2005-10-31 写真の混沌とした宇宙
■[art][写真はものの見方をどのように変えてきたか][東京都写真美術館][2005][写真]


★「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第4部 [混沌]」(東京都写真美術館)
写真の誕生を概観する第1部、19世紀末から1930年代のモダニズムの時代を検証する第2部、日本の1930年代から1960年代における写真史の紆余曲折を12名の写真家の仕事で辿った第3部につづいて、1970年代から現在に至る写真のあり方をさまざまな作品で構成する第4部。アメリカ、ヨーロッパ、日本、その他というカテゴリーで数冊のポートフォリオを含めた80余点を展示している。
ダイアン・アーバス(Diane Arbus, 1923-1971)の死から説き起こすこの展覧会は、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman, 1951- )、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol, 1928-1987)、ロバート・メープルソープ(Robert Mapplethorpe, 1946-1989)、荒木経惟(あらき・のぶよし, 1940- )、森山大道(もりやま・だいどう, 1938- )といった写真の門外漢にもなじみのある作家の作品をはじめ、記録、報道、創造といったこれまでの3つの部で確認された写真の潜在性はもちろんのこと、いまや自らの存立条件をさまざまに問い直す現代美術としての試みまでもが一堂に会している。
ドゥェイン・マイケルズ(Duane Michals, 1932- )の「写真では見えないけれどここに存在するもの(There are Things Here not seen in this Photograph)」(1977)は、ジュークボックスが置かれた酒場の光景(無人)を写した作品だが、余白に文章が書き込まれている。読むと、汗で濡れたシャツ、ビールの味、人の声といった写真に写らないことがらが一人称(主観的な意識もまた写真に写らない)で書かれている。岡崎乾二郎のやたらと長いタイトルを冠された作品のように、写真を観ているはずなのだけれど延々言葉を読むはめになり、読めば写真に写らない感覚について語られているという趣向、手書きの(書き損じを含めた)文字とあいまって笑いを催させもする。当たり前のことに過ぎないけれど、ドゥェイン・マイケルズがここに書き付けた言葉は、そのままどの写真を観るおりにもついてまわる確固たる事実なのだった。
⇒photography temple > Duane Michals(英語)
http://www.temple.edu/photo/photographers/michals/duane.html
いまやディジタル・カメラの普及によって、こうしている瞬間にも誰が観るのかわからないほどたくさんの写真が無数の人/機械によって撮影されている。いまさら「イメージの氾濫」といってみてもなにも把握したことにはならないけれど、そうした天文学的な量に及ぶイメージの一枚をいま目の前に見ているのだと思うと、それが作家として聖別された人物による写真であろうとアマチュアによるものであろうと、なにか同質の眩暈を感じはしないだろうか。書物や音楽や映画やゲームがどれほど大量に作られているといっても写真の物量とは比べ物にならない。もちろん他方で人はどれだけ寝食を忘れようと、写真を撮り尽くすことは出来ない。たとえ同時に100台のカメラを駆使したとしても、それで撮ることが出来るのは、ある瞬間の100箇所からの眺めだ。次のシャッターを押すまでのあいだにも、時間は流れ去り世界は変化している。「この光はいまこの瞬間にしかありえないのだから、いま‐ここが緊急事態だ」(大意)と映画について述べたゴダールの言葉は、写真にもそのままあてはまる。いや、映画よりさらに事態は深刻とも言えるかもしれない。
(性能の良し悪しはともあれ)携帯電話に組み込まれることでさらに普及の度合いを進めたカメラは、ことによったらより多くの「緊急事態」に対処できる力を手にしたのだと考えてみることもできるだろう。とはいえ、識字率の高い場所(文字という道具が行き渡った場所)から優れた文学が多く出るとは限らないように、道具が行き渡ったからといって創造が促進するとは限らない。なんだか当たり前のことを述べているようだけれど、カメラと写真という表現は、そうした量と質の関係を考えさせる要素があるように思う。
先に書影を掲げた書物『写真の歴史入門 第4部「混沌」——現代、そして未来へ』(とんぼの本、新潮社、2005/09、amazon.co.jp)は、本展覧会の図録に該当するもので、一部ごとに一冊で都合四冊が刊行されている。
