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2016-02-07

『ヴィンランドサガ』と『恩讐の彼方に』復讐心を駆動するものの話

前回の記事の最後で、「クヌートと愛に関する話はまた次回」と書きましたが、いただいたはてブのコメントで興味深い話を見かけたので、そちらについての話を先に。

そのコメントとはこちらです。

憎い仇は、今は改心して人のために働いている。しかし…という点で、菊池寛「恩讐の彼方に」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html と読み比べるのも興味深い。 - gryphon のコメント / はてなブックマーク

青空文庫『恩讐の彼方に/菊池寛』は未読の作品でしたので、青空文庫であることと短編であることをこれ幸いに、ざっと読んでみました。これが確かに、トルフィンとヒルドの関係性に似ているのですね。

まずは物語をざっとまとめてみましょう。面倒くさければ次の段落までジャンプ推奨。三行でまとめました。

主人公である若武者の市九郎は、江戸浅草田原町旗本・中川三郎兵衛の食客として暮らしていましたが、主の妾であるお弓と情を通じてしまい、それが三郎兵衛にばれ、本来であれば手討ちに合うところ、反撃し、主殺しの罪を犯してしまいました。そのままお弓とお金を奪い逐電、元来善良な人間であったはずの市九郎も、すれっからしのお弓と行動を共にするうち、悪事で路銀を稼ぐことに慣れ、数年後には信濃と木曾の境にある鳥居峠で、昼は茶屋、夜は追剥をたずきに生きるようになりました。しかしある時、まだ若い夫婦を襲ったことをきっかけに、己とお弓の醜悪さをまざまざと思い知らされ、再び、けれど今度はひとりで夜の闇に消えていきました。懺悔の念に囚われた市九郎は出家し了海を名乗り、厳しい修業を積みながら回向をしましたが、それだけでは自分のなしたことの償いにはならぬと、人助けの旅に出ます。九州豊前は樋田まで来ると、そこに年間で何人もの人が移動中に落下して命を落とすという、断崖絶壁の難所に出くわし、これこそ天命この切り立った岩山を貫いて道を造らば必ずや人の助けとならんと、市九郎こと了海は鑿をふるいだしたのです。その一撃は岩山の巨大さに比べてあまりにも小さく、穿たれる穴も微々たるもので、初めの内は近隣の人々も風狂の僧と嘲笑していましたが、歳月を経て、少しずつ穴は深まり、ひたすら鑿をふるい続ける了海に人々も協力するようになり、いつしか道を通すことも夢ではなくなってきました。しかし、そこに現れたのが、かつて市九郎が殺した三郎兵衛の息子・実之助。父の敵を討つべく漂泊の旅を続けてきた彼は当年27歳、ついに巡り合った敵にいざ復讐の刃を振り下ろそうとするも、粛々とその刃を受けようとする市九郎、そして彼を生き仏として崇め、凶行を止めようとする周囲の人間を前に、ついに果たすことができませんでした。せめて道を通し終わってから、という周囲の人間の言葉を受け、いったん刀を収めた実之助は、ただ座して待つのも無益と、市九郎らとともに鑿をふるうようになります。そして彼が加わってから一年と六カ月、ついに穴は貫通し、市九郎と実之助、敵と復讐者は手を取り合って感激にむせび泣いたのです……

以上の流れをさらに三行でまとめなおすと、

男が主人を殺し逃げ、逃げた先でも悪事を働いたが、後悔したので出家し、罪滅ぼしに人助けの旅に出た。

とある難所の岩山に穴を掘って道を作ろうと決意し、何年もかけて鑿をふるっていたら、殺した男の息子が敵討ちにやってきた。

息子は、せめて道づくりが終わってから殺そうと思い、男と一緒になって鑿をふるっていたが、ついに道ができたときに二人して号泣。

となります。

『ヴィンランドサガ』も『恩讐の彼方に』も、自分の家族を殺した憎い敵についに巡り合うも、その男が人に慕われ、人のためになることをしようとしていた、という点で共通しています。前者は絶賛連載中なので、最後にヒルドがトルフィンへどのような判断を下すかまだわかりませんが、後者は「人のためになること」へ共に取り組んでいた二人が、それが達成された際には、手を取り合って喜んでいます。物語はそこで終わるため、果たしてその後に、実之助が市九郎を殺したのかどうか明らかにはされていません。そのまま殺さなかったと解釈するのが素直ですが、それでもなお、市九郎が実之助の前に命を差し出し、それを実之助が討った、という解釈も有り得そうです。まあそれはともかく。

上記の点は両作品で概ね類似しつつも、いくつか差異があります。その一つが、復讐者が敵を前にしたときの態度です。

ヒルドはトルフィンに対して終始明確な殺意を向けていますが、実之助はいざ市九郎の前に立つと、その気力を一度萎えさせているのです。

実之助の、極度にまで、張り詰めてきた心は、この老僧を一目見た刹那たじたじとなってしまっていた。彼は、心の底から憎悪を感じ得るような悪僧を欲していた。しかるに彼の前には、人間とも死骸ともつかぬ、半死の老僧が蹲っているのである。

(中略)

実之助は、この半死の老僧に接していると、親の敵に対して懐いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々として命を捨てようとしているのである。かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。

実之助は敵を討ちたかった。でもその敵は、心の底からの憎悪をぶつけるに値する相手であってほしかった。自らの悪行を悔やんでなどいてほしくなかった。世のため人のために働いていてほしくなかった。老醜を晒してほしくなかった。命を進んで差し出すような真似をしてほしくなかった。

復讐とは、激情のままになされるべきもの。

実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。が、激しい燃ゆるがごとき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。

ということなのです。打算をしている時点で、すでにそこには打算をするだけの理性があります。それによって敵を殺したとしても、それはただの利益のための殺人行為であり、恨みを晴らすための復讐とはなりません。恨みという激情を昇華させるには、その激情のままに復讐を果たす必要があるのです。

このように、一度は萎えてしまった実之助の激情ですが、再び燃え上がります。

その時であった。洞窟の中から走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身して彼を庇かばいながら「了海様をなんとするのじゃ」と、実之助を咎めた。彼らの面には、仕儀によっては許すまじき色がありありと見えた。

「子細あって、その老僧を敵と狙い、端なくも今日めぐりおうて、本懐を達するものじゃ。妨げいたすと、余人なりとも容赦はいたさぬぞ」と、実之助は凜然といった。

 が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が幾人となく立ち止って、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の身体に指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまき始めた。

「敵を討つ討たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるる通り、了海どのは、染衣薙髪せんいちはつの身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の再来とも仰がれる方じゃ」と、そのうちのある者は、実之助の敵討ちを、叶わぬ非望であるかのようにいい張った。

 が、こう周囲の者から妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にか蘇えっていた。彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るべきではなかった。

この時、なぜ彼の情に再び火がついてのでしょう。

単純に考えれば、邪魔されたがゆえに、その反抗として燃えたのでしょう。ですが、それ以外の理由もあると思います。

それは、市九郎が周りの人間に慕われていたことです。

実之助の家は、三郎兵衛が殺されたことで取り潰しにあい、実之助は縁者の家で育てられました。13の時に父が殺された家は取り潰しにあったことを知らされ、爾来「無念の憤りに燃え」「即座に復讐の一義を、肝深く銘じ」たのです。多感な時期を剣の修行に費やし、19歳からの8年間を漂泊の旅とした実之助。その半生は、決して温かいものではなかったはずです。にもかかわらず、彼の敵である市九郎は、人々に慕われて生きていた。誰とも知らぬ刀を持った男の前に人々がその身を投げ出せるほどに。

だから彼が激情に再び駆られた。父の敵への憎しみと同等かそれ以上に、自分と相手の落差に怒りを燃やして。

自分はこんな孤独な人生を送っているのに、なぜおまえは人々に囲まれて生きているのだ。慕われているのだ。幸せそうにしているのだ。俺の父を殺しておきながら。

そんな怒りです。その怒りゆえに、復讐の念は再度燃え上がったのではないでしょうか。

翻ってヒルドとトルフィンの対峙を見てみましょう。彼女が出会ったトルフィンは、傷跡こそあるものの壮健に育っていました。自身の罪を認めはしたものの、自らヒルドの矢を受けようとはしませんでした。一緒に旅をする仲間がいました。その仲間は、我が身を晒してトルフィンをかばいました。

復讐を胸に生きてきたヒルドにとってトルフィンは、憎悪を燃やすに足る相手だと言えるでしょう。

それでも彼女が復讐を仮にとはいえ止めたのは、呑まれた激情の奔流から浮かび上がり冷静さを回復させ、その時にエイナルやトルフィンの言葉を聞いて、己の中で引っかかっていたた父や狩りの師匠の言葉を思いだしたからです。

エイナルの言葉の前に彼女が激情を忘れ冷静さを取り戻したのは、皮肉にも、彼女自身が始めた一対一の勝負ゆえです。トルフィンを敵だと認識する前から、クマとの戦いを見ていたヒルドは、トルフィンの運動能力の高さを理解していました。狩る側と狩られる側という圧倒的に不均衡な立場とは言え、トルフィンを狩るには相応の集中力が必要であり、その集中力を出すには激情に駆られたままではいけません。「お前の心には怒りがある 怒りは目耳をくもらせる 山どころか何も見えんようになる」と言ったのは、彼女の師匠でした。狩りをするのに怒っていてはいけません。トルフィンを確実に狩るために、彼女は嫌でも冷静にならなくてはいけなかったのです。

それがいいことだったのかそうでなかったのか、冷静になったがゆえに、彼女はエイナルやトルフィンの言葉を聞く余裕ができてしまいました。激情の流れから浮かび上がった彼女の無意識は、トルフィンを赦す理性を得たのです。

復讐に燃える者が、その滾らせた憎悪や怒りを治めるには理性が必要で、その理性のためには冷静さが必要となります。冷静さを生むものが、敵の姿や振る舞いなのか、敵と対峙したときの状況なのか、はたまた別の何かなのか、それはケースバイケースというしかないでしょう。ただ、「赦し」のためには、それが確かに必要なのです。それがなければ、激情のままに復讐を遂げる。復讐の果てには何もない、とは使い古されたフレーズですが、それは激情に駆られた人間には届きませんし、果たしてそれは本当なのか、復讐を果たさなかったことで常に幸福が生まれるものなのか、それすらも実のところわかりません。復讐を果たしたことでそこからまた復讐の連鎖が生まれてしまうことと、復讐を果たした当人の気持ちはまったくの別物です。

上でも書きましたが、道を作り終った後の市九郎と実之助のその後は明らかにされていません。復讐は果たされたのか否か。そして、ヒルドの復讐は果たされるのか否か。

人の心に正解はないように、物語にも正解はありません。ただ、答えがあるのみです。私たち読み手は、描かれる答えを座して待つことにいたしましょう。

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2016-02-01

『ヴィンランドサガ』ヒルドの赦しと「孤独な寛容」の話

トルフィンが自らの犯した罪と向き合わなければいけなかった『ヴィンランドサガ』17巻。

かつてバイキングに家族を皆殺しにされた娘・ヒルドが、両足を撃ち抜かれ身動きの取れなくなったトルフィンの前に立ち、彼に殺された父の復讐を果たすべく、弩の引鉄に指をかけました。しかし、トルフィンの旅の同行者であるエイナルやグズリーズの必死の説得とトルフィン自身の嘆願を振り切るようにして撃った矢は、虚空を射抜いていました。撃った瞬間にあらぬ方向を向いた弩は、ヒルドの心の中に生きる父と狩りの師匠が狙いを逸らした。彼女にはそう感じられました。

ヒルドは彼らに問いかけるようにして、自問します。

「赦せ」とおっしゃるんですか……?

こいつを この最も赦し難い男を……

(17巻 p184)

彼女の見た父と師匠は、彼女が作り出した幻影です。彼らが示したものが彼女の自覚する意図と異っていようとも、その示したものとは彼女の無意識が求めているものに他ならないのです。幻視によって突き付けられた自問の後に、今度はトルフィンに問いかけました。

「………… …………

どうやって償うつもりだ」

「……!

国を……作ります 平和な国を

私が壊した平和よりも平和な国を作り そこで私が殺した人々より多くの人の命を育みます ヴィンランドという…… 未開の新天地に」

「………………バカバカしい 私の家族が生き返るわけじゃない そんなことが私達への償いになるのか?

…………………………………………やってみせろ

この怒りを憎しみを お前の平和の国とやらで打ち消せるというのなら やってみせろ

私は勝った お前の命は私のものだ だがしばらくお前に貸しておいてやる

今日からお前を監視する お前が口先だけの男だと私が判断した時 その頭に矢をブチ込む!! わかったか!!」

(17巻 p185〜189)

トルフィンを生かしておきたくはない。家族の敵を。父を目の前で殺した男を。でも、殺してしまうことに心の奥底で歯止めがかかる。それはいけないと何かが叫ぶ。そのぎりぎりの折衷として彼女は、トルフィンをとりあえず生かし、彼の目指すものが自分らへの償いになるのであれば赦すこととしました。

この、怒りの炎に燃やし尽くされそうになりながらも、トルフィンを仮にとは言え赦したヒルドの姿。ここに何かもやもやとしたものを感じていたのですが、昨日たまたまEテレで見た100分de平和論の再放送の中で発された、「寛容論は孤独な言葉」というセリフを耳にして、色々なことがパズルのピースのようにはまっていきました。

「寛容論は孤独な言葉」とは、ある加害行為に対して被害者やその身内・所属集団が報復を考えることは、社会的には自然なことであるので、被害の当事者である個人が理性でもって報復を止めるというのは、集団や社会の志向と外れることであり、それゆえに報復を止める寛容性とは孤独にならざるを得ないのだ、ということです。

罪に対する罰は、あらゆる先進国刑法という名前で形式化されています。抑止力として、あるいは応報として、罪に対する罰は社会を適切に維持するのに必要であると、少なくともないよりある方が社会運営が良好に行えると判断されて、報復行為は正当化されているのです。無論その報復は、私人によるものではなく、国家による公的な暴力行為なのですが、行為の主体は違えど、罪に対する罰である以上、それは報復に違いありません。社会は報復を必要なものとして自らの内に取り込んでいます。ゆえに、個人が報復を止めることは、罪に対して寛容を発揮することは、社会の志向に背くことであり、孤独にならざるを得ないものなのだというのです。

番組中では、この言葉に続いて去年起きたパリ連続テロ事件にも触れていました。事件の後、妻を喪った男性がメッセージを発表しました。その中で彼は「決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。」と言い、復讐の連鎖を止めることを堂々と宣言するその声明が世界中で絶賛されたのはご存知の通りです。

しかし私は、当時からこの流れに違和感を覚えていました。男性のメッセージにではありません。メッセージを絶賛し、素晴らしいその通りだと騒ぎ立てる周囲の人たちにです。その違和感の正体が、今までずっとわからないままだったのですが、昨日わかりました。「寛容論は孤独な言葉」であるはずだからなのです。

男性が発したメッセージ、私は憎まない、復讐をしないというメッセージは、彼が妻を不条理に喪った怒りと悲しみに臓腑を捩じ切られそうになりながら、それでも歯を食いしばるようにして絞り出した言葉であるはずです。被害者が、集団が、社会が、凶行に対して報復をしようという激情のうねりが巻き起こる中、自らの内でも同様に燃え上がるそれを必死に理性でねじ伏せた末に、発された言葉なのです。

それを、直截的な被害に遭っていない周囲の人間が、素晴らしいその通りだとさも共感したかのように持て囃すのは、何かおかしいと思うのです。無関係な人間がほめそやしたその騒ぎは、ひどく無責任に感じられました。あなたのその寛容はどこから生まれたのか。瞬間的に感情が燃え上がった後に残った、吹けば飛ぶような灰ではないのか。その寛容に芯は通っているのか。あなたの親が、家族が、妻が、夫が、子供が、友人が殺されてもなお保つことのできる寛容なのか。男性の言葉の重さと、周囲の狂騒の軽さ。その対比はいっそグロテスクでさえありました。

身も心も燃やし尽くされそうな激情を抱えてなお理性で寛容を選びとることは、とてつもなく難しく、とてつもなく崇高なことであるだろうと思います。でもそれは、崇高で、そして孤高なのです。余人が迂闊に共感などできないし、ひょっとしたら共感しようとすること自体畏れ多いことなのかもしれません。

さて話は『ヴィンランドサガ』に戻って。

ヒルドは激情に駆られていました。殺意に駆られていました。それでも彼女は、トルフィンを(仮に)赦すことにしました。このときの彼女の寛容、それは孤独なものです。エイナルにも、グズリーズにも、もちろんトルフィンにも、矛を収めた彼女の内心をうかがい知ることは出来ません。彼女もまた、勝手に忖度されることを許さないでしょう。彼女の寛容は彼女だけのものです。誰かに認められるために、誰かと共有するために赦すわけではありません。その明確な理由はわからなくとも、赦さないわけにはいかないから、赦さざるを得なかったのです。

激情の果ての寛容。共感を求めない孤高の寛容。トルフィンを赦したヒルドは、まさに「寛容論は孤独」を体現していたのです。

さて、そんな彼女の姿とダブったのが、人間には愛がないことを悟ったときのクヌートでした。彼もまた、愛を失った人間に激しい怒りを覚えていたのです。

智を得て かわりに失ったもの

最も大切なもの そしてしれは

生ある限り私達の手には入らぬもの

手には入らぬ それでも

それでも追い求めよというのか! 天の父よ!

(6巻 82〜84)

毒キノコを食べて狂乱状態に陥ったビョルンでさえも怯ませた、クヌート王子の怒り。その怒りを受け容れて、地上に楽園を作ろうとした彼もまた「孤独な寛容」の道を進むものだと思うのです。

で、そんなクヌートと愛に関する話はまた次回ということで。

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2016-01-27

『GIANT KILLING』停滞を生む「慣れ」とそれを打破するものの話

A代表に呼ばれるも、活躍の機会を得られないことに、自分で思ってもいなかったほどに悔しさを覚える椿。そんな彼をベンチに据えて、日本対ウルグアイとの親善試合が始まった38巻。

その去就がいま最も注目される若手の星・アルバロが10番を背負い、ハイプレーヤーらによる怒涛の攻撃と、南米チームの猛攻からゴールを守る堅い守備を誇るウルグアイに苦戦する日本は、序盤から先制点を許します。なんとか巻き返そうと発破をかけあう守備陣ですが、海外組の一人で、イタリアにて堂々とレギュラーを張っている城島が言い放ちます。

笑わせるなよ

軽いんだよ プレーも! 口走ってることも!

(中略)

いいか

俺らがいくら前より良くなった気になってたって 相手のスタープレイヤーがゴールを決めたらホームのスタンドが沸いちまう…

これが今の俺たちの現実だ

ちょっとやそっとの変わったくらいの意識じゃ意味がねえんだ ブランが言ってたように崖っぷちに追い込まれてる……

そう思って後がないくらいの気持ちでやらねえと

俺たちは結局「情けない日本代表」のまんまだぜ?

(38巻 p143,145)

チームを、そして自分自身を追い込むべく発せられたこの言葉、何かを思いださせます。

俺は今 このチームはかなりやばい状況にあると思ってる

俺と同じ考えの奴もいるだろうし そんなことないという意見もあると思う

問題は

その意識のズレだと俺は思ってる

今シーズンの俺達は例年になく勝つことができている 強豪とも互角に渡り合ったりして 実際に随分と成長したとも思う

でも根っこの部分ではどうなんだろうか

勝って乗れてる時は自信に満ちたプレーができても 結果がついてこなくなると昔へ逆戻りだ

俺は…

このチームが本当の意味で成長できているとは思えない 勝って得てきた自信を自分達のものにできてない

これだけ勝ってもまだ ETUは1部に残留してきたことしか自信にできないチームなのか?

(30巻 p205〜207)

達海の引退試合となったミニゲームの直後、痛々しいほどの達海の姿を目にして神妙になったチームメイトへ向けて、杉江が言ったセリフです。

2部への降格ラインでの瀬戸際の戦いを長年にわたって続けてきたETUが、今年に入って連勝して、連敗して。自分たちが強いのか弱いのか、よくわからなくなってしまったチームの戸惑いを、この言葉は辛辣に抉り出しました。

前回のワールドカップで惨敗した日本代表と、残留争いに疲弊しきっていたETU。ブランが監督に就任してから国際試合で好成績をおさめてきた日本代表。達海が監督に就任してから優勝争いに絡めるのではないかというところまで順位をあげたETU。両者の状況はよく似ています。そして、強豪を相手にして苦境に立つと自分達の力を信じきれず、心が竦んでしまうところも。

いくら結果を出し始めているとはいえ… このチームは自信を取り戻しつつあるに過ぎないんだ

要するにマイナスからゼロに戻った状態 ここから本当の意味でチームを強くしていくためには 更に自分達を厳しく追い込まないと

(38巻 p172)

要するにさ 仕切り直すレベルが何処かって話でしょ

連勝したり引き分けたりで ずっとここら辺にあったプライドが

上手くいかなくなった途端ここまで下がる まるで振出しに戻ったみたいに

杉江さんの言ってんのは その立ち返る位置をここら辺まで上げようぜってことでしょ

ETUは元々弱いだの… 勝てたら金星なんて考え方自体甘ったれてる

本当に強いチームは もっと厳しく自分達を追い込んでんじゃねーの?

(30巻p207,208)

ブランの言葉と赤崎の言葉も、見事に符合します。どちらもまだゼロからマイナスに戻ったところであり、「ここから本当の意味でチームを強くしていくためには 更に自分達を厳しく追い込まな」くてなはならないのです。

では、そのためになにが必要があるのか。

それは、変化を恐れないことです。慣れに居着かないことです。

限られた時間の中でチームに戦術を浸透させられる… そのために一番効率がいいのは召集するメンバーを固定することです

しかしこれには落とし穴もある… それが先程言った「慣れ」です

代表に選ばれる自信があるのは大いに結構ですが それが過信になってしまうのは困る

(36巻 p150)

変化が少ないことによる安定。それは組織を運営する上で大事なことではあります。人間の身体や精神がそうであるように、組織内部の急激すぎる変化は母体に大きな負担を強い、時として致命的な損傷を与えることもあるのですから。身体を気圧に慣らさないまま高地へ赴けば高山病に罹りますし、新しい職場や学校で人間関係をうまく構築できず心を病んでしまうこともあります。変化・刺激は、母体が耐えられる程度のものでなくてはまずいのです(もちろん、どの程度まで耐えられるかには個人差がありますが)。

けれど、安定しているだけでは、変化がないのでは、「慣れ」が蔓延してしまうようでは、それもまた組織の成長には有害です。ブランの言うように「落とし穴」なのです。

「慣れ」を嫌うブランのこの姿勢は、既にU-22の試合を観戦する際にも見られます。

ミスターゴウダ 五輪世代の指導は君の管轄だ 僕は口を出すようなことはしないよ

…と言ったそばからひとつだけ言ってもいい?

君たちはA代表とは違う 若者達で作られし日本代表

若者は失敗する生き物… そして未知なる可能性を秘めている

ミスターゴウダ… どうか失敗することを恐れずに…

彼らの可能性を引き出す… 魅力的なチームを作って欲しい…!

(28巻 p84,85)

そして、その言葉を思い出して剛田監督が言った言葉が

早いんだよな 20歳そこそこのこいつらが自分達のサッカーなどと型にはまった考え方をするのが

プレッシャーにたじろいでいたのは我々の方かもしれん こんな保守的なやり方では…

オリンピックはおろか… ブランの所へ選手を送り込むこともできんよな

(28巻 p79,80)

「型にはまった」とはすなわち、そのやり方に「慣れ」てしまっているということ。それでは組織の成長に、選手の可能性に、魅力的なチームにプラスとなりません。その結果投入されたのがボランチの椿で、型を打ち破るべくとられた采配の結果は28巻の通りです。

