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2015-03-24

いずれ滅びるこの町で、今日も私たちは生きています 『花井沢町公民館便り』の話

私たちの住む花井沢町は、とても小さな町です。そして、とある事故のせいで、生きているものが出ることも入ることもできなくなった町でもあります。町の中には住民がいますが、もちろんみんな、出ることも入ることもできません。あと200年も経てば、きっと滅んでしまっているでしょう。私たちの住む町、花井沢町は、そんな町です……

ということで、ヤマシタトモコ先生の新作『花井沢町公民館便り』のレビューです。

舞台は近未来日本の架空の町、花井沢町。そこはいたって普通の小さな町でした。2055年5月15日午前5時41分までは。けれど同日同時42分、事故が起こり、花井沢町の人々、否、生命体すべてが、世界から孤立してしまいました。もともとはシェルターや刑務所に使われるはずだった、生命反応のある有機体だけを通さない透明な膜の研究がされていたのですが、そこで事故が起こり、花井沢町一帯がそれに覆われてしまったのです。

中の人々は出られないし、外にいる人々は入れない。それはもう取り返しのつかない事態。通れないのは生命反応のある有機体だけだから、物の受け渡しは出来る。水は流れるし電気も流れる。電波も届く。でも、人は出られないし、入れない。

そんな、世界から孤立した町。そこで暮らす人々の生活を描いたのが本作です。

人の流入出が完全に不可能になった、地方の小さな町一つ分の世界ですから、いくら物資は外から確保できるとしても、人口は減少の一途をたどりますし、そうなればいつかは人っ子一人いない世界となります(作中の見立てでは、二百数十年となっています)。ですから本作は、いわゆる終末ものの一類型。世界の滅亡が決定づけられた中で、人々がどう生きているかを描いている作品なのです。

1巻で描かれているエピソードは、時間軸に差がありますが、どれも事故から数年以降の話。住人達は自分達の置かれた状況を、少なくとも表面上は受け容れているし、あるいは事故後に生まれた人間は、その状況を当然のものとさえしています。だから、小さな事件は起こるけど生活はおおむね平穏で、作中の空気に、何かが崩壊する寸前の張りつめたものはありません。その意味では、たとえば同じ終末ものとして、小説ですが『終末のフール』(伊坂幸太郎)などと似ていると言えます。

ですが、終末ものとして本作が特徴的なのは、花井沢町以外の世界は何の変りもなく存在していることです。同町がその周囲から隔絶されただけで、それ以外に世界は変化していない。もし花井沢町が滅んでも、外の世界は別に滅びないのです。

この圧倒的な非対称が、本作にうすら寒いほどの虚無感を与えています。ゆるゆると滅んでいく世界を、手が届かないまま目の当たりにしなてくてはいけない無力感。この作品は、町人への完全な感情移入を許しません。私たちがどれだけ彼らの中に入ろうとしても、いや、仮に入ってその楽しさや辛さ、悲しさ、絶望感を共有したとしても、どこかの一瞬で膜のこちら側へ引き戻されてしまいます。この非対称性は、それほどに強い。むしろ、深く入れば入るほど、反動をつけて勢いよく引き戻されてしまうでしょう。そうして、あちらとこちらで遠く隔たった彼我に、改めて虚無を覚えます。

1巻に登場するエピソードは、外のアイドルに熱を上げる女子中学生、盗難被害に遭った男子、秘密基地ごっこに興じる子供、町民であることを隠してネット上で人気を集める青年、年上の女性からストーカー被害に遭う青年、膜を隔てた向こうの幼なじみと散歩をする少女、そして、その少女が20歳になった誕生日と、その少女が唯一の生き残りとなった日。

どのエピソードにも、事件があります。生きている人がいます。そして、手の届かない外の世界があります。物は届くし声も届くけれど、手は決して届かない。

外側と交われない内側は、少しずつ物の考え方が外とずれていき、中の人による人治的な振舞も目立ちだします。その変化は緩やかだから、平穏さは保たれているけれど、瓶底に泥は確実に沈殿していくのです。その澱みは外からも見えるけれど、どうしようもできないから、結局見て見ぬふりを決め込むしかない。とても、息苦しい。内も、外も。

