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2014-11-23

「産む男」たちが高校生活で狙うはお嫁さん『白馬のお嫁さん』の話

時は2063年。今より半世紀先の未来。技術の発展により種々の問題は解決し、そしてその技術によってまた別の問題が生まれている、そんな時代。15歳の氏家清隆は、極端にリスクを嫌う性格を直すために父親から一人暮らしを強いられ、北海道礼文島から神奈川にまで出てきた。到着早々に降られた雨にずぶぬれになり、慌てて寮の浴場へ駆け込めばそこにいたのは、女の子の見た目をしていながら股間に男性でも女性でもない謎の性器をぶら下げている全裸の三人。聞けば彼らは、遺伝子デザインによって生み出された「産む男」なのだという。ひょんなことから寮を出て清隆の父が所有するシェアハウスで同居をすることになった四人。清隆の、そして「産む男」たちの明日はどっちだ……

白馬のお嫁さん(1) (アフタヌーンKC)

白馬のお嫁さん(1) (アフタヌーンKC)

ということで、庄司創先生の新作『白馬のお嫁さん』のレビューです。技術の発達により遺伝子操作が当たり前のものになった近未来を舞台にして、わりと下品な、どれくらい下品かと言えば連載開始3pの見開きで謎の性器を股間にぶら下げた全裸の三人(モザイク処理済)とこんにちはするくらいのコメディでありながら、人間の自然に由来する価値観を揺さぶる遺伝子デザインという技術にまつわる問題を物語の土台に据えている、挑戦的な作品となっています。

「産む男」。それは、遺伝子デザインの結果生み出された、女性と性行をして自ら妊娠できる男性。膣と精巣はもつが卵巣はもたず、謎の性器であるところの"竿"(非男根)を相手の女性器に挿入して卵子を得て、今度はそれを自らの膣に戻すことで精子との受精が行われ、妊娠することができる。

その人の性的嗜好性自認がなんであれ、「あ〜あ お嫁さんがほしい」と本気で考える女性のニーズに応えるべく生み出されたのが、彼ら「産む男」です。女性がほしがっているのはあくまでお嫁さんなので、「産む男」の見た目は女性。見た目は女性的で妊娠もできる、でも精巣も持つ、という両性の特徴をもつ人間ですので、男女の区別をどこでしているのといえば遺伝子。男性に固有のY染色体を持つというその一点で、彼らは「彼ら」なのです。

で、そんな彼らと新連載3p目で衝撃的な出会いを果たしたのが、礼文島からやってきた男・氏家清隆です。彼は彼で、遺伝子デザインを施された人間。その理由は「親から遺伝しやすい病気の予防」という「一番よくあるやつ」で、見た目等にその影響はないものの、極端にリスクを嫌うという性格にその副作用が出てしまいました。その性格を治すべく親元から一人離れて関東まで出てきた彼が、ずぶぬれになりながら入った寮の浴場で全裸の美少女(股間に謎の性器つき)と出会った時の衝撃はいかばかりだったでしょうか。「間違えて女子風呂に入った→弁解しても全員を説得できないとアウト→学校外での不祥事→即逮捕&退学→若者に破滅スパイラルが押し寄せる現代社会→野垂れ死」と絶望的な想像をしてはらはらと落涙するのもむべなるかなというものでしょう。そうか?

とまれ、そこにいた「産む男」たちは、志村主馬、鮭延正臣、北楯学の三人。見た目は三人とも美少女だけれど、三人とも股間に"竿"をぶら下げています。風呂から出るわけにもいかず、文字通り裸の付き合いで清隆が三人から聞いたことには、彼らはWOLVSという民間団体の出身で、世界七か国に支部のあるその団体は「産む男」たちの思想を支持し、実際に「産む男」たちを産み育てていました。ですが「産む男」まで大胆な改造をする遺伝子デザインは現実として違法であるため、WOLVSは秘密裏に彼らを生み出して時期を見て公表するつもりだったのですが、公表前に摘発を受けて解体、「産む男」たちはその存在を曖昧にされたまま社会に放逐されてしまった、というのです。