そして、ブランに「友達」と言わしめる達海が指揮するETUの中にも、「慣れ」は忌避するものであるという考えの萌芽は見られていました。

今までこのクラブは勝てなかった分…… ただ勝つことだけに集中すれば良かった

達海さんのやり方に刺激を受け

勝ち続けることで世間の見る目も変わってきたし

椿や赤崎のように評価される選手も出てきた

だがその一方では

この体制にも慣れが生じてきてる頃だろうし なかなか出場機会に恵まれない奴らは面白くないことだってあるだろう

それぞれの考え方の違いが表立ってきても仕方ないのかもな

こうも勝てない状況が続くとよ

(30巻 p40,41)

日本代表にもなった経験のあるベテラン緑川は、チーム内に漂いつつある慣れをいち早く察知し、そこに停滞の兆しを感じ取っていました。

思えば達海がとってきた数々の奇抜な練習、サッカーテニスでレギュラーを決めたり、目隠しサッカーをしたり、合宿の選手部屋のペアをランダムにしたりというのは、それ以外の狙いもあるでしょうけど、慣れを打ち破るという目的もあったのでしょう。それは直接言葉にせずともチーム内に浸透しつつありました。

さて、その組織の成長に邪魔となる「慣れ」。それを打破するためにはどうすればいいのか。

とはいえチームを壊すような真似はできません フィリップに離婚を勧めないのと同じようにね

そうなると大事になってくるのは 危機感を常に持つことです

チームにとってそれは競争 今回初招集したメンバーはその役割を担える選手達です

(36巻 p151)

組織を「慣れ」に居着かせず、適度な刺激=危機感を常に与える。そのために競争を組織内部に起こす。それが、組織に成長をもたらすとブランは考えているのです。

そして彼の「友達」である達海にも、チーム内での競争を明確に奨励しているシーンもあります。

いいか よく聞けよ

ライバルや周りの選手が上手くなることを恐れるな むしろ歓迎しろ

お前達には 人一倍負けず嫌いの精神があることを俺は知ってる

そしてキャンプを経て自信もついたはずだ 各々このチームで戦っていくための武器はわかってきてるだろ?

周りのレベルが上がってきたとしたって 伸び盛りのお前達なら大丈夫だよ

お前達ならおのずと… 自分の武器を磨こうと必死になれる

…… わかるだろ?

仲間が上達して自分の立場が脅かされることと 自分の実力が向上することは直結してんだ

すなわちこれはチャンスなんだよ

(18巻 p54〜56)

ことほど左様にブランと達海の考え方は似通っているのです(なお、ETUのGMの笠野も「チーム力が上がる一番手っ取り早くて決行的な方法はなんだかわかるか? 選手間での競争が激しくなることだよ」(31巻p103)と言っています)。

そのブラント達海、両者に見込まれた椿は、ウルグアイ戦でどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。39巻にwktkがとまりません。

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2015-11-29

『王様の仕立て屋』人間の弱さと続くことの価値の話

今月新刊の発売された『王様の仕立て屋 サルトリア・ナポレターナ』。

11巻は今までに比べてカジュアルな服装が多く、普段着にスーツは着ないけれどあんまりラフすぎる格好もなあと思っている諸兄への助けとなるものでした。モノトーンに差し色ってかっこいいですよね。

さて、今巻そんな服飾以外で興味深かったのは、何かが続くこと、血筋や伝統が存続することに対する大河原先生のスタンスです。以前もこの記事で「伝統」について書きましたが、それだけにとどまらず、広く人やその営みは、それが自分で終わらず後世まで続くことそのものがまず重要なのではないかという考えが、やはり大河原先生にはあるように思います。

今巻は、大戦中にムッソリーニ率いるファシスト党に苦しめられるも耐え忍び、一族没落を防ぐのみならずイタリア北部の一大財閥として成長させ、半世紀以上の長きにわたり大黒柱として一族を支えてきた、御年90歳にしてなお意気軒昂、ジャンパオロ・パルツァーギ老を中心とした話でした。

ファシスト党のいわゆる黒シャツ隊の面々に苦しめられた過去を持つご老体は、黒い服に対して強いアレルギーを持っており、一族の者がそれを着ることにヒステリックな拒否反応を起こします。けれど、一族の会社を飛び出してフリーのルポライターとして働く、ご老体の曾孫の一人であるチェレスティーノ氏はまさにその黒い服を好んで着るため、仕事上で色々と嫌がらせを受けるのです。主人公の織部悠がチェレスティーノ氏に服を仕立てる中で、パルツァーギ老のアレルギーの根っこが明らかにされるのですが、それは、戦中に黒シャツ隊から苦しめられたのみならず、会社を存続させるため、時流に乗っていた彼らと積極的に交流を図っていた過去もあったからだというのです。

ファシスト党ドイツナチスの勢いがうなぎのぼりだった時の同時代人たちにとってみれば、国民を統合し、諸外国に対し勇ましく立ち向かうヒーローたちに映ったものですが、戦争が終わった後に歴史を振り返れば、彼らは世紀の極悪人。彼らに憧れていたり、便宜を図ったり、といったことはおいそれと口にできるものではありません。その封じ込めたい記憶のために、パルツァーギ老は黒い服に対して過剰に敵意を燃やしていたのです。