なお、本展覧会の会期は2005年11月6日(日)まで。
⇒作品メモランダム > 2005/08/20
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050820
第3部「再生」についてのメモランダム
⇒作品メモランダム > 2005/06/25
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050625
第2部「創造」についてのメモランダム
⇒作品メモランダム > 2005/05/06
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050607
第1部「誕生」についてのメモランダム
■[news][book][新刊案内][飯沢耕太郎][都市の視線][平凡社ライブラリー][平凡社][2005][写真]

★飯沢耕太郎『[増補]都市の視線——日本の写真 1920-30年代』(平凡社ライブラリー555、平凡社、2005/10、amazon.co.jp)
1989年8月に創元社から刊行された親本を改訂・増補した一冊。日本の1920年代から30年代の写真を論じた表題作「都市の視線」のほか、野島康三、福原信三、淵上白陽、福森白洋、安井仲治、中山岩太、小石清、堀野正雄、木村伊兵衛、飯田幸次郎といった名だたる写真家たちの評伝・作品論を集成している。巻末には「日本近代写真史年表(1921‐1945)」も収録。
⇒平凡社
——というラインナップを見れば思い出すのは国書刊行会から刊行中の「日本写真史の至宝」。1930年代を中心とした日本の写真集の名作を復刻するシリーズ。目下は以下の三冊が刊行されている。
★安井仲治『安井仲治写真作品集』(amazon.co.jp)
http://webshop.ncm.jp/cgi-bin/kokusho/shop.cgi?button=detail&page=4-336-04490-2
★小石清『初夏神経』(amazon.co.jp)
http://webshop.ncm.jp/cgi-bin/kokusho/shop.cgi?button=detail&page=ISBN4-336-04485-6
★堀野正雄『カメラ・眼X鉄・構成』(amazon.co.jp)
http://webshop.ncm.jp/cgi-bin/kokusho/shop.cgi?button=detail&page=4-336-04486-4
■[news][book][新刊案内][荒木経惟][写真ノ話][白水社][2005][写真]

★荒木経惟『写真ノ話』(白水社、2005/10、amazon.co.jp)
写真ついでに最近眼にした写真書から。
荒木経惟の主著にして写真家志望者の教科書!
ロンドンでの大回顧展にあわせ、これまでの制作秘話を一挙公開! デビューから現在までの自作を説明しながら、日本の写真史にも言及。天才アラーキーが本音で語る、写真論・写真術。
(白水社ウェブサイトより)
荒木節全開で、写真に関心がなくてもおもしろく読めるのはこれいかに。
⇒arakinobuyoshi.com
http://www.arakinobuyoshi.com/
⇒Kanroshobo > 荒木経惟ページ
http://www.kanroshobo.com/KANROKANRO/ARAKI/
⇒白水社
2005-09-15 2005年9月の平凡社新書を中心に
2005-09-13 明治時代のモテ/非モテ問題
2005-08-20 戦争と写真
■[art][写真はものの見方をどのように変えてきたか][東京都写真美術館][2005][写真]


★「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第3部 [再生]」(東京都写真美術館)
全4部で写真の歴史を概観する写真展シリーズ「写真はものの見方をどのように変えてきたか」の第3部「再生」が東京都写真美術館で開催されている。
写真の誕生を概観する第1部、19世紀末から1930年代のモダニズムの時代を検証する第2部につづく第3部では日本の1930年代から1960年代における写真史の紆余曲折を12名の写真家の仕事で辿る。
時代区分からもわかるように、戦争と写真の関係を再考する内容でもある。報道写真はどのように国策に利用されていったのか、そうした流れのなかで個々の写真家は戦争とどのように向き合ったのか。
