筆跡に宿るもの


その部屋に入ると、壁に何枚かの紙が貼られている。また、部屋に置かれた二つの台にもそれぞれ紙片が置かれている。


壁に近づくと、貼られた紙が、手紙だと判る。事前に案内を読んでいるせいもある。しかし、そうした知識がなかったとしても、おそらくその紙片の様子から、「これは手紙だ」と感じたに違いない。


中山奈美さんによる照明は、日の出から日没までの陽光をゆっくりとなぞるように変化する。明暗の繰り返しのなかで手紙を読んでいると、田舎の家の縁側で、電気もつけずに、誰かから届いた手紙に没頭しているような心持ちになってくる。照明がもっとも暗く落とされた状態でも、手紙の文字は読める。すっかり日が暮れたというのに、ランプをつける手間も惜しいほど夢中で小説を読んだ夏休みのことを思い出し、そんな記憶が重なって、ますます目の前の手紙を熱心に読む。


そこに貼られた手紙は、どうやら二人の女性がやりとりしたもの。一人は大学生くらい。もう一人は高齢の女性。二人のやりとりを、なんだか判らないまま読んでゆく。


判らないのは当然のこと。いま自分は、二人の人間が、互いに宛先とするその人だけに向けて、その人だけを読み手として言葉を選び、書いたはずの手紙を読んでいるのだから。二人がこの手紙を書くにあたって暗黙のうちに共有していることや、それまでのつきあいから互いの脳裏にあるはずの相手の人物やそのエピソードなどは、第三者には判らない。


壁の手紙を見ながら、寅彦の手紙を思い出す。この夏のあいだ、寺田寅彦の全集を繙いて、その書簡も隅々まで読むということをしていたのだった。人が交わした書簡を覗き見るという意味では、寅彦の書簡も、目の前にある誰かの書簡も選ぶところはない。


しかし、寅彦については、当人の著作の全体や研究書、伝記といったものに目を通していることもあって、なんだか知っている人のような気がしている。もっと言ってしまえば、数えるほどしか会ったことのない親類や、同じフロアで仕事をしながらあまり言葉を交わしたことがない会社の同僚よりも、寅彦先生のほうが近しい気さえしている。だから寅彦の書簡を読む私には、そこに書かれたことを推測したり、理解するための文脈や手がかりがあった。翻るに、目の前にある手紙についてはどうか。


連想ついでに加えて言えば、寅彦の書簡は、一部葉書をそのまま印刷したものを除けば、活字に直されたもので読んだ。いま壁に貼ってある手紙は手書きのもの。フォントがなんだろうが書かれた内容が同じであれば同じものじゃないか、仮にそう考える人がいるとすれば、その人こそ真の活字中毒者というべきかもしれない。活字とは、書き文字が具えているゆらぎや多様性をそぎ落として、一種抽象化を施したものだ。活字には活字それぞれのリズムがあるように、書かれた言葉には、その書きぶりでしか味わえないリズムがある。


一筆一筆丹念に置きながらバランスをとって書かれた文字もあれば、いま書いている文字を書き終えるのもまだるっこしいとばかり、大きく形が崩れて次の文字へと流れていくような文字もある。体調や気分も字面に現れていはしまいか。


そこには、考えながら書き、書いては考えるといった、思考の流れと淀みが現れているようにも感じられる。後から思いついて言葉を挟んだり、書きかけた文字を消して、別の文字を書いたり。要するに、言葉が書き並べられたときに流れていた時間が保存されている。


活字として整えられた文章にも、たしかにそれが書かれたときの時間は保存されている。第一、文章という文字の羅列そのものが一種の時間の流れでもあるから。しかし、いま述べてみたような、文字の姿や加筆訂正といった、書くという営みにかかる時間の痕跡は、活字では薄められている。


そんな考えともいえない考えのようなものが脳裏に去来する。しかし、もっとも奇妙な感覚に襲われるのは、こうして読んでいる手紙が、じつは当の手紙の書き手が書いた手紙ではないということだ。コピーというわけではない。たしかに、手で書かれたものが目の前にある。


実はこれらの手紙は、藤本なほ子さんが、他人の手紙を書き写したもの。そう言われて中世の写字生が写本を写す場面を連想する。でも、それとも違っている。なにしろ手紙の主の筆跡まで書き写しているというのだから。


しかしこうなると、もはやそのこと自体が本当かどうか判らなくなってくる。本当は、そういう設定自体が創作で、藤本なほ子さんが筆写したという手紙は、他ならぬ手紙の書き手が書いたものであるかもしれない。頭のなかで、本物の手紙と筆写された手紙がぐるぐると廻り、どちらがどちらか判らなくなってくる。


かろうじて目の前にある手紙が筆写されたものだと思えるのは、それらの手紙が例外なく白くて同じ大きさの紙に書かれているためだ。それに対して、それぞれの手紙は、もともと書かれた便せんや葉書の大きさやそこに刷られていたかもしれない絵などによって、文字の配置が制限されている。だから、もう残る行数がなくなってきたのでといってちょっと文字が小さくなりながら文末を結ぶ手紙にも、たっぷりと余白がある。


それにしても、どうして手書きの文字というものは、人によってある形を湛えるのだろうか。毎回書くごとにぶれたり違ったりしてもよさそうなものなのに、私たちが書く文字は、判で押したようには一致しないまでも、だいたい「同じ」文字になる。それは身についた習慣、繰り返したことによって自動化(無意識化)された行為だからだと言えば、なんだか判ったような気にもなる。しかし、ならばどうして完全に同じ文字にならないのかとも思う。


他人の筆跡をなぞるということは、自分の筆跡を抑えて、自分が自由に筆を運んだらそうなるはずの進みとは必ずしも一致しない方向に筆を動かすことだ。想像してみると、そこには自分の習慣との摩擦や抵抗、あるいはそうした習慣を放置して、他人の筆の流れに身を委ねる気持ちのよさというものもあるかもしれない。これだけの他人の筆跡を写してみて、藤本さんはどんな心持ちがしたのだろうか。


そんなふうにして、脳裏に心地よい混乱を生じさせてくれる作品群だった。


藤本なほ子さんによる「他人の筆跡を書き写した紙、その他のインスタレーション」を展示した「のこらないもの」は、表参道画廊で2011/10/03から10/08日まで。開場時間は、12:00-19:00(最終日は17:00まで)。


⇒表参道画廊 > 藤本なほ子「のこらないもの」
 http://www.omotesando-garo.com/link.11/fujimoto.html


twitter > 藤本なほ子
 http://twitter.com/#!/nafokof


*2011/10/07 一部誤記を訂正しました。