老の口から絞り出すように語られたそれを聞いた後、悠はこう言いました。

人間は半日経てば腹が減り 一分と息を止めていられない生き物です。

天動説を信じなければ異端審問にかけるぞと言われて突っ張り切れる人間は そうそういるもんじゃござんせんよ

何があろうとも ご隠居様が繋いだ瞬間があってこそ 本日 玄孫さんが生まれてきたのです

王様の仕立て屋 サルトリア・ナポリターナ 11巻 p163)

これと同様なことは、実はだいぶ前、無印の『王様の仕立て屋』でも言われていました。

しかし 未知の国で思いもよらない食文化に触れる度 生きるということの切なさを感じずにはいられません

人間の赤ちゃんは生物の中では最も未熟な状態で生まれて来ます

魚は生まれた瞬間から泳ぎ出し 子馬は自ら立ち上がりますが 人間の赤ちゃんは泣くことしかできません

また 人間は朝にどんなに詰め込んでも夕方になれば腹が減る 燃費の悪い生物です

ナポレオンの時代シーザーの時代 記録にはなくとも私と同じ顔をした先祖が確実に存在していて その先祖からほんの一度でも生命の連鎖が切れたなら 今私はここに存在してはいないのです

(中略)

激動の人類史を生き延びる為に 私の先祖が必ずしも清廉であったとは思っていません

どんな善人も腹は減る これが人間の悲しさです

王様の仕立て屋 11巻 p58,59)

生物学者として、世界のあちこちを旅する男性の発言です。祖父の形見だという万年筆のオノトを愛用する彼は、それを示してこんなことも言います。

激動の時代を祖父と共に生き抜いた相棒です

家族に食べさせる一皿のスープの為に ファシスト提灯記事を書かざるを得なかった事もあったとか

(同 p61)

人間は弱い。弱いから、信念を貫いて生きることが誰しもできるわけではないし、生きるためには手を汚すこともありうる。でも、生きなければ、後世にたすきを渡すことができない。

人間の弱さを認めた上で、それでも生きなければいけない、存続しなければいけないという声が聞こえてくるようです。

屈辱でも何でも妥協できるところはして 守るべきところを守り続ける判断は間違っちゃいねえさ

たとえ一個でも種を残せたら森を作る可能性はゼロじゃねえ

王様の仕立て屋 26巻 p46)

とは、作中の服飾評論家ボンピエリ氏のセリフ。

男とは家族の現在のみならず未来をも背負っているからです たとえ戦争で男が全滅しても 女子供さえ無事なら未来は残せるのです

替えの利かない立場にいながら一時の感情でその立場をかなぐり捨てたら 子々孫々の未来をも奪いかねない 男は断腸の思いで未来を選ぶのです

(同 p112)

とは、ペッツオーリ社の幹部フォンタナ氏のセリフ。

伝統とは火の後の灰を崇めることではなく、その火を絶やさぬことである、なんて言葉も、本作ではありませんがどこかで読んだ憶えがあります。

上遠野浩平先生の小説『殺竜事件』では、人類より遥かに強大な存在である竜が、未来ある人間の赤子の命を助けるために、己の命を引き換えにしています。

未来はその不確実性ゆえに、良くなるかもしれないし悪くなるかもしれない。それはわからない。でも、現在においてその流れが絶たれるならば、良いも悪いもそもそも評価ができない。何かを評価をするためには、それを評価をする人とされるもの自体が残っていなければならない。歴史の評価に堪えるためには、歴史の読者が必要なのです。

このような考え方に異論もあるでしょうが、それは作中でも何度か言及されているとおり(ベリーニ伯など)。ですが、異論があるという点こそが、あらゆる考え方に価値を与えます。異論があるからこそ、よりブラッシュアップされる考え方が生まれるのですから。異論反論の存在しない考えは、具体性のない机上の空論です。

長く連載が続くと、色々なことが浮かび上がってきて、そういうのを読み解くのもまた楽しいものですね。

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2015-11-22

季節の恵みを一杯のスープに 『オリオリスープ』の話

スープの中には季節がある。

デザイン事務所「トロポポーズ」で働く装丁デザイナーの原田織ヱは食べることが大好き。おなかが空いたら,アイデアに詰まったら,美味しそうなものを見つけたら,本能の赴くままに食事へ向かいます。数ある料理の中でも,特にスープが大好き。手軽に作れる。栄養も水分もとれる。体も心も温まる。四季折々の食材を使ったスープを飲んで,今日も織ヱは仕事に燃えるのです・・・・・・

オリオリスープ(1) (モーニング KC)

オリオリスープ(1) (モーニング KC)

ということで,綿貫芳子先生『オリオリスープ』のレビューです。

美人なのにどこか残念臭の漂う装丁デザイナー・原田織ヱが,仕事の合間に,一日の終わりに,お酒を飲む前に,季節の節目に食べる,旬の食材を使った汁物たち。食べることに幸せを強く覚える彼女の仕事ぶりや人間関係が,スープを中心に描かれています。