登場する写真家は、小石清(こいし・きよし, 1908-1957)、河野徹(こうの・とおる, 1907-1984)、木村伊兵衛(きむら・いへい, 1901-1974)、林忠彦(はやし・ただひこ, 1918-1990)、植田正治(うえだ・しょうじ, 1913-2000)、濱谷浩(はまや・ひろし, 1915-1999)、桑原甲子雄(くわばら・きねお, 1913- )、熊谷元一(くまがい・もといち, 1909- )、中村立行(なかむら・りっこう, 1912-1995)、大束元(おおつか・げん, 1912-1992)、福島菊次郎(ふくしま・きくじろう, 1921- )、東松照明(とうまつ・しょうめい, 1930- )。いずれも名だたる写真家である。
写真だけが記録・伝達できる現実があり、そのような写真の機能ゆえに写真はときとして写真家の意図に反して「修正」されもする。この展覧会に出品されている写真のなかにも、プロパガンダのために「修正」を施されたものがある。どの写真のどこにそのような「修整」がなされたのか、という意識をもって写真に対峙することで、ある種の緊張感が生じる。商品広告の写真など、ディジタル技術の応用によって「修正された写真」を見慣れすぎてしまった現代の眼から見ても、それが「修正」であることに気づいたときには軽いショックを受けるのではないだろうか。それはおそらく、写真に施された修正そのものに対する驚きというよりは、そのような修正を施した修正者の意図への驚きである。
もちろん、テーマは戦争だけではない。戦中戦後の生活風景、満州、沖縄、銀座、ヒロシマ、新宿(68年)といった街の様子、子供たち、ヌード、作家、民俗など、それぞれの写真家の作風をうかがわせる作品も多数展示されている。また、写真誌『NIPPON』や『FRONT』ほかの現物もガラスケースにはいってではあるが出品されている。
会期は2005年09月11日まで。
⇒作品メモランダム > 2005/06/25
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050625
第2部「創造」についてのメモランダム
⇒作品メモランダム > 2005/05/06
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050607
第1部「誕生」についてのメモランダム
■[art][ブラッサイ ポンピデゥーセンター・コレクション展][東京都写真美術館][2005][写真][Brassaï]


★「ブラッサイ——ポンピドゥーセンター・コレクション展」(東京都写真美術館)
2005年08月06日(土)〜09月25日(日)の会期で、ブラッサイ展が開催されている。
パリのポンピドゥーセンター(フランス国立近代美術館産業創造センター/ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター)は、 その超近代的な建築でパリ観光の名所のひとつとされていますが、膨大な近代・現代美術のコレクションによる秀逸な展覧会を開催する美術館としても知られています。 なかでも、フランスを代表する写真家ブラッサイの写真、素描、彫塑からなるコレクションは世界有数の作品数を誇り、2000年に開催された 「ブラッサイ」展は国内外で大きな成功を収めました。<ブラッサイ>ことジュラ・ハラースは、1899年現ルーマニアの都市ブラショブに生まれ、 のちにその名が転じて<ブラッサイ>と名乗るようになりました。画家を志した彼はハンガリーとドイツに学び、1924年ジャーナリストとしてパリに渡ります。 その後、アンドレ・ケルテスの手ほどきで写真を始め、夜更けの街や裏通りを練り歩きながらカフェやバーを巡り、 猥雑でありながらも人情味あふれる1930年代初頭のパリを描き出しました。こうして、1932年に発表された『夜のパリ』(序文ポール・モラン)は、各界から絶賛され、 一躍脚光を浴びたのです。今回、当館ではポンピドゥーセンターの企画協力を得た日本唯一の巡回展として、代表作「夜のパリ」「落書き」をはじめ、実験的な「ミノトール」誌での仕事や、ハーパース・バザー誌で発表された「昼のパリ」など193点の写真作品に加え、ベルリン時代とパリ時代の貴重な素描8点、彫塑作品33点の未発表作品を含む全234点を展示。20世紀の巨匠、ブラッサイの全貌に迫ります。
(東京都写真美術館ウェブサイトより)
⇒Centre Pompidou(仏/英/西仏)
http://www.cnac-gp.fr/Pompidou/Accueil.nsf/tunnel?OpenForm
ポンピドゥー・センターのウェブサイト
⇒岩波書店 > 『ブラッサイ写真集成』
2005-08-11 医療現場における意思決定
2005-06-25 写真のモダン
■[art][写真はものの見方をどのように変えてきたか][東京都写真美術館][2005][写真][写真史]


★「写真はものの見方をどのように変えてきたか 2 創造」(東京都写真美術館)
東京都写真美術館が開館10周年を記念して企画した特別企画展「写真はものの見方をどう変えてきたか」の第二部「創造」が開催されている。
同企画展は、写真の歴史を全4部の構成でふりかえるもので、歴史を概観するとともに、普段は書物の複製でしかお目にかからないオリジナル・プリントに接することができ、門外漢には誠にありがたい企画だ。
第1回の「誕生」に続く第2回「創造」では、「モダンエイジの開幕」と題して19世紀末から1930年代、美術史でモダニズムの時代と区分される時代の写真を紹介している。
絵画を手本にして構図をつくる「ピクトリアリズム」が興れば当然のことながら、そうした作為に異を唱える自然主義も出てこよう。この作為と自然の両極のあいだを写真の歴史もまた反復し、そのなかから「写真にしかなしえないこと」の探究もはじまる。
たとえばロール・アルバン=ギヨ(Laure Albin-Guillot, 1880?-1962)の顕微鏡写真は、かつてロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)が顕微鏡を覗き込みながら描き取った微視的世界そのままに植物の細胞を写し取ってみせる。また、ハロルド・E.エジャートン(Harold Eugene Edgerton, 1903-1990)による「電球を通り抜ける弾丸」(1936)のように、私たちの視覚ではとらえきれない高速の世界を見事にとらえている。
他方では、バウハウスやシュルレアリスムにおいて展開されたさまざまな実験的表現の数々があり、写真表現の未踏領域が踏査されてゆくのもこの時代。
自然と作為といえば大雑把にもほどがある図式だけれど、こうして歴史をながめやると、両者が互いを必要としている機微が見えてくる。言ってしまえば莫迦みたようなことだが、スナップの一枚がすでにそうした作為と自然のどちらともつかぬ交差点で撮られるものではなかったか。
⇒作品メモランダム > 2005/05/06
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050607
2005-06-13 新宿騒乱 68・10・21
■[news][book][新刊情報][日本写真史の至宝][安井仲治写真作品集][国書刊行会][2005][写真]

★『安井仲治写真作品集』(飯沢耕太郎+金子隆一監修、日本写真史の至宝、国書刊行会、2005/05、amazon.co.jp)
日本の写真表現が最初の全盛期を迎えた1930年代を中心にモダニズムの傑作写真集を原本に忠実に復刻するシリーズ【日本写真史の至宝】第1回配本。
<関西写真界のリーダーであった安井仲治は、1942年に38歳で夭折した。この遺作集には、「眺める人々(猿廻しの図)」、「凝視」など、プリントが残っていない作品を含めて、代表作50点が収められ、彼の生涯を辿ることができる>(飯沢耕太郎)
なぜこのような企画が可能なのか、まったくわけがわかりません(もちろん褒め言葉です)。ご近所の図書館にリクエストを出して眺めましょう(もちろん購入も可也)。
本叢書刊行を記念して、以下のイヴェントが開催されるようです。
「写真集の魅力と愉しみ——作る、読む、蒐める」
■出席者:飯沢耕太郎+金子隆一+クリス・ピヒラー(Nazraeli Press)
■日 時:2005年6月26日(日)15:00〜17:00(14:30開場)
■会 場:青山ブックセンター本店内・A空間
■定 員:60名様
■入場料:¥500(税込)電話予約の上、当日精算
■連絡先:03-5485-5511
■受 付:2005年6月2日(木)10:00より
写真集という「メディア」の魅力はどこにあるのか。雑誌や新聞といったマスメディアとも、オリジナルプリントとも違うその魅力について、第一線で写真集と格闘する3人のプロが「作り」「読み」「蒐める」それぞれの立場から大いに語りあう。「日本写真史の至宝」のほか、川田喜久治「地図」、細江英公「鎌鼬」といった過去の名写真集の復刻や、Martin Parr, Photobook、 Andrew Roth、 The Book of 101 Books といった「写真集本」の刊行が相次ぐ現在の状況を読み解く。
(国書刊行会ウェブサイトの情報より/体裁を加工しています)
http://webshop.ncm.jp/cgi-bin/kokusho/shop.cgi?button=detail&page=4-336-04490-2
kijiq
2005/06/17 10:11
やくーも様 ばとんがきたら,あつめているので,ください。(予約)
yakumoizuru
2005/06/17 11:09
はいさ、パスしますのでお待ちあれ :-)
2005-05-06 ものを見る眼を洗いなおす
■[art][写真はものの見方をどのように変えてきたか][東京都写真美術館][2005][写真]


★「写真はものの見方をどのように変えてきたか 1 誕生」(東京都写真美術館)