WOLVSの東京支部にいた主馬らはなんとか高校入学にまでこぎつけたのですが、そんな彼らの夢は「頼もしいお嫁さんと結婚する」こと。生い立ちとその体から、「メチャクチャ子どもが大好き」なので、家庭に入って誰かの子供をぽんぽこ産んで育てたい。でも、そのために当然相手を見つけなばならないけれど、生い立ちが生い立ちだけに懐事情は厳しく、また世界に冠たる不景気先進国となっている日本では大学への進学が非常に難しい。なものだから高卒にならざるを得ないけれど、それで社会に出ても、専業主夫と何人もの子どもを養えるような頼れる女性と出会える確率はぐっと小さいものになってしまう。また、若い女性の方が固定観念にとらわれず「産む男」を真剣な結婚相手としてみてくれやすい。この二点から、主馬らは高校生の内から嫁さがしに奔走しているのです。

さて、性格を直すために島から追い出された清隆ですが、その性格ゆえに島に帰りたくて仕方がありません。リスクと危険のない平穏な生活。東京の一人暮らしよりは故郷での生活の方がそれは得やすいもの。しかし父親はそれを許さず、帰郷するのに条件を付けました。それが、嫁を島に連れて帰ること。つまり、主馬らと清隆は、高校在学中に何とかお嫁さんを見つけるという点で目的が一致しているのです。

折悪しく発生していた豪雨により裏山の地滑りが発生、寮が全壊し、行き場を失った四人が行き着いたのが、清隆の父親が経営しているシェアハウス。こうして、白馬に乗ったお嫁さんを探す四人の生活がスタートしたのです。


技術が今より進んだ近未来の物語。でも、技術の発展と価値観の変化は必ずしも軌を一にして進むわけではなく、それはたとえば、卑近な例では楽曲販売のレコードからCD、そしてデジタルデータへの変化、紙と電子書籍どっちがいいかという問題などがあり、クローン技術や出生前診断のように生命の意義などにもかかわってくる極めて複雑な問題もある、現代でも存在する話です。

遺伝子デザイン。それは生まれてくる人間をどのような人間にするかあらかじめ決めるものであり、果たしてそれは許されるものなのか。許されるとしたら範囲や程度はあるのか。誰がそれを決定できるのか等、問題はいくらでも湧いてきますし、その答えは暫定的なものを積み上げていくしかないのです。実際に作品中では、清隆のような病気の予防はのためなら適法でも、「産む男」のような大幅な改造を施す遺伝子デザインは法的に禁止されています。物語から数十年後、数百年後先にはどうなるかわかりませんが、2063年では、遺伝子デザインの線引き、すなわち価値観の線引きはそのあたりでなされているのです。

その線がどちらへ振れていくかは未知数。主馬らはその未知数の中で生きるしかありません。ですが彼らは、その未知数を極めて前向きに受け容れて、お嫁さん探しに邁進します。それは打算的でもあり、同時に本能的なものであり、将来への道筋。マイノリティであることを自覚しながら、それがどうしたてといわんばかりに嫁さがし。ポジティブ。

で、彼らと同居する清隆は、正反対のリスク恐怖症。ヒヤリハットを見つけさせたら天下一品の弱気人間で、嫁さがしをしている自分の前に奇跡のように似つかわしい女性が現れても、ヘタレヘタレ&ヘタレで、自分以外の人間が出した最適解をほしがってしまうような男です。そしてどうやら、清隆にも遺伝子デザインに絡んだ秘密がまだありそうで、お嫁さん探しは前途多難な様子。

彼と彼らの出会いは、お互いににどのような影響をもたらすのでしょうか。デリケートな問題とそれを彼方へ放り投げるような豪快なギャグのバランスがなかなかにステキで、今後どういう展開になるのか、期待が高まります。

第一話がこちらで試し読み出るので、どうぞー。

モアイ-白馬のお嫁さん

P.S. 帯に雨隠ギド先生が推薦文を寄せているのですが、そこで描かれている主馬たちちょうかわいい。

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2014-11-19

小学生から高校生へ 幼馴染み二人の「幸せな蛇足」『ゆあまいん』の話

小学校以来の幼馴染みである舞と吉岡。腐れ縁が腐りすぎて、どうやって距離を詰めたものかと思い悩んでいた吉岡だけど、中学校の卒業式の日に同級生から背中を押され、なかば無理やり舞と恋人同士に。でも、良くも悪くも気を遣わなくて済んでいた今までの距離感と、ついでに舞のファンキーな父親のせいで、恋人になったはいいものの今度はどうそれを進展させればいいものやらと思い悩む。甘酸っぱい高校生二人(と頓狂なおっさん一人)の、幼馴染みラブストーリー……

