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2014-04-19

『名探偵マーニー』人生のゴールとその先の話

またぞろ『マーニー』の話で恐縮ですが。

3巻のfile23「ゲーマー」では、あらゆるゲームに精通していて、子供のころからクリアできないゲームなどなく、長じて某国立トップの大学へ進学した男・武藤が登場します。ゲーム研究会に所属した彼は、プレミアのついたゲームソフトを購入する資金源として先物取引に手をだしていたら、いつの間にか学校から姿を消して、友人や家族とも連絡を取らなくなりました。そんな彼の消息調査をマーニーは引き受けたのですが、調査を進め彼の現況を突き止めると、そこには驚くべき実態がありました。

数十階建ての高級マンションの最上階。ワンフロアをまるまる独占するようなだだっ広い部屋が、今の彼の住居でした。先物取引で十分すぎるほどの資産を積み重ねた彼は、今では資産運用を会社に任せ、一人そこに住んでいるのです。ただし、そこには一組のソファとテーブル、そして寝袋があるだけで、彼が好きだったはずのゲームどころか、まともな家具さえありませんでした。

あまりにも殺伐とした生活に驚くマーニーへ、武藤は言います。

興味がわかないな…

僕はあらゆるゲームをやってきて… ゲームに勝つためあらゆる努力も勉強もした 勝負はそれに見合った努力をしたものが勝つんだ

TVゲームも受験もマネーゲームも人生も あらゆるゲームに僕は勝ってきた

そして気がついたらゲームは終わっていたよ

全ステージクリアした僕は今ここに居る

ここがゴール・・・なんだよ

(3巻 p103〜105)

人生におけるゴール。

たとえば受験勉強に励む中学生などに、「高校入学がゴールじゃないぞ」と言うとします。「大事なのはそこで何をするかだし、その上で将来何をしたいかだし、それに言ってしまえば将来何をしたいかは途中で変わってもいいわけで、その意味で、人生に目標はあってもゴールはないぞ」と。

これは中学生に限らずとも、ある程度普遍的に言えるものであろうとは思います。高校、大学、就職、結婚、子育て。ライフサイクルの中でイベントはいろいろありますし、それぞれにおいて「こうしたい・こうありたい」と思う形はあるでしょう。でも、その形を「ゴール」として設定したとしても、その後にも人生は続いていくわけで、マラソンのゴールのようにテープを切ったらそこで終わるものではありません。真実「ゴール」と呼べるものがあるとしたら、それは「死(死に方)」でしょう。これ以上自分自身が関与できず、そこで終わるものとして。

けれど、まだ二十歳そこそこの武藤は、「ここがゴール・・・」と言い切っています。「ゲームは終わっていた」と。

「ゲーム」を終えた武藤は、最高の展望を誇るマンションの最上階で、一人静かに満足感を味わっています。

僕は今 勝利の余韻にひたっている

家族も友人も恋人も娯楽もゲームももういらない

それがすべてなんだ

(3巻 p106)

そんな彼を見てマーニーは思うのです。

私は彼に寂しくないですか…と

聞こうとしてヤメた

彼はきっと寂しくもつまらなくもないだろう

すべてのゲームに勝利した男は この天国に近い部屋で 

右往左往する民衆を見下しそれを笑っている

でもだれがそれを責められるだろう

それこそが真の勝者の権利なのかもしれないから

(3巻 p106)

もちろんこれは創作、お話なわけですが、だからこそこのような突飛な物語を作れるのです(ひょっとしたら現実でもいるのかもしれませんが)。

人生に「死」以外のゴールを設定し、それをクリアしたところでこれ以上の人間的営為を実際にやめた人間がいたとしたら、どのような存在になりうるのか。それが、一話完結の短編漫画という形で実に端的に描かれていると思います。

木々津先生は、他の作品もそうですが、ある設定に現実を超えるレベルのエッジを利かせまくって突き詰めるとどうなるのか、というのを短編で描くのが巧い。『フランケン・ふらん』なんか、もろにそういう作風ですし。

極端に尖ったものを提示されることで、それと現実とのギャップに考えさせられること、あると思います。

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2014-04-16

『名探偵マーニー』マーニーの見た「愛」と他者への信頼の話

一話あたりが短いような気がするも実は20pあって、そりゃあけっこうなペースで出版されるよなと思う『名探偵マーニー』。

さくさくっと読めちゃうので何度となく読み返すことがあるのですが、最近5巻を読み返していて、ふと目にとまったエピソード

file45「チアリーディング」で、マーニーはチアリーディング部内のいざこざを解決するために部長の猿頭から調査を依頼されたのですが、その一環というか何というかで、チアの演舞の一つである“タワー”の最上段に上らされ、そこから落ちる、というのを強制されました。

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この動画の冒頭で、舞台中央で行われているものです(作中では、タワーは4段で構成されていたため、動画よりももう1段高いですが)。

当然そんなの素人が満足に出来るものではなく、おっかなびっくりへっぴり腰でマーニーはそこに登り(登らされ)、覚悟を決める間もなく足場を崩されて落下するも、さすがに周囲は練習を積んだ現役チア部員、危なげなく彼女を受け止めました。

その時にマーニーが感じたこと。それは愛。

本当に見えたんだよ…

空中に放り出された瞬間 世界を包む「愛」が見えた

恐ろしいことに 猿頭晶子の言うことは間違ってはいないんだ…

(5巻 p190)

ここでマーニーが触れている「猿頭晶子の言うこと」とは、マーニーをタワーへ登らせる直前に言い放った

芸術であり 宗教でもある

神の世界をかいま見る 開放と恍惚 恐怖と愛 全てがあるのだ

(5巻 p186)

です。

さすがにこれらの言葉は大仰であると感じざるを得ません。ですが、タワーから落下し、受け止められたマーニーが「愛」を見た、というのは、実はわからなくはないのです。

といっても別に、私にタワーから落下した経験があるわけではありません。ですが、このマーニーの経験をもっと広く捉えたときの話、つまり、自分の生命が他の人間によって支えられていると実感する、という感覚の話であれば、ないわけではありません。

それがなにかというと、ダイアログ・イン・ザ・ダーク というイベントです。詳しくはリンク先を参照してもらいたいのですが、簡単に言えば、鼻をつままれてもわからないような本気の暗闇を作った屋内で、疑似的に作られた草原や森、砂浜などを歩いたり、古民家でくつろいだり、バーでドリンクを飲んだりと、視覚を完全に遮断することで、それ以外の五感をフル活用して様々なものを味わう、というものです。

この状況、いわば視覚障碍者の立場になってみるようなもので、実際、イベントでは視覚障碍者が使う杖をレクチャーを受けた上で使用しますし、またイベントのアテンド(案内人)は現実の視覚障碍者です。一切視覚が効かない中での案内役ですから、そりゃあ適任ですよね。

さて、一切目が見えない状況というのを実体験してみると、普段の私たちの生活とは、見ず知らずの人間による見ず知らずの人間への誠実さと、それに対する信頼で成り立っているのだなと思わずにはいられませんでした。

どういうことかと言えば、まずは視力ゼロというところから想像はスタートするのですが、街には歩行者点字ブロックがありますよね。あれは道なりに作られていