ポンコツ山田.com このページをアンテナに追加 RSSフィード

2015-04-24

五人の作家によるそれぞれの蟲の物語 『蟲師 外譚集』の話

蟲。それは、私たちが普段知るものとは別の形をした命。より生命の現生体に近いもの。此処にも、其処にも、彼処にも、到ところに蟲はいるけれど、それを見ることのできる者は少なく、共に在る術を知る者はさらに少ない。

蟲と共に在る術を知る者、人は彼らを蟲師と呼ぶ。

古来より蟲師は、蟲と人との間で生きてきた。昔もいるし、今もいる。蟲と、蟲師と、蟲に触れた人達を、五人の作家が描き出す……

ということで、漆原友紀先生『蟲師』のトリビュート作品集『蟲師 外譚集』のレビューです。

五人の作家が紡いだ五つの蟲の物語。

蟲師を騙ったある男が招いた悲劇とその末路を描いた「歪む調べ」(熊倉隆敏)。

鄙びた温泉地へ案を練りに訪れた漫画家と寡黙な青年が出会った「滾る湯」(吉田基已)。

夕刻の海で少女が見つけた蟲と蟲師「海のちらちら」(芦奈野ひとし)。

少女が彷徨う誰もいないの秘密「組木の洞」(今井哲也)。

行方不明の母親の捜索を頼まれた探偵が近づいた、蟲と一人の孤独な男「影踏み」(豊田徹也)。

普通の人には見えない蟲。でも、それの存在に気づいたときもさほど驚くことはなく、蟲は緩やかに日常の中に入り込み、そしてまた過ぎていく。日常と非日常は薄皮一枚隔てたものでしかないとでも言うように、容易く日常と同化して、薄皮一枚が必ずあるとでも言うように、また目の前から去っていく。

時として人は、手の触れられないそれに憧れ、求め、楽しみ、悲しみ、惑わされ、騙され、連れ去られ、放り出される。でもそれは、誰が悪いわけではない。善い悪いではない。それはそういうものなのだから。人と違う理で存在するものに、人の規矩を当てはめてはいけない。人が知るべきは、その扱い方ではなく、それとの付き合い方なのだから。

五者五様の物語であるけれど、そこに漂う空気には共通するものがあります。それは、どこか浮世離れした空気。彼岸此岸を渡る風。山深き廃村で暮らす一人の男の下にも、朗らかな田舎の温泉場にも、風遊ぶ夕暮れ時の海辺にも、がらんどうの新宿駅にも、健康な夏の日にも、人と人ならざるものを繋ぐ縁となる空気が漂っているのです。後味の良い物語にも悪い物語にも、それが確かにある。そしてそれは、原作にもある空気。

この作品集は、原作を知らない人でもきっと楽しめるでしょう。実際、原作に登場する主人公ギンコは、「海のちらちら」の中でそれらしい人物がほんの少し登場するだけで、五作ほぼ全編にわたって、原作の要素を取り入れつつも、参加者独自の物語となっています。蟲という、人などよりもいっそう根源に近いところにいる生命体について思いを馳せられるのであれば、そこで描かれる人が誰でなければいけないということはないのです。

描く人は違っても作品が含む空気は似ていて、それだけ各参加者がこの作品の空気を感じ取っていたということでしょう。

こんな穏やかな春の晩に読むと、何かいるのではないかと、思わず窓の外の闇を見てしまいますね。

蟲師』を知っている人にも知らない人にも、お薦めです。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。

一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

2015-04-19

『わがままちえちゃん』歪んだちえの現実と彼女の理の話

先月発売された、志村貴子先生の『わがままちえちゃん』。

主人公の夢と妄想と幻想がシームレスに錯綜するこの作品は、一読してどう解釈していいかわからないものとなっています。それをどう読み取ればいいのか、私なりに考えてみたいと思います。当然読んでいること前提ネタバレ上等の記事となりますので、さあ未読の方は本屋に走るかamazonでポチるんだ。