ゆあまいん (バンブーコミックス)

ゆあまいん (バンブーコミックス)

ということで、むんこ先生の新刊『ゆあまいん』のレビューです。

実は本作は、全3巻で絶賛発売中の『まい・ほーむ』も後日談に当たるお話となっています。

まい・ほーむ 1 (バンブー・コミックス)

まい・ほーむ 1 (バンブー・コミックス)

そちらは、小学生・舞とその父親・史郎がメインとなっており(吉岡も友人として登場します)、物語としても家族の暗い部分などが前面に出てきたりもするため、ハートフルと呼ぶには少々もの悲しさのある作品だったのですが、本作は高校生になった舞と吉岡がつむぐ徹底的に甘酸っぱい物語なのです。記事タイトルで使った「幸せな蛇足」とは、コミックス帯の惹句なのですが、非常にナイスコピーだと思います。

この甘酸っぱさのどこがいいって、吉岡が、距離を詰めたいんだけどどうすればいいかわからなくてじたばたしながらも、ある一線を越えるとふっと真剣に、そして素直になる感じです。

たとえばこの試し読みの、p8「心臓の音 聞こえそう」みたいなやつですわ。他の友人といる時に見せる照れ隠しであるとか、自分の下心を隠そうとして出てくるどたばただとか、そういう表面に浮かび上がっていた感情がふっと剥がれ落ちて、むき出しの「好き」とか「大事にしたい」とかの気持ちが顔を出す、あの感じ。あのコマの中の空気の静かさ。お互いの好意が裸のままで向かい合ったときに、お互いが真面目になって、飾らない言葉を無造作に差し出すしかない感じ。それが、とてもよいのです。

自分の過去には絶対なかったっと断言できるあの感じ。まあ現実にあんなあまずっぺえ高校時代を送った人間が世の中の何%を占めているかわかったもんじゃありませんし、もしいたとしてもそいつらは敵なのでいいのですが、こんな私でも、否、私だからこそあの感じを欲するときがあるのです。人間だもの。

父親のファンキーさなんかがなんの説明もなく描かれているあたり、『まい・ほーむ』を知らない人にはちょっと?なところもあるでしょうが、まあそれはそれとして幼馴染みの恋物語としていいものがあります。あの舞ちゃんがこうなるとは、まったく時間とは劇薬ですね。ただ、いかにも高校生らしい下ネタは作風とミスマッチ感が否めないかしら。

むんこ先生の作品は、概して年齢が高めの作品の方が好みですね。『だって、愛してる』とか『メメ子ちゃん』とか。本作を読んで、ラインが高校生以上なんだとわかりました。

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2014-11-01

『僕はお姫様になれない』コッテコテベッタベタの塩梅の話

先々月に発売された、若林稔弥先生の『僕はお姫様になれない』。

話のつくりやノリは8発に発売された『徒然チルドレン』と大差ないのですが、正直なところ、私は本作にいささかのることができませんでした。その感覚はいったいなにによるものなのか、それを考えてみたいと思います。

本作は、シンデレラ白雪姫など、童話の登場人物をモチーフにしたキャラクターたちが主役を張り、それらが連作短編的にからみあっていきます。ストーリーの展開の仕方は、前述のとおり、『徒然チルドレン』とほぼ同様。

徒然チルドレン(1) (講談社コミックス)

徒然チルドレン(1) (講談社コミックス)

青春 それはニマニマのラブコメディである 『徒然チルドレン』の話 - ポンコツ山田.com

勘違いや妄想で暴走しすれ違い、ドタバタとラブラブコメコメする作品です(1巻の段階ではコメディの成分が大きいですが)。内容は大差ないこの両者で、なぜ読んだ印象に大きく差が出たのでしょう。

私の仮説は、4コマ漫画と通常の体裁の漫画、という漫画としての構成の違いに由来するのではないかというものです。一般的な漫画のコマ割りで描かれた『僕は〜』と、4コマで描かれた『徒然〜』。そこに、ネタやノリが同系統でも読んだ際の印象を変えるものがあるのではないかと。