虚無感はさびしさと言い換えることもできますが、先日レビューした『ビーンク&ロサ』のさびしさが、胸がすーんと冷たくなっていくさびしさなら、本作は、胃を握りしめられ嘔吐しそうになるさびしさ。不意にオエッとくる。そういえば、『終末のフール』でも、普段は平気な顔をしているのに突然嘔吐感に襲われる青年がいましたね。たぶん似た感覚。

どんなに明るかろうとも、透けてみる救いのなさ。それがどうにも、癖になります。人の葛藤を活写するのに定評のあるヤマシタ先生が、この特殊な状況下での人間模様を今後どう幅を広げて描いていくのか、とても楽しみです。

1話&2話の試し読みは以下のリンクで。

モアイ-花井沢町公民館便り/ヤマシタトモコ

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2015-03-18

ゴミ山で暮らす二人の、奇妙でさびしい日常『ビーンク&ロサ』の話

ゴミ山の片隅に放置されている、壊れたキャンピングカー。ビーンクとロサは二人でそこに住んでいた。まだ少年と言ってもいいビーンクと、まだ少女と言うほかないロサ。学校へも行かず働きもせず、時々怪人の一味の手伝いをして、二人で暮らしていた。盛り上がらず、落ち着かず、不安で不穏な、先の見えない二人の奇妙な日常は、いつからか始まり、いつか終わっていく……

ビーンク&ロサ

ビーンク&ロサ

ということで、模造クリスタル先生の商業デビュー作『ビーンク&ロサ』のレビューです。ビーンクとロサの二人が暮らす日常と、彼と彼女を取り巻く世界や人々を脈絡なく切り取った、とてもさびしさのある作品です。

そう、私はこの作品に、何よりさびしさを感じました。

その源は、まず主人公の一人であるビーンク。まだ10代であろう彼は、学校にも行かず定職にも就かず、ゴミ山の打ち捨てられたキャンピングカーで、ロサとふたりで暮らしています。彼がなぜそんな生活をしているかと言えば、物心つくかつかないかの頃に怪人たちに拉致され、その保護下に置かれていたから。だからというか、彼は人と接するのがひどく苦手で、基本的な読み書きも不得手。社会的能力が著しく低い。

具体例を挙げましょう。とある人に会うため、彼はロサと出かけました。その人に会うためには電車に乗らなければなりません。ビーンクは予め地図を見ておきましたが、途中で乗るべき電車を間違えてしまいました。それをロサに指摘されましたが、彼は「次こそ大丈夫」と新たな電車に乗り、そしてまた間違え、また指摘され、また間違え、また指摘され、また間違え、ついには目的地は全く関係ない終着駅まで行ってしまいました。間違えても間違えても、ロサに指摘されても指摘されても、彼は次の選択が正しいか誰かに確認することもせず、また間違えているかもという不安を抱えたまま次の選択を断定し、結果、一人で間違え続け、どん詰まりまで行ってしまったのです。

これが第一話。失敗して失敗して、それで絶望してしまった男の姿が、第一話で延々と描写されています。言ってしまえば、たかだか電車の乗り換え。それを間違えただけで、絶望の淵に沈んでいる男。それがこの作品の主人公なのです。

この、なんてことない失敗でくよくよする男を、ポップな絵柄で描かれると、私は非常に切ない。それは阿部共実先生の作品にも通じるところがあるのですが、あちらの作品は心がざわつくのだとすれば、こちらの作品は心がさびしくなる。

主人公のビーンクが、自分自身の不能を自覚し、でも諦めきれず挑戦し、でもやっぱり失敗してしまう。その失敗はビーンクを蝕んで、あらたな挑戦を挫けさせようとするのだけれど、それでもなんとか這いずるようにして新たな挑戦に手を伸ばし、また失敗する。そのくりかえし。変わろうとして、変わろうとして、変わろうとして、でも変われない、壊れたレコードのように、自分の尾を追いかける馬鹿な犬のように、同じところをぐるぐる廻っているビーンク。でも、レコードの溝はいつしか擦り減り、疲れた犬はいつしかへたり込む。人生の時間が無為に摩耗し続けているような、そんな空虚さと、恐怖と、さびしさ。それが私がこの作品から、ビーンクから感じるものです。

私がもうこの作品でどうしようもないほど共感してしまったのは、第4話でビーンクが見たという彼の夢の話です。

彼が見た「すっごい怖い夢」。それは「電車乗り過ごして…… 駅で泣く夢」。「何回も乗り間違えて… 自分の今いる場所もわからなくなって… そんなことしてるとどんどん遅れて 最後の電車に間に合わなくなってひとり駅のホームに取り残されて泣く」夢。

怖い。私もそれが、すっごい怖いです。

自分が何か失敗をして、一つの失敗がまた失敗を呼んで、それが重なって状況はどんどん悪化して、自分一人が周りから置いていかれて、最後にぽつねんと取り残されて、終わる。

前世で何かあったのか、あるいはDNAレベルで刻まれているのか、私はそういう状況に強烈な恐怖を覚えるのです。このビーンクの夢は、その恐怖を現実にあり得そうなレベルでイメージ化されたもので、今夜あたりそんな夢を見るんじゃないかってくらい私の脳内に浸み込んできました。

この恐怖。孤独。さびしさ。私には珍しく、感情移入ではなく、共感という次元で作品にはまりこんでしまったのです。

そんな悪夢の共感はさておき、彼のそばにいつもいる少女ロサ。彼女がまたこの作品のさびしさを強めています。ビーンクよりもだいぶ年下のロサは、彼よりもずっと大人びた性格で、ふらふらはっきりしないビーンクに辛辣な言葉を投げかけたり、あるいは行動のフォローをしたりと、まるで彼女が保護者かのようです。でも彼女はビーンクによく懐いており、自分から離れて一般社会に戻るようビーンクから言われると、明確に拒絶しへそを曲げます。

不器用ながらも、ビーンクと一緒にいたがる彼女。彼から離れない彼女。そんな彼女がいるからこそ、ビーンクから漂うさびしさが色濃くなる。世界から切り離された少年と、その少年に寄り添う少女。影の中のわずかな光は、闇を振り払うほどの力はなく、むしろ周囲の闇をいっそう深めてしまう。わずかでも光があるからこそ、人はその光を手放すことができず、そこに居続けてしまう。

実のところ、ビーンクもロサも、世界から孤立しているわけではありません。怪人たちの組織が彼らの生活を支え、少ないながらも人的交流は存在しています。それでもビーンクには、さびしさがある。自分は周囲と親しくすることはできないと思いこんでいる節がある。自分の不能が周りに受け入れられるわけがないと勝手に諦めているように見受けられるのです。

もしかしたらそれは、私の深読みなのかもしれません。彼の悪夢に過剰に入れ込んでしまった私が、勝手に彼のさびしさを増幅させてしまっている可能性は、大いにあり得ます。でも、そう感じてしまったのです。

実のところその2、この話はビーンクばかりにスポットが当たっているわけではありません。まったく脈絡なく、肉の描き方や、漫画のつくり方、寂れた地方都市のゆるキャラデザインの話なんかが出てきます。その落差というか、明後日な話の飛び方というかに面喰いもするでしょう。けれどその、悪い意味でなく上滑った脈絡の無い話が、ビーンクというキャラクターを飛越し、作品全体に妙な空虚さを与えているように思えます。なんだこれ。

そんなこんなで、ストーリーは進まずに話だけは進み、最終話には、さしたるハッピーエンドもバッドエンドもカタルシスも無く、ぽかんと何かに取り残されたような感覚だけがわだかまって、終わりを迎えます。放り出されるのでなく、取り残される。なんだか世界が、ちょっと遠い。

もう一度言いますが、私にとってこの作品は、とてもさびしさを感じさせるものでした。他の何かと比べがたい、唯一無二のさびしさ。

これを万人に薦めたいかというと言葉はつまりますが、共感してくれる人が多かったらなんだかうれしいな、とは思います。

マトグロッソ ビーンク&ロサ

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2015-03-14

『暗殺教室』親の支配・価値観と、そこからの逃亡先の話

前回の予告通り、『暗殺教室』の「親」から考えるお話です。

暗殺教室 13 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 13 (ジャンプコミックス)

13巻では渚の母親が初登場し、彼女の強烈さが遺憾なく描かれました。

彼女はいわゆる毒親。毒親とは、明確な定義がある言葉ではありませんが、公約数的な言葉で言えば、子供に過度な悪影響を及ぼす親、といったところでしょうか。その形は、ベッタベタに甘やかす過干渉や、ネグレクトなどの極度に消極的なもの、あるいは虐待などの暴力的なものまで、様々なバリエーションがありますが、渚の母親・広海の毒は、過度な束縛、そして支配の形をとっています。

…いい渚 アンタは子供なんだから 

人生の上手な渡り方なんてわかるはずないの

私がそういうのは全部知ってる

私とかお父さんみたくならないように… アンタのために全部プランを立ててあるから

(13巻 p121)

一見我が子である渚のことを大切に思っているような彼女の言葉ですが、その実、彼女の思いは息子自身ではなく、彼を通した、自分では叶えられなかった自己実現に向いていたのでした。自分が試験で落ちた一流大学に入れ、自分の入れなかった名門商社に入れ、自分ができなかった世界中を飛び回る仕事に就け、自分が磨けなかった女の子らしさを磨かせる。息子に。

彼女が渚を支配したい、自分の手の中にあるものとしたいというのは、その名前にも表れています。彼女の名前は広海。広い海。その息子の「渚」とは、波打ち際の砂浜。海に囲まれている地帯。自分の内側にあるエリア。

息子が自分の意に従わなければ、怒鳴り散らし、暴力にすら訴える彼女の、「殺気にも似た」「執念」で続けられているのは、「RPG「母さん」の2周目」。1周目のデータを引き継ぎ、クリアのコツを最初から知った状況で攻略に挑み、「1周目より良いEDに辿りつ」こうとする狂気。それが渚に浸み込んでいる母の毒です。

渚による、母の自分に対するイメージは、絡みつく鎖。

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(13巻 p123)

実は、これと同様のイメージは、別の生徒にも表れています。

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(9巻 p145)

竹林が夏休み明けに、E組からA組へ転級した際のものです。

代々病院を営み、彼の兄二人も東大医学部を出ている竹林の家。それがどんな家かと言えば「「出来て当たりまえの」家」なのです。そんな家で、中学で落ちこぼれてしまった(といっても、一般的な学力水準は大きく上回っているはずなのですが)竹林は、家族の中で強烈な疎外感を味わっていました。仮に殺せんせー暗殺成功に協力し、10億円を手にしたとしても、個人の生涯賃金が優にそれを上回るであろう竹林家では、彼が認められることなどありえず、「良かったな」「家一番の出来損ないがラッキーで人生救われて(笑)」と言われて終わり。彼自身がそう予想しています。

竹林家では、10億円を手にすることよりも、落ちこぼれクラスから最上級クラスへ移る方がよほど大事。トップクラスの点数を取り、初めて親に成績を報告できた彼に、振り向きもせず背中越しに投げかけられたのは、「頑張ったじゃないか 首の皮一枚つながったな」という、とてもじゃないけれど優しさを感じられないものでした。でもその言葉に竹林は、どうしようもないほどの喜びを感じてしまった。

一言をもらうために どれだけ血を吐く思いで勉強してきたか!!

(9巻 p145)

竹林にとっては、「地球の終わりより100億よりも 家族に認めらる方が大事な」のです。

そんな彼の気持ちを、直感的も最も理解できていたのは、意外にも、神崎でした。

親の鎖って… すごく痛いところに巻きついてきて離れないの

だから… 無理に引っ張るのはやめてあげて

(9巻 p146)

竹林の気持ちを分かった彼女もまた、親からの鎖に苦しんでいる一人でした。

うちは父親が厳しくてね 良い学歴良い職業 良い肩書ばかり求めてくるの

そんな肩書生活から離れたくて 名門の制服も脱ぎたくて 知ってる人がいない場所で格好も変えて遊んでたの

(3巻 p14)

あるいは少々きっつい名前を付けられた木村正義ジャスティスや狭間綺羅々のように。

あるいは親に苦悩を気づいてもらえない千葉や速水のように。

あるいは親子とは思えないギスギスした関係の浅野のように。

あるいは学校でいじめられているのに突き放されるさくらのように。

作中には、親との関係で苦しむ生徒が多く登場します。

また、実の親子関係にはなくとも、子を苦しめる「親」として登場するキャラクターがいます。

命令は絶対だとして、子の自律的な成長を封じ込める律の開発者おやたち。

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(3巻 p122)

「家族」の中の独裁的な「父親」として、教え子たちの上に暴力的に君臨する鷹岡。

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(5巻 p101)

用済みになったイトナを容赦なく切り捨てる保護者のシロ。

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(10巻 p116)

「親」である彼らは、「子」らに自身の価値観を一方的に押し付け、そこから外れる「子」らを時に怒鳴りつけ、時に殴りつけ、時に見放すのです。

親子関係に限らず、支配的な権力を及ぼされる関係性というものは古来いくつも存在しており、苦しむ人も数多いました。では、それに抗うこともできず苦しむ人たちはどうしたのか。

答えは逃亡。支配的な権力の届かない、彼らが逃げ込む先はアジールと呼ばれ、この作品では落ちこぼれたちのクラスである3−Eが、主要なそれとして機能しているのです。

神社仏閣や教会のような宗教性・神性を帯びた場、または市場などのように複数の権力が存在する場がアジールの例として挙げられますが、それらはつまり、支配的な権力に対抗しうる別種の価値が存在しうる場だと言えます。本作において、親子関係に苦しむ生徒たちが親から及ぼされている権力(=価値観)はそれぞれ異なりますが、彼らは殺せんせーや烏丸、ビッチ先生、そして他の生徒たちがいる学びの場で、親が教えるもの以外の価値観も存在しているということを学んでいるのです。

たとえば渚の母親は、女の子らしさを磨き、いい大学に行き、いい会社に入ることが最高のものだという価値観を渚に押しつけ、彼をがんじがらめにしていたのですが、殺せんせーは三者面談でそれにはっきりとNOを突きつけ、渚が母親の支配から抜け出る背中を押しました。

そもそもこの作品の舞台である椚ヶ丘学園は、勉強ができさえすれば圧倒的な優遇を受けるものの、逆にできなければ、E組という最下層に落とされ非教育的な差別も是とされる、「強者こそが正義」という、創始者・浅野學峯の非常に強固な価値観から生み出された学校です。月をも消し飛ばす怪物を前にして、その怪物によって地球が滅ぼされなかった場合を冷徹に考えられる浅野理事長の強固さは、並大抵のものではありません。

そして、その価値観に抗っているのが、月をも消し飛ばす怪物こと殺せんせーが担任を務める3−Eで、そこで貴ばれる価値観が「殺せんせーを殺すこと」。学園の価値観からすれば(一般社会からしてもそうですが)どうしようもないほどに異端であるそれは、だからこそ、他の価値観に傷ついた生徒を癒すのです。

考えてみりゃ当然だよな 落書き程度でマイナス評価になるわけがない なんせ殺しに行ってもいいんだから

ちょっとくらい異端な奴でもじゃ普通だ

いいもんだな 殺すって

(5巻 p64,65)

成績の悪さに加えて、テストの裏に余計な落書きをしたために、E組に落とされた菅谷の言葉です。勉強という価値観に絵という横槍を入れたために、彼はペナルティを与えられましたが、E組ではその横槍が嬉々として受け容れられているのです。

このように、本作において、支配的な権力・価値観に対抗するものとして存在しているのが、3−Eであり殺せんせーなのです。学問の自由のために大学の自治が強く認められるように、本来学びの場とはアジールそのものであるはずでした。それがうまく機能しているとはいいがたい現在の日本で、学校があるべき姿を異端な形で表しているのが『暗殺教室』という作品なのかもしれません。

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2015-03-10

『暗殺教室』「殺す」ことの意味の話

死神編と渚家族編に区切りがついた、『暗殺教室』14巻。

暗殺教室 13 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 13 (ジャンプコミックス)

その中で、『暗殺教室』全編を通じて、私が今までちょいちょい引っかかっていたある事柄についても、一つの区切りになるような話が出てきました。

その事柄とは二つ。「殺すこと」と「親」です。

今回と次回、二回の記事で、その二点について思うところ書いていこうと思います。まずは「殺すこと」についてから。


「殺すこと」について初めて引っかかったのが、夏休み暗殺旅行編。直截的にはビッチ先生の告白ならぬ殺白です。彼女が初めて人を殺した時の生々しい記憶を語ってからの、

ねえ カラス

「殺す」ってどういう事か

本当にわかってる?

(9巻 p104)

の発言。

それを踏まえた上で、少し遡って、殺せんせー暗殺作戦決行直前の、吉田と村松の会話を見たときのビッチ先生の反応です。

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主要登場人物の中で、もっとも多く殺人をした人間は、間違いなくビッチ先生でしょう。その彼女が見せたこの反応。そして先の発言。

ビッチ先生は、「「殺す」ってどういう事か 本当にわかってる?」と疑問を投げかけておきながら、それがどういうことなのか明言しません。問いに対する宙ぶらりんの答えは、私の心の片隅でずっと引っかかっていました。

で、12巻から引き続きの死神編で、なんとなくその答えが見えた気がします。

その答え、ビッチ先生の思う「殺す」ということの意味、それは、殺すことは殺されることでもあること、なのかなと思いました。

別の言い方をすれば、殺す覚悟/殺される覚悟、ですか。半生を人殺しに費やしてきた彼女は、そう思っている節があります。

そもそもビッチ先生が初めて人を殺したのが12歳の時。

うちの国は民族紛争が激化しててね 

ある日 私の家にも敵の民兵が略奪に来た

親は問答無用で殺されて… 敵は私の隠れたドアを開けた

殺さなければ殺される 父親の拳銃を至近距離から迷わず撃ったわ

(8巻 p103)

殺されなければ殺される。これが、彼女が初めて自分の手を血に染めたときに刻まれた思いでした。

さて、翻って、突如担任の先生を殺すことを強いられた3-Eの面々はどうでしょうか。

彼らはもともと普通の中学生。「殺す」などという言葉に、冗談以上の重みをもたせたことはありません。それゆえ、人外とはいえ対等なコミュニケーションを取れる相手を「殺せ」と言われ、その報酬として破格の金額を提示されると、

「この調子なら殺すチャンス必ず来るぜ!!」

「やーん 殺せたら百億円何に使おー♪」

(1巻 p96)

という、「中学生が嬉々として暗殺の事を語っている どう見ても異常な空間」をあっさりと生み出していました。

彼らにとって「殺すこと」は、文字通り相手を殺すことでしかありません。暗殺対象の殺せんせーは「生徒に絶対に危害を加えない事が条件」とされているため、暗殺を仕掛ける生徒たちは、少なくとも当の暗殺対象からは、殺し返されることがないのです。

あくまで彼らは狩る側。決して狩られる側に立つことなく、一方的に殺そうとできるのです。

だから吉田と村松は、あんなことが言えた。

「ま 今日殺せりゃ明日は何も考えずに楽しめるじゃん」

「まーな 今回くらい気合い入れて殺るとすっか!」

彼らにとって暗殺とは、殺すか殺されるかではなく、殺せるか殺せないか、なのです。

だからイリーナは、その言葉に違和感を覚えざるを得なかった。「殺す」とは、そんなにリスクのないものじゃない。殺すことは、殺されることの裏側にあるもの。誰かを殺すために振り下ろす刃は、そんなに軽いものじゃ、ない。

生徒たちの、殺すことに対する意識の軽さ、言い換えれば、殺すことへの覚悟の無さは、他のシーンでも垣間見えます。

夏休み暗殺計画が発動し、クラス全員で殺せんせーを攪乱する中で、本命の千葉と速水が引鉄を引きました。ですが、弾丸はすんでのところで惜しくも届かず。長い仕込みの時間をかけた計画は失敗に終わってしまいました。

その時を振り返って千葉はこう述懐しました。

自信はあったんだ リハーサルはもちろん あそこより不安定な場所で練習しても外さなかった

だけど  指先が硬直して視界も狭まった

絶対に外せないという重圧プレッシャー 「ここしかない!!」って大事な瞬間

(7巻 p160,161)

殺せんせーの埒外な身体能力を知っている生徒らにとって、日々仕掛ける暗殺は、本気で殺せるという自信があるものではおそらくなかったはずです。倉橋が暗殺へ行ったついでに数学を教わったように、寺坂が「100回失敗したっていい」と言ったように、そこに必殺の覚悟はなかった。

だから、本気で殺すために、本気でお膳立てを整えて、本気で引鉄を引き絞ったあの瞬間、二人には今まで感じたことのなかった重圧に襲われたのです。

たしかに、そもそも「暗殺」とは、殺す側と殺される側が非対称なもの。対等な勝負である「戦闘」とは別物であると、暗殺稼業を長く続けてきたロヴロがそう明言しています。その意味で、常に「殺す」側に意識がある生徒たちの態度は間違っていないのかもしれません。ですが、世界最高峰の殺し屋である「死神」が殺し屋になって一番最初に磨いた技術は、正面戦闘の技術でした。それは「殺し屋には99%必要のない技術スキルだが がないと残り1%の標的を殺り漏らす」技術です。「暗殺」から「戦闘」になっても、すなわち、一方的に殺す側から、殺し殺される側になったとしても相手を確実に殺すための技術なのです。