続きを読む

2015-04-12

私だけの悪魔を探す、ある少女の旅『フラウ・ファウスト』の話

ファウスト博士。それは、悪魔メフィストフェレスと契約し、悪徳の限りを尽くした一人の伝説の男。多くの人間が知る、おとぎ話フォルクスメルヒェンの登場人物。けれど、少年マリオンが出会った、少女ヨハンナファウストこそ伝説上のその人だった。彼女の目的は、教会によって封じられたメフィストを解放すること。街々をさすらい、メフィストの跡をたどる彼女と、彼女に付き従い知識を得ようとするマリオン。二人の旅路は、悪魔の復活を阻止しようとする教会のために、決して安楽なものとはならない。ヨハンナメフィストを解放したとき、いったいそこには何があるのか……

フラウ・ファウスト(1) (KCx)

フラウ・ファウスト(1) (KCx)

ということで、ヤマザキコレ先生『フラウ・ファウスト』のレビューです。やはり現在連載中の『魔法使いの嫁』同様、魔法や悪魔が存在する世界のファンタジーとなっております。

ファウストと言えば、ゲーテによる戯曲ファウスト』があまりにも有名ですが、もともとは中世ドイツに実在していたとされる人物で、その生涯から、ゲーテ以外にも多くの人間の手によって作品のモチーフとなっています。

参考:Wikipedia-ヨハン・ファウスト

本作もそのファウスト伝説の系譜に連なる作品。ヤマザキ先生はファウストを女性とし、封印されたメフィストを解放させるための旅をさせました。

伝説上の人物・ファウスト博士。曰く、頭はいいが強欲。悪魔メフィストと契約し、数多くの悪事を働く。その実態は、膨大な知識欲を抱えた一人の女性でした。己の知識欲を満たすため、悪魔の力を用いる。ただしその力は、あくまで実験や蒐集の手助けのみに用いられ、知識を学びとることそのものは自身の手によって行っていました。

そしてそれは、今から100年余りも前の話。当時は大人の姿だった彼女は、少年マリオンと出会った時、彼より少しばかり年上の、少女と言って差し支えない身体となっていました。教会の異端審問官は、ヨハンナを100年前に死んだはずと言いました。死んだはずの彼女。若返っている彼女。致命傷を受けても傷がふさがる彼女。彼女が死んだとされるとき、そしてメフィストが教会によって封印されたとき、いったい何が起こったのでしょう。彼女とマリオンの旅は、彼女の過去に近づく旅でもあります。

世の噂話では悪行の限りを尽くしたとされるファウスト博士ですが、噂と現実が違うのは世の常。知識欲の充足のために余人には推し量りがたいこともしていた彼女ですが、単純な善悪の物差しを当てはめることが難しいことも多かったようです。たとえば、収穫量が多いかわりに人体に害をなしうるかもしれない麦を、飢餓に苦しむ村に渡したこと。人造生命を造ったこと。それは、あるいは人の道にから外れることかもしれないし、神の教えに反することかもしれない。しかし、それによって救われた人や、それによって生み出された存在は、果たして彼女を恨むのでしょうか。

また気になるのは、彼女とメフィストの契約です。悪魔と契約をすれば見返りを要求されるのは必定で、彼女が譲り渡すものも、例に漏れず魂であるようです。ですがそれは、いつメフィストの手に渡るのでしょう。

人生の不充足を感じていたゲーテファウストは、この世の美しさを実感し、「時よとまれ、汝は美しい」と言ったときに魂を譲り渡すものとされました。では、ヨハンナは? 歯を食いしばりながら件の麦を渡した後に、彼女がメフィストに言った「簡単に堕ちると思うな」という言葉に、なにか秘密がありそうです。

そもそもなぜ彼女はファウストを復活させようとしているのでしょうか。本人曰く、「あいつをシメ」、「あの人間をバカにしたような無駄にいい顔をぶん殴って這いつくばらせたい」というのですが、その言葉を額面通りに受け取るには、彼女が一人の時に見せる姿が感傷的に過ぎるように思えます。100年の時をかけてメフィストを捜し歩く彼女の胸中には、一方ならぬ思いがあるようです。

そして、彼女の知識に憧れ旅を共にする少年マリオン。ヨハンナと同じく知識欲に溢れる彼は、いわば過去の彼女。ヨハンナのすぐそばで彼女の人となりを知り、彼女の知識に触れるマリオンは、悪魔と契約をするような少年になるのでしょうか。それとも、ヨハンナとはまた別の道を見つけるのでしょうか。

第一話の試し読みは、以下のリンク先で。

フラウ・ファウスト-ヤマザキコレ

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。

一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

2015-04-05

転生先の最弱ゴブリンからのし上がれ! 『Re:Monster』の話

ある日、妹のように思っていた女の子からめった刺しにされて死んだはずの俺は、なぜかゴブリンに転生していた。前生では、ESP持ちの上に強化手術を受けた強化人間ブーステッドマン俺が、今生ではなんの因果かか弱いモンスターのゴブリンの赤ん坊。しかしなってしまったからには仕方がない。幸い、超能力の一つである吸喰能力アブソーブションだけは残っていたので、せっかく得た二度目のゴブ生、力の限り生き抜いてやるとするか!

ということで、金斬児狐先生原作、・小早川ハルヨシ先生作画の『Re:Monster』のレビューです。

人間からなぜかゴブリンに転生してしまった男が、新たな人生ならぬゴブ生を、一匹のゴブリン・ゴブ朗君として、チート能力である吸喰能力アブソーブションをフルに駆使してのし上がっていく、アルファポリスお得意の俺TUEEEEEEEEEEEEEEE系作品です。

ゴブ朗君が属するところのゴブリンという種族は、成長するスピードは速いものの、知力はあまり高くなく、秀でた一芸も無いため、種としての強さには恵まれていません。多くの赤子が生まれても、生き残れるのは一握り。しかし、吸喰能力アブソーブションと前世の記憶をもって生まれたゴブ朗君は、身体運用や戦略性に他のゴブリンを圧倒するパフォーマンスを見せて、あっという間に同年代のゴブリンを掌握します。

彼の持つチートその一・吸喰能力アブソーブション

曰く、「簡単に言えば 口にしたものはどんなに硬くてもバリバリと喰えて どんなに毒性の強い物質でも体内で無害なものに再構築できて そして喰ったものの特性やパワーを得られるって能力」。ウサギを喰えば能力・脱兎エスケープを覚え、毒蛇を喰えば能力・蛇毒投与ヴェノム赤外線感知サーモグラフィー蛇の魔眼イーヴィル・アイなどを覚え、火精石を喰えば能力・発火能力パイロキネシスを覚え、また特殊能力だけでなく身体能力も強化されるしで、まさに「喰えば喰うほど強くなることが可能」な能力です。マジチート

彼の持つチートその二・前世の記憶。

未知の状況に飛び込んだ際に、知識や経験のあるかないかでそこでの危険度は大きく変わるものですが、人間の時には多くの死線を潜り抜けていたゴブ朗君は、前世の記憶をフルに活用して、安全に、かつ効率的に狩りをしています。道具の使用や、一人が追い込んでもう一人が待ち伏せて仕留めるという狩猟法など、知っていれば当たり前に思えるものですが、生後4日で大自然の中に放り出されて自給自足を強いられるゴブリンでは、そんなものを学びようがありません。事実、他の多くの子供ゴブリンたちは満足に狩りができず木の実を採ることでギリギリ飢えを凌いでいる状況だったのですが、ゴブ朗君と、たまたま狩りに出るときに声をかけたゴブ吉君、そして後に仲間に加わったゴブ美ちゃんは、余裕のある狩りで飢え知らずで満腹の日々。おかげでゴブ朗君の吸喰能力アブソーブションはどんどん進むし、そのおかげで狩りはいっそう楽になってより格上のモンスターも狩れるようになるという好循環。マジチート

驚異的なスピードでのレベルアップは、彼をゴブリンからホブゴブリンへと存在進化ランクアップさせ、能力も体格も、飛躍的に向上させたりもしています。そもそも存在進化ランクアップができるもの自体そう多くはないはずなのに、生後わずか二週間でホブゴブリンに進化したゴブ朗君(とゴブ吉君)は、もはや異常とすら呼べる存在になっています。

こうして俺TUEEEEEEEEEEEを謳歌するゴブ朗君ですが、彼の秀でたところはそれだけでなく、強烈なリーダーシップも発揮しています。圧倒的な武力で同年代をこてんぱんにのして掌握した後は、訓練や勉強を施して全体の能力を底上げ。そして、出稼ぎから帰ってきた親世代も同様に支配下に置き、ルールを破った者は拷問をした末に殺害。冷徹な飴と鞭を使い分け、種族全体を一つの有機的な部隊へと育てていきます。

さらにさらに、ホブゴブリンへと進化した際に人間にごく近いイケメンフェイスを手に入れたゴブ朗君は、女性関係にも不自由しません。出稼ぎに出ていた親世代が性奴隷として連れ帰ってきた人間種族5人を、親世代から力で勝ち取り、保護をした彼は、素早く彼女らの好感度もゲット。両手じゃ足りない花を手に入れます。

おいおいいい加減にしろよと思うチート持ちのゴブ朗君ですが、あくまで彼の俺TUEEEEEEEEEEEは種族内での相対的なものであり、種族外の格上のモンスターに対しては、十分な戦略と対策を練った上での襲撃であるため、決して見かけほどの楽勝ではありません。チートその一・その二を駆使した上での圧倒なのです。その意味で、ただ単調なゴブ朗君無双には陥らず、読み応えのある作品となっています。

他のアルファポリス俺TUEEEEEEEEEEE作品でも同様なのですが、俺TUEEEEEEEEEEE能力をただ振るうのではなく、その能力を一定のルールや倫理観に基づいて行使しているために、戦闘が散漫にならないのがよいですね。

ホブゴブリンになった際に、ゴブ朗君だけ肌が緑ではなく浅黒かったり、【大神の加護】という謎属性があったりと、彼のチートにはまだまだ先があるようです。ゴブ朗君率いるゴブリンたちが、いったいどんな俺TUEEEEEEEEEEE集団になっていくのか、楽しみです。

第一話の試し読みはこちらでどうぞ。

Re:Monster アルファポリス

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。

一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

2015-03-24

いずれ滅びるこの町で、今日も私たちは生きています 『花井沢町公民館便り』の話

私たちの住む花井沢町は、とても小さな町です。そして、とある事故のせいで、生きているものが出ることも入ることもできなくなった町でもあります。町の中には住民がいますが、もちろんみんな、出ることも入ることもできません。あと200年も経てば、きっと滅んでしまっているでしょう。私たちの住む町、花井沢町は、そんな町です……

ということで、ヤマシタトモコ先生の新作『花井沢町公民館便り』のレビューです。

舞台は近未来日本の架空の町、花井沢町。そこはいたって普通の小さな町でした。2055年5月15日午前5時41分までは。けれど同日同時42分、事故が起こり、花井沢町の人々、否、生命体すべてが、世界から孤立してしまいました。もともとはシェルターや刑務所に使われるはずだった、生命反応のある有機体だけを通さない透明な膜の研究がされていたのですが、そこで事故が起こり、花井沢町一帯がそれに覆われてしまったのです。