人が写真史への道に踏み込む入り口はいろいろあると思うけれど、たとえば蓮實重彦(はすみ・しげひこ, )氏の大著『凡庸な芸術家の肖像——マクシム・デュ・カン論』(青土社、1988/11; 上下巻、ちくま学芸文庫、筑摩書房、1995/06、amazon.co.jp)もそのきっかけを提供する一冊だと述べたら人は意外に思うだろうか。雑誌『現代思想』(青土社)に、1979年から足掛け8年にわたって連載され、加筆を経て2年後に刊行された800ページを超える書物のなかには、たしかに写真の誕生にまつわるエピソードが含まれており読み手の関心を写真のはじまりへと向けるのに十分な紙幅が割かれていたように思う。
というのも、ほかならぬ同書の主人公マクシム・デュ・カン(Maxime du Camp, 1822-1894)は、写真史の初期といってさしつかえない時代に『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア1849-51年の写真スケッチ』(Egypte, Nubie, Palestine et Syrie: Dessins Photographiques recuillis pendant les années 1849 et 1851)(1852)という写真入りの書物をつくっているのだ。彼は旅先の風景を正確かつ豊富に持ち帰るために従来の記録手段であったスケッチにかえて写真を選んだのだった。ところで同書において蓮實氏はマクシムの写真集についてこう述べている。
写真集なる書物をどのように作ったものか、誰も知らなかった時代のこと故、マクシムはその工場に何度も足をはこび、印刷の具合をみずから確かめる。それは文字通りの手仕事であり、先行するモデルを持たない捏造品である。
(同書、145ページ)
果たしてマクシム・デュ・カンにとって「先行するモデル」と言いうるかどうかわからないのだが、年代的にマクシムに先行するものとしてアンナ・アトキンズの『イギリスの海藻の写真』(1843-53)や、タルボットの『自然の鉛筆』(The Pencil of Nature)(1844-1846)といった写真集の試みがあることを知ったのは、『凡庸な芸術家の肖像』に導かれて写真史の書物をひもといたあとのことだった。
ときに、いま言及したマクシムやタルボットの作品を東京で観ることができるのをご存じだろうか。
2005年4月2日(土)からはじまった、東京都写真美術館の開館10周年を記念した特別企画展「写真はものの見方をどのように変えてきたか 1 誕生」には、写真史の黎明期をかざる作品が多数出展されている。主だった固有名をひろっておこう(ただし書影はことのついでに関連書を示すもので、本展覧会とは直接関係がない)。
カメラの前身となったことで写真史のはじめに登場するカメラ・オブスクラ(Camera Obscura)(カメラ・オブスクラとは、暗箱の一面に開けられた穴を通る光が穴の向かいにある面に外側の光景を映し出す装置である)。
ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Ni&eactue;pce, 1765-1833)が1826年にはじめてカメラ・オブスクラの像を金属板に定着させることに成功した「エリオグラフィ」(Heliographie=太陽による画)の作品。
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787-1851)が1839年に公開し、ヨーロッパでまたたくまに広まった「ダゲレオタイプ」(Daguerréotype)とそれによる写真。
ダイレクトプロセス(直接印画法)を実現したダゲレオタイプに対して、ネガ・ポジプロセスを考案し、写真に複製の道を大きく切り拓いたイギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot, 1800-1877)と彼の「カロ・タイプ」(Calotype)と写真史上最初の写真集とも言われる『自然の鉛筆』ほか。
ダゲレオタイプが発表される前に独自の方式によるダイレクトプロセス式の「バヤール・タイプ」(Bayardtype)を開発しながらも科学アカデミーの後ろ盾を得たダゲレオタイプに押されて発明者として不遇をかこったイポリット・バヤール(Hippolyte Bayard, 1801-1887)が科学アカデミーに抗議のために送りつけたという死者に扮した写真とその裏面に綴られた抗議文等々。
また「渡海」と題した後半では、カメラがとらえた幕末日本の風景や肖像写真が多数展示されている。
「写真はものの見方をどのように変えてきたか」——実をいえばこの提起を実感することはむつかしい。カメラはもちろんのことヴィデオやCGが氾濫する世の中に生まれた身とあっては、写真とははじめからあるもの、あまりにも見慣れてしまったもののひとつだから。