では、4コマ漫画とそうではない漫画で、どのような差があるのでしょう。

一般的に4コマ漫画は、コマが画一な大きさで区切られ、規則的に配列されます(2本のネタが縦に4コマで並び、1ページ内にネタが2本、というのが多くの場合でしょうか)。その画一性・規則性にメリットデメリットはいろいろあるでしょうが、『徒然〜』の場合はメリットとして強く働いたように思います。画一的・規則的に配列されたコマは、その無機質性ゆえに、『徒然〜』のコッテコテでベッタベタな部分を緩和してくれたように感じるのです。

コマの大小は、情報の重要度や情報量、目線の移動などに大きく影響を与えるファクターですが、4コマ漫画は前述の特徴のとおり、それらに関与することがありません。ボケをさく裂させるコマもそれを冷ややかに見るコマもあるいは盛大に照れるコマも、コマの大きさという外形的な面からは情報の重要度は等価となり、熱いコマは冷め、冷たいコマは逆にぬるくなることで、コマの温度は平準化されます。そしてそれこそが、コッテコテでベッタベタなネタをくどすぎないレベルにまでまろやかにしてくれたのだと思うのです。

で、それはとりもなおさず、『僕は〜』の方はコッテコテでベッタベタなやつが希釈されず、それどころかコマの大小によりブーストがかかってしまているということで。

思惑のすれ違いや妄想による暴走がネタの肝なのですが、緩急のついたコマ割りでそれが描かれると、妙につらい。他の作品との比較はいざ知らず、『徒然〜』と比べるとひどくつらい。有体に言って、ニマニマではなく苦笑いになってしまいます。「そりゃないわ」と。

また別の観点として、通常の漫画としてストーリー性を高めたというのも、負の側面として表出しているように思えます。これも4コマでなくなったということと無関係ではないと思うのですが、一つの話の中で主要キャラクター以外にモブが多く登場するようになり、また背景も描きこまれるようになったことで、作品世界に広がりが与えられました。そういうストーリーとは一見無関係なものが作品世界やキャラクターに奥行を与えるの確かなのですが、『僕は〜』の場合、世界が広がった分だけ、「なんで他のキャラクターはこのずれっぷりを変に思わないの?」という方向に考えが行ってしまったのです。すれ違いは、当人たちばかりがわかっておらず周囲はそれを生温かく見守る、という構図が面白いと思うのですが(『徒然〜』の「仮面」などはそれが上手く出ています)、『僕は〜』は当人以外の周囲の人間もあまりにも不自然なすれ違いを見過ごしており、そのためにギャグを通り越して嘘っぽくなってしまっています。設定をとやかく言うのも野暮かもしれませんが、女子が男子生徒の格好をするのを百歩譲ってありとしても、中高にわたって他の生徒どころか教師まで皆が皆性別を勘違いしているというのはあまりにも強引。トイレや体育の授業、旅行などはどうしているのか。

すれ違いからのドタバタコメディは一点突破要素が強いネタな分だけ、その一点突破にどれだけ隙を作らないかが大事だと思います。無駄に焦点を広げては、突破するだけの鋭さが失われ、読み手のテンションを下げてしまう。それが『僕は〜』で出てしまったのかな、と。

うん、まあ、ええと、『徒然チルドレン』2巻の発売はいつかな。

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2014-10-01

『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話

今年度のオレコン漫画ランキング暫定一位に輝いている、田島列島先生の『子供はわかってあげない』。

夏の日に少年は男になり、少女は恋をする『子供はわかってあげない』の話 - ポンコツ山田.com

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

本作にはあるテーマが一貫して伏流しており、それが様々な形をとって登場しています。

そのテーマとは何か。

それは「交換」です。

これは一般的な意味ではなく人類学的なそれで、モノだけではなく、行為も対象になります。誰かが誰かに何かをあげたら(したら)、された側もなにかをあげる(する)。そのような動的な運動性が、ここでいう交換です。

具体例を見てみましょう。

第一話で、屋上で絵を描いていたもじくんは、ヤンキーにぼこぼこにされて屋上の鍵も奪われてしまいましたが、“岩高の狂犬”こと千田くんがそのヤンキーどもをブッ飛ばし、鍵も取り返してくれました。千田くんがそんなことをしてくれたのは、もじくんが彼のラブレターを代筆してあげたことがあったからで、のびているヤンキーから鍵を取り上げ、もじくんに鍵を手渡しながら千田くんは「これで借りは返したからな」と言うのです。