料理や食事にまつわる作品は最近本当に増えた印象がありますが,その種の作品に必要なのは,なんといっても,いかに食事を美味しそうに,幸せそうに食べているかだと思います。詳しいレシピや料理のうんちくが必要ないとは言いませんが,食事をとることで心も体もほっとする,読んでいる私たちも日常的に感じるその感覚を追想させてくれるような描写こそが,面白さの肝でしょう(それの逆張りをいった,『鬱ご飯』 という怪作もありますが)。

私の好きな食事漫画は、他に『きのう、何食べた?』『高杉さん家のお弁当』『まかない君』 などがありますが、本作がそれらと違う点が、誰かと食べることに主眼が置かれていない点です。挙げた三作品は、誰かと食卓を囲むこと、誰かのために作ることが前面に出ていますが、本作『オリオリスープ』は、あくまで季節感のあるスープを美味しく食べること。誰かと食べもするし、一人でも食べる。どう食べるにしろ、食べることに満足したい、食べることで楽しくなりたい。だって食べることは幸せなことなんだから。そんな気持ちが伝わってきます。

主人公の織ヱいわく,スープとは「汁気の多いもの全般」であり,「人に必要な栄養と水分を一皿で補える」ものである,そしてなにより「ホッとする」もの。「疲れてる時や元気が出ない時 一口飲むだけで心も体もあたたまる」もの。もちろん「簡単に作れる」ことも重要ですが。

この「一口飲むだけで心も体もあたたまる」というのは,本当によくわかります。私も職場にはインスタント味噌汁を常備してありますし,夕食にはお椀ものを一つ作るようにしています。和洋中なんであれ,メインのほかに汁物があると,消化の助けになるし,口の中もリフレッシュできる。また,おなかも膨らむので,食べ過ぎも避けられます。これからの季節は特に,温かい汁物のありがたさが身にしみるものです。手の込んだスープはもちろん,出汁の素と味噌と,ちょっとした野菜や乾物なんかでつくった簡単な味噌汁でも,あるとないじゃ食事の満足感が大違いですからね。

作中では,タイトルのとおり,季節感にこだわったスープ(広く「汁気の多いもの全般」)がよく出てきます。春に始まる第一話の,菜の花ベーコンのミルク煮,新じゃがのポトフ,オクラとミョウガのお吸い物,サバ缶の冷や汁,名残のトマトのラタトゥイユ,蕪のポタージュと,1巻最終話時点で秋になるまで,季節の食材を使ったスープが食べられているのです。スープ以外にも,梅酒枇杷コンポートかき氷など,スープでなくとも季節感のある食べ物が登場します。各話のタイトルに時期が明示されているくらいですから(「第3話 5月上旬 ショウブとヨモギ」のように)、季節感を意識しているのがよくわかります。

季節感のある食べ物を登場させる時,当然必要になるのが季節そのものの描写です。さわやかな風の吹く春。夏の気配が取って代わり出す6月の頭。蒸し暑さにうんざりする梅雨の最中。夏影の色濃くなる初夏。線香の煙漂うお盆。花火に切なさが灯る晩夏。稔りがあふれ出す秋口。少ないながらも要所に描かれる季節感が,食事の風味をいや増してくれています。

特にいいなと思ったのが,夏らしさを感じさせる描写で,私がそれを感じるのは,夏の強い日差しそのものよりも,日差しから生まれる濃い影なんですよね。日差しの明るさではなく,日陰の中の暗さ。明るさのコントラストが,光の強さを際だたせるようです。そんなコマがちょっとあるだけで作中の夏らしさは,読んでいる今が晩秋であろうと,焼けるアスファルトの匂いと一緒に浮かび上がり,食べられているかき氷ミョウガとオクラのお吸い物なんかに喉が鳴るのです。おいしそう。

みんなが仕事でキリキリする中でも,ふと思い立ってスープを作り出す織ヱですから,自由奔放に生きているように見えますし,実際そのとおりなのでしょう。論理や理屈ではなく,フィーリングでものつくりに取り組み,周りをあっと言わせるようなものを生み出す織ヱの姿に,呆れる人もいれば感心する人もいて,妬む人もいて。そして,奔放に見える織ヱにも,やっぱり暗いとげが刺さっていて。慕っていた祖父の死や,家族との折り合い。まだ明かされてはいませんが,とげはそれなりに大きそうです。美味しい料理は,甘い辛い酸っぱいいしょっぱいの単純な味だけでなく,苦みやえぐみ,青臭さなんかの一見マイナスに思えるものも味の奥深さに貢献しているように,癖のある人間関係や人となりが,物語の展開に奥行きを加えています。

季節感を味わいながら読み進めれば、思わずスープが欲しくなってしまいます。

試し読みはこちらから。

オリオリスープ/綿貫芳子 モアイ

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