人間はたいていのことに慣れてしまう。いまやネットワークを通じてコンピュータ同士で動画さえ送受信できることを誰もいぶかしがったり不思議に思ったりしないだろう。しかし、ほんの四半世紀前には動画はおろか画面に一枚の画像を表示するのにさえ相当の時間がかかるような、そんなコンピュータが使われていたのだ。私たちはいまから見れば低スペックもいいところのコンピュータに、当時十分に驚き、また、性能の進展に眼をみはってもきた。しかし、現在の姿になったコンピュータに慣れてしまえば、以前自分が何に驚いていたのかも明確に思い出せなくなる。
しかし、そこに展示されたカメラと写真以前には写真が存在しなかったことに思いをいたすとき、あるいは、そうした機材や化学的手法といった物質的・技術的条件に支えられて写真が可能になったことを思い返し、はじめてカメラを手にした人びとが写したものに向かい合うとき、彼/彼女たちが感じたかもしれない驚きを日頃よりもいくらか多く想像してみることができるのではないだろうか。もう一度、写真がなしえていることに驚くためにも、というよりも、よく見ることさえもおろそかになりはてつつあるわが眼を洗いなおすためにも、本展覧会によって写真の歴史に向かいあうことは有意義だと思う。
本展覧会は目下開催中の第1部をふくめ、全4部構成の予定。
・第1部【誕生】(2005/04/02-05/22)
・誕生——発明された第三の視覚
・渡海——往来する「術」と「像」
1839年、第三の視覚「写真」が誕生、欧米で普及、さまざまに展開した。やがて海を渡り、写真師と技術が日本へ。現代につながる源泉をオリジナルプリントから探ります。
・第2部【創造】(2005/05/28-07/18)
写真にとっての芸術とは、表現とは。19世紀末から1930年代までモダニズムの時代に百花繚乱な試みがなされた写真を紹介します。
・第3部【再生】(2005/07/23-09/11)
写真家という存在が時代と社会の中をいかに生きたかをテーマとして、主に太平洋戦争を生き抜いた写真家たちの軌跡を列伝的にたどります。
・第4部【混沌】(2005/09/17-11/06)
美術館が生み出した写真表現の新しい「かたち」……
1970年代以降の現代写真の混沌(カオス)を一望します。
■追記(2005年05月15日)

2001年の2月から3月にかけて、三鷹市美術ギャラリーにおいて「マクシム・デュ・カン展——150年目の旅」が開催されていた、という情報をお寄せいただきました(私自身は同展を見逃しており参観していませんが、上記エントリに関連して有益な情報なので同ウェブサイトの解説にそってここに追記しておきます)。同展覧会ならびに図録の内容について情報をご提供してくださった山村修さんに感謝いたします。
同展は、マクシム・デュ・カン(Maxime du Camp, 1822-1894)の写真集『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア1849-51年の写真スケッチ』(Egypte, Nubie, Palestine et Syrie: Dessins Photographiques recuillis pendant les annees 1849 et 1851)(1852)に使われた125点の写真を展示に供したもの。これはマクシム・デュ・カンが1849年にフロベールとともに訪れた中近東諸地域で撮影した2000枚に及ぼうかという写真をもとに制作された書物である。

注目したいのは同展覧会の図録で、上掲原書の体裁を踏襲したつくり(装幀の外観、写真の掲載順など)になっているとのこと。蓮實氏の書物を通じてマクシム・デュ・カンに関心をそそられた身としては在庫があれば手元におきたい一冊。
⇒三鷹市美術ギャラリー > マクシム・デュ・カン展
http://mitaka.jpn.org/gallery/036/index.html
⇒三鷹市美術ギャラリー > 図録
http://mitaka.jpn.org/store/gallery03.html#g22
aquirax
いや、デュ・カン展図録は即座に購入されることをお薦め致します。いまどき斯様な贅沢な背継ぎ表紙とは……唖然とするばかり。
で、展観拝見時には、ほぼ俯瞰も仰角もない対象に正対しようとする視線に、ある種のスタイルの起源を見ようと考えていたことを思い出しました。
yakumoizuru
先日、同美術館に赴いたおりに図録を拝見しました。所長殿がおっしゃるとおり必携の一冊かと思います(立派な造本がたたって〔?〕重量もなかなかのため持ち帰りは断念しましたが)。
そのお考えのつづきをぜひどこかで!





