なにかしてもらったから、お返しに何かしてあげる。

ずいぶん当たり前のような話ではありますがこれは、大上段な話をしてしまえば、人類に普遍的に存在する営為なのです。心理学では返報性などとも呼ばれますが、何かをされたらお返しをしなければ気が済まないという心の動きは、古今を問わず広く見られます。

卑近な例を言えば、試食コーナーでつまんだら買わないとまずいような気持ちがそれですし、アメリカではある大学教授がちょっとした実験で、多くの見ず知らずの人間にクリスマス・カードを送ったら、その教授が何者なのか受け取った人間は一切知らない(そもそも教授かどうかも知らず、当然実験だということも示していない)にも関わらず、驚くほど大量の返事のカードが来た、という話もあります。北米太平洋西岸ネイティブ・アメリカンの間に存在するポトラッチという儀式は、ホストがゲストを蕩尽的にもてなし、それをされたゲストは今度は自らがホストになり先のホストを、あるいは別のゲストを招いて同様かそれ以上のもてなしをする、というものです。パプア・ニューギニア島嶼部に住む複数の部族にはクラと呼ばれる交易があり、二種類の貝の首飾りを、クラに参加している共同体の中で規則的に交換していきます。

このような「交換」がなぜあるかといえば、様々な意見がありますが、交換をすることで財や関係性に変化が生じ社会が常に動的な状態におかれる、というものが説得力のある仮説だと私は考えます。

生命とは何かという問いについて、福岡伸一氏は「生命とは動的平衡にある流れである」(『生物と無生物のあいだ』p167)と答えていますが、これは生命体たる人間の集まりである社会集団にも適用できるものでしょう。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

社会集団も、変化の起こらない静的な状態ではいつしかその活動を停止させてしまうので、内部に変化を起こしその要素が流動することで、社会が一個の有機体として活動を続けられるのだと思うのです。

戦国妖狐』でも、かたわらによって、外界から保護という名の断絶をなされた村が「循環を失くして澱み」滅んだ、というエピソードがありましたが、まさにこれは社会集団が静的な状態に留め置かれたためにその活動を停止したことに他なりません。

戦国妖狐(3) (BLADE COMICS)

戦国妖狐(3) (BLADE COMICS)

『子供はわかってあげない』に戻りましょう。

サクの実父は、他人の心を読むという彼固有の能力を持っていましたが、その固有性ゆえに誰かに教えることがひどく困難であり、教団内でそれを教えようとしてきたのも、教団の人間たちに「乗せられるだけ乗せられてきた」からという外部的な動機に基づいており、結局長続きするものではありませんでした。そして、そんな彼が教団に戻らないことを決め、代わりに見つけた「やるべきこと」が、以前やっていた指圧への復職だというのは実に示唆的です。なぜかというに、指圧は彼が彼の師から受け継いだ技能であり、職だからです。彼は、誰かから受け継ぐ、すなわち交換のサイクルに入ることを選んだのです。すると図ったように弟子をとらないかという話が出て、サクの父が技術を与えられた側から与える側へ移り、さらに交換のサイクルが生まれました。

指圧師への復職を決意した彼は、教団の中にいた自分を自嘲して、「世界中で自分にしかできないことにこだわり続けてたんです」と照れ笑いをしました。自分にしかできないことはどん詰まり。それ自体が交換の運動性におかれることはありません(もちろんそれから発生した効果で交換は生まれますが)。そのこだわりを捨てたことで、彼は動的な関係性の中に入れたのです。


サクの父の話で技能の継承が登場しましたが、受け継ぐということも交換の一類型です。ですから、18話での恋する心ことジョニーの言葉も、交換についてのものとなります。

ジョニーは人類が自分に対してとりうる対抗措置について「フロンティアで見たものを言い伝えや文献にすることだけだ」と述べました。そして対抗措置の中で最良のものは「「好き」という言葉だ」とも。

「「好き」という言葉」は「ただのカード」で、そこにジョニーはとてもじゃないが入りきらないけれど、それを見せればジョニーがすべて伝わることにすると先人達が編み出した方法、というか約束だというのです。困難なことについて、先人達が編み出したものを連綿と受け継ぐ=交換することで対処しようとする、人類の知恵の話です。


また、作中で何度も登場する「人が自信をもって意見を言う時って その意見が「誰かから聞いたもの」である時」や「人は教わったことなら教えられる」などの話も、交換の一類型と言えます。これらは、自分の中だけで考えた、よくまとまっていない考えは誰かに言う気になかなかなれないけれど、誰かから与えられた綺麗にパッケージングされたものならば、自分が効いて納得したものは、また別の誰かに与えたい。そのような動機でもって、情報は、あるいは教えるという行為は交換されていくのでしょう。


このように、交換は往々にして、二者間のみで行われるのではなく、誰かからされたこと(もらったもの)をまた別の誰かにする(あげる)という形で、広範に展開していきます(先に挙げたポトラッチやクラはその好例です)。それを明確に言葉にしているのが、最終話でのもじくんの兄・明大です。

「お金… 本当にいいんですか?」

「いーのよ 負けてあげるって言ったじゃない」

「でも… タダってわけには…」

「…

…じゃ そしたらね

美波ちゃんが大人になった時 私と同じように自分より若い人にそのお金の分何かしてあげて

そういう借りの返し方もあるの 覚えておいてね」

(下巻 p174)

今受けた借りを、自分ではなく別の誰かに返す。まさに交換の循環です。明大はサクに、交換の環を広げよと告げたのです。

また、その数ページ先には、明大と彼(女)の下宿先の家主・善さんとの会話も交換を世界に広げたいということを表したものでした。

「善さん 私 美波ちゃんに渡したよ 善さんに渡す分の家賃」

なので今後家賃家賃と騒がないでほしい」

「これからも家賃は発生します」

無間地獄!?」

「そうだよーん

俺らは子供を残せるわけじゃないから 明ちゃんとのつながりが世界のどっかとつながってたいんだ」

(下巻 p179)

家賃、すなわちお金は、交換を促進するために人類が発明した最大のものです。金貨・銀貨等、お金の素材そのものに価値がある場合はまた別ですが、そうではないお金、たとえば現在の貨幣や紙幣(=不換貨幣・紙幣)は、交換されることでその価値が担保されるものです。1000円札は、「これは1000円分の価値があります」という約束事に同意している人の間で交換されていることで初めて1000円の価値を持ちます。

これは、私が適当な紙に1000円と書いたものを1000円札として使おうとしても誰も相手にしてくれないことを考えればよくわかります。私が勝手にある紙切れを1000円札と言い張っても、他の人がその約束に同意しなければなんの効力もありません。日本国内で流通している1000円札は、皆が1000円分の価値があると思っているから1000円札たり得るのです。

1000円札を外国に持って行って使おうとしてもそれが出来ないのは、海外の一般的なマーケットでは、1000円札は1000円分の価値を持つという約束が同意されていないからです。1000円の価値を持つお金を手に入れるためには、その国で1000円分の価値を持つという約束が成り立っているお金に両替しなければなりません。

こうしてお金はその存在意義からして宿命的に交換されることを義務付けられており、それゆえにお金を使う人は交換の環に入らざるを得ません。明大からお金を受け取る善さんは、必然的にそれを使う(銀行に預けたり投資するのも同様)ことになり、社会の交換の環に加わります。どこかからお金を稼いできた明大はそれを善さんに家賃として渡し、善さんはそのお金を何かに使う。こうして二人の関係性は社会に向けて開かれたものとなるのです。

余談ながら、善さんが17話のラストで読んでいた『うすら悲しき熱帯』は、フランスの文化人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの著作である『悲しき熱帯』のパロディです。

レヴィ=ストロースは、人間が自集団の女性を他集団に送り出し、別の他集団から女性を受け入れる、すなわち女性を交換することで社会は発展していくのであり、インセストタブー近親相姦の禁止)はそれに基づいている、と述べました。それを考えれば、女性ならぬ明大を受け入れた善さんが、社会集団につながる交換を強く希求明大から家賃を求めたのは、決して偶然ではないでしょう。


世界に必要なのは「自分にしかない力」じゃない

「誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと」だけだ

(下巻 p104)

これはサクの実父の言葉です。彼の言葉の意味がが満ち溢れているかのような本作は、交換ゆえに個と社会がつながり、個人の小さな事件が他の事象へ次々と波及していく中で個々人の内面が描き出される物語の奥深さがあるのかなと思います。

マジ名作。

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2014-09-25

夏の日に少年は男になり、少女は恋をする『子供はわかってあげない』の話

夏の大会に向けて練習に励む水泳部のサクこと朔田美波。休憩時間にふと見た校舎の屋上にあった人影が気になって、練習後にそこへ走れば、いたのは去年同じクラスだった書道部のもじこと門司昭平だった。二人ともアニメが好きということが知れ、仲良くなる二人。ある日サクがもじの家まで行くと、とある新興宗教のお札をたまたま見つけた。そのお札は5歳の頃に別れたサクの実の父親に繋がるものかもしれなくて・・・・・・。そこから始まる、小さくも大きな一夏の冒険。

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

ということで、田島列島先生『子供はわかってあげない』のレビューです。

一学期の終業式間際から夏休みが終わるまでの、夏の数十日間。学生たちが心弾ませずにはいられない夢のようなひととき。もう過去のものになってしまったあのわくわくを思い出させてくれる、というかこんな高校生活送れたらクッソ楽しいだろうなと思わずにはいられない、すばらしい作品でした。

なにより特筆すべきは、作品全編を通じて漂うふわふわわくわくする空気。第一話はサクがプールに浮かんでいるシーンから始まるのですが、本作を読みながら感じる空気はそれによく似ていて、何も遮るものなく見通せる青い空の解放感だとか、身体と水との境界が融けてなくなっていく浮遊感だとか、疲れた身体が何物にも束縛されずに放り出される快い倦怠感だとか、夏のプールの心地よさを全て詰め込んだようなこの空気。書き込みの薄いポップな絵柄によるものなのか、細かく挿入される地口やパロディなどの小ネタによるものなのか、軽妙な台詞回しによるものなのか、深刻なことでも深刻にならずに描き出す語り口によるものなのか。おそらくそれらが絶妙に絡み合って、この他では得難い空気が生まれているのだと思うのです。伊坂幸太郎先生の『重力ピエロ』で、「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」という一節がありますが、それを地で行くかのような陽気さです。

第一話はweb上で試し読みできるのですが、それは本当に軽い導入部。サクともじの紹介をして、ちょっとドタバタしたお話だけといえばだけなのです。でも、二話になると話は動きだします。五歳のときに別れたサクの父親と、門司家のとある事情が交錯して、にわかにストーリーに深刻さが加わるのです。けれどこの作品で素晴らしいのは、上で書いたように、話に深刻さが加わろうとも空気はちっとも重くならないところ。実の父との久しぶりの対面や、それを家族に知られたら今の幸福な過程が壊れてしまうんじゃないかという心配、いなくなった父が抱えていた悩み、もじの兄の悩みなどなど、いじろうと思えばいくらでも重くできそうな物語の要所を重くせず、さりとて軽薄にはならず、風通しのいい展開になっているのです。

高校生の時のあの夏と同じように、もう手の届かないものとして描かれているのが、主人公サクの素直さです。もじ曰くの「ひんまがっていない」女の子であるサクのストレートな感情表現は、怒るも悲しむも喜ぶも困るも彼女の感じたまま。こういう風に生きられたら人生楽しいだろうし、周りの人も楽しいだろうなと思えます。もちろんそれは、彼女の感じ方が周囲の人間を蔑ろにするようなものではないからで、周囲の人間も実際に彼女に惹かれているからそう思えるのですが、ひんまがった自分がとうの昔に無くしてしまったそれ、少なくとも高校生の時分には確実になかったそれが活き活きと描かれているのは、ノスタルジーというかなんというか。


ネタバレがさほど問題になる作品ではありませんが、それでもなるべくクリティカルな部分は言わないようにするとどうしても奥歯に物が挟まってるような書き方になってしまい、この作品の魅力を十全に伝えられた気がしないのが残念無念。とりあえず、試し読みの第一話はぜひ読んでもらいたいし、それがお気に入れば即本屋に走るかポチってほしい。第一話の空気が好きなら、以降の意外な方へ進むストーリー展開の中でも失われないそれに感動できると思います。

子供はわかってあげない/田島列島 モアイ

3巻以内でお薦めの作品と問われたら、『レベルE』、『ぼくらのよあけ』、『G戦場ヘヴンズドア』に並んで挙げます。すごい好き。

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