中の人々は出られないし、外にいる人々は入れない。それはもう取り返しのつかない事態。通れないのは生命反応のある有機体だけだから、物の受け渡しは出来る。水は流れるし電気も流れる。電波も届く。でも、人は出られないし、入れない。

そんな、世界から孤立した町。そこで暮らす人々の生活を描いたのが本作です。

人の流入出が完全に不可能になった、地方の小さな町一つ分の世界ですから、いくら物資は外から確保できるとしても、人口は減少の一途をたどりますし、そうなればいつかは人っ子一人いない世界となります(作中の見立てでは、二百数十年となっています)。ですから本作は、いわゆる終末ものの一類型。世界の滅亡が決定づけられた中で、人々がどう生きているかを描いている作品なのです。

1巻で描かれているエピソードは、時間軸に差がありますが、どれも事故から数年以降の話。住人達は自分達の置かれた状況を、少なくとも表面上は受け容れているし、あるいは事故後に生まれた人間は、その状況を当然のものとさえしています。だから、小さな事件は起こるけど生活はおおむね平穏で、作中の空気に、何かが崩壊する寸前の張りつめたものはありません。その意味では、たとえば同じ終末ものとして、小説ですが『終末のフール』(伊坂幸太郎)などと似ていると言えます。

ですが、終末ものとして本作が特徴的なのは、花井沢町以外の世界は何の変りもなく存在していることです。同町がその周囲から隔絶されただけで、それ以外に世界は変化していない。もし花井沢町が滅んでも、外の世界は別に滅びないのです。

この圧倒的な非対称が、本作にうすら寒いほどの虚無感を与えています。ゆるゆると滅んでいく世界を、手が届かないまま目の当たりにしなてくてはいけない無力感。この作品は、町人への完全な感情移入を許しません。私たちがどれだけ彼らの中に入ろうとしても、いや、仮に入ってその楽しさや辛さ、悲しさ、絶望感を共有したとしても、どこかの一瞬で膜のこちら側へ引き戻されてしまいます。この非対称性は、それほどに強い。むしろ、深く入れば入るほど、反動をつけて勢いよく引き戻されてしまうでしょう。そうして、あちらとこちらで遠く隔たった彼我に、改めて虚無を覚えます。

1巻に登場するエピソードは、外のアイドルに熱を上げる女子中学生、盗難被害に遭った男子、秘密基地ごっこに興じる子供、町民であることを隠してネット上で人気を集める青年、年上の女性からストーカー被害に遭う青年、膜を隔てた向こうの幼なじみと散歩をする少女、そして、その少女が20歳になった誕生日と、その少女が唯一の生き残りとなった日。

どのエピソードにも、事件があります。生きている人がいます。そして、手の届かない外の世界があります。物は届くし声も届くけれど、手は決して届かない。

外側と交われない内側は、少しずつ物の考え方が外とずれていき、中の人による人治的な振舞も目立ちだします。その変化は緩やかだから、平穏さは保たれているけれど、瓶底に泥は確実に沈殿していくのです。その澱みは外からも見えるけれど、どうしようもできないから、結局見て見ぬふりを決め込むしかない。とても、息苦しい。内も、外も。

虚無感はさびしさと言い換えることもできますが、先日レビューした『ビーンク&ロサ』のさびしさが、胸がすーんと冷たくなっていくさびしさなら、本作は、胃を握りしめられ嘔吐しそうになるさびしさ。不意にオエッとくる。そういえば、『終末のフール』でも、普段は平気な顔をしているのに突然嘔吐感に襲われる青年がいましたね。たぶん似た感覚。

どんなに明るかろうとも、透けてみる救いのなさ。それがどうにも、癖になります。人の葛藤を活写するのに定評のあるヤマシタ先生が、この特殊な状況下での人間模様を今後どう幅を広げて描いていくのか、とても楽しみです。

1話&2話の試し読みは以下のリンクで。

モアイ-花井沢町公民館便り/ヤマシタトモコ

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。

一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。