それはつまり、自分が殺される立場になる可能性を最初に意識したということ。殺す以上は殺されうることを知っていたということ。

根本的に「殺す」ことにはそのような裏側があるはずなのです。

それを理解していなかった生徒たちと、理解していたがために告白すべき時に殺白をしてしまったイリーナ。9巻のあのシーンが意味しているのは、そういうことだったのでしょう。


死神編が描かれたことで、7巻から引きずってきたもやもやの一つがちょっとすっきりしました。次回は、冒頭でも書きました、「親」というものについて考えたいと思います。

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2015-03-07

かわいい亜人ちゃんたちの、普通に楽しく普通にちょっと辛い日々 『亜人ちゃんは語りたい』の話

。それは特別な性質を持った少数の人間たちの総称。ヴァンパイアデュラハンサキュバス、雪女など、かつては神話伝承などのモチーフにもなっていた存在は、迫害や差別の歴史をたどりながらも、近年は社会的な保障も整備され、一般社会に溶け込んでいる。

高校生物教師・高橋鉄男は、昔から亜人に興味があったものの、彼らの絶対数の少なさから出会うことが出来ず、物足りなさを感じていた。しかし柴崎高等学校に赴任して4年目の今年、新任教師や新入生で身の周りに4人も亜人がやってきて、にわかに周囲が亜人づいてきた。高橋鉄男は知りたい。亜人たちは何を感じ、何を思い、どう生きているのか……

ということで、ペトス先生の『ちゃんは語りたい』のレビューです。亜人と呼ばれる存在のいる世界で、彼ら彼女らに並々ならぬ興味を持つ高校教師・高橋鉄男を主人公に、彼ら彼女らの楽しくもあり辛くもありの生活を見つめる、そんな作品です。

生物教師・高橋鉄男は、大学の卒論テーマに亜人を選ぼうとしたくらいに、亜人に興味のある男。「この世に亜人として生を受けた者たちがどう生き 他人とどう接し 何を思うか そういうことに興味があった」のですが、あいにく亜人の絶対数は少なく、今まで一度も彼らに会うことなく生きてきました。

それがどうしたことか、今年に入って新入生に3人、同僚教師に1人、身近なところに亜人との出会いが生まれました。1巻で登場する亜人は、先述の通り4人。ヴァンパイアデュラハン。雪女。そしてサキュバス。なぜか皆、女性です。そしてなぜか皆、かわいいです。

彼女らに興味の尽きない鉄男は、授業の合間などに積極的にかかわろうとしますが、それはおおむね知的好奇心の類。知りたいことを知りたいから色々聞くし、相手に不快感を与えたくはないから質問の線引きに配慮する。亜人の彼女らと、普通の人間と、違う人間だけど同じ人間として接する。

そんな彼に、亜人の子らはついときめいてしまい、懐いてしまいます。羨ましいなおい。

いくら世間的な認知が進んでいるとはいえ、見てくれや体質が他人と明らかに違うということは疎外感を生み出しますし、生活を営む上で現実に障害となりえます。具体的には、サキュバスである女性教師は、寝ていると他者に勝手に淫夢を見せてしまうという体質のために、人気のない一軒家で暮らさなければいけなかったりします。また、「亜人の体質は遺伝より突然変異によって生じる事が多い」ため、双子であっても片方は一般人、片方亜人ということもありえます。つまり、家族の中で、自分だけが特殊だというケースもままあるのです。

無論のこと、悩みは誰しも抱えるものですが、なまじ「亜人」というわかりやすい特徴があるためにそれを悩みの原因と考えやすくなりますし、生来の体質が原因であるなら解決も非常に困難になります。そんな、大なり小なり亜人としての悩みを抱える彼女らに、真摯に、でも馴れ馴れしくはなく接する鉄男は、そりゃあ魅力的に見えるって寸法ですよ。天然のタラシ。普段人と距離を置くことが多い亜人らが、さらっと自分の容姿をほめられたり気遣われたりすると、コロッと、ね。まあその時の表情がまたかわいいのですが。

今のところは、基本的に軽く、でも時折ちょっと重く、といった感じの展開です。コメディ基調の中で、ふっと亜人としての悩みなどが挟まれており、その塩梅がよろしい具合。今後、新たな亜人も登場し、舞台も学校の外へと広がるようで、どういう風にキャラが掘り下げられていくのか楽しみです。

第一話が試し読みできるので、どうぞー。

ヤングマガジン公式サイト 亜人ちゃんは語りたい

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