ。


相手の信仰を変化させるために、まずは己が中国文化を受容して変化すること。この営みは、どこかマフィアの一員となる覆面捜査(アンダーカヴァー・コップ)を連想させる。なかには中国文化にのめりこみすぎて、キリスト教を棄教した者もあったのではないだろうか、などとつい想像が膨らむ。


明朝中国に渡ったイエズス会士たちは、中国名を持ち、儒服を身にまとい、キリスト教の教えを漢訳して「天主教」とした。なかでもマテオ・リッチ(利瑪竇、1552-1610)は、イエズス会の初代中国布教長であり、『幾何原本』を初めとする数理書を漢訳したことで知られている。


郷に入るために自らを変える方法をとったリッチは、どのように中国での布教を目指したのか。

リッチは(中略)中国人の儒学を哲学とみなし、儒教典礼(儀礼)は社会習慣であるとして、宗教とは区別する立場をとった。キリスト教儒教と対立しない、と決めたのである。しかし同時にリッチは、中国古代の儒学キリスト教と一致すると認め、古典に出てくる上帝はキリスト教の天主と同一である、と教理問答『天主実義』に書いた。

(同書、pp.20-21)


この苦心の戦略は、ヨーロッパのカトリック諸勢力と中国の両方から批判されることになる。線によって分断された二つの領域に足をかけようとする者が、いずれかの領域に所属する者から「お前はどちらの味方なのだ」とか、「俺たちの文化を勝手にお前たちの文化と等号で結ぶな」と怒られるという構図、なんだかあちこちで見かけるような気がするのは気のせいか。


ともあれ、リッチたちは学術の粋をもって中国人たちの尊敬を勝ち得ようと、ヨーロッパの知を漢文に翻訳していった。本書の巻末には、イエズス会士たちがかかわった著訳書の一覧があって、それを見ると宗教にかかわる書物の他にも、エピクテトスアリストテレスの翻訳や、技術書、天文学、地理など、40ほどの作品が掲載されていることがわかる。


こうした文献において、ラテン語やヨーロッパ諸語と中国語の対応がどのようにつけられたのかは、非常に興味あるところだ。というのも、その翻訳の過程で作られた書物や辞典が、日本でも参照され、明治期あるいはそれ以前の日本におけるヨーロッパ語の翻訳に活用されていており、日本語における言葉や概念の来歴に関心を抱く向きにとっては見過ごせない文献群であろう(その一部は、下記リンク先、早稲田大学の古典籍総合データベースで読める)。


本書は、研究書のさわりといった論述のため、歴史小説を読むようなダイゴミこそないけれど、中国におけるイエズス会の活動について概要を知るにはうってつけの一冊だ。


■目次

東西の対話
イエズス会士の中国入国
中国におけるイエズス会士の活躍
中国知識人はヨーロッパの文化をどう見たか
ヨーロッパに流入した中国文化


山川出版社
 http://www.yamakawa.co.jp/


■関連文献



岡本さえ『近世中国の比較思想――異文化との邂逅』東京大学出版会、2000/10、ISBN:413010084X
岡本さえ『清代禁書の研究』東京大学出版会、1997/02、ISBN:4130210610
高橋裕イエズス会の世界戦略』講談社選書メチエ、2006/10、ISBN:4062583720
★フランシス・トムソン『イグナチオとイエズス会(中野記偉訳、講談社学術文庫講談社ISBN:4061589393
★フィリップ・レクリヴァンイエズス会――世界宣教の旅』(垂水洋子訳、「知の再発見」双書、創元社、1996/01、ISNB:4422211137)
★ウィリアム・V.バンガートイエズス会の歴史』上智大学中世思想研究所、原書房、2004/12、ISBN:4562038489
イエズス会士中国書簡集』(矢沢利彦編訳、東洋文庫全6巻、平凡社、1970-1974、ISBN:4582801757
『中国の医学と技術――イエズス会士書簡集』(矢沢利彦編訳、東洋文庫平凡社、1977/07、ISBN:4582803016
『中国の布教と迫害――イエズス会士書簡集』(矢沢利彦編訳、東洋文庫平凡社、1980/01、ISBN:4582803709
聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(河野純徳訳、東洋文庫、全4巻、1994、ISBN:4582805795
平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』東洋文庫、全3巻、1969-1997、ISBN:4582801412
★John W. O'Malley, Gauvin Alexander Bailey, Steven J. Harris, and T. Frank Kennedy, S. J. ed, The Jesuits: cultures, sciences, and the arts, 1540-1773 (2vols, University of Toronto Press, 1999-2006)


■関連ウェブサイト


イエズス会日本管区
 http://www.jesuits.or.jp/
 歴史の解説や関連文献の一覧などもある。


★Society of Jesus(英語)
 http://www.sjweb.info/jesuits/index.cfm
 イエズス会ローマ本部のサイト。


早稲田大学古典籍総合データベース > 『幾何原本』
 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8A%F4%89%BD%8C%B4%96%7B
 同サイトで、「利瑪竇」を検索すると9作品を見ることができる。


★国立台湾大学東亜経典與文化研究計画(日本語)
 http://www.eastasia.ntu.edu.tw/japanese/index.htm
 台湾大学人文社会高等研究院による研究計画。プロジェクト2に本エントリに関わる計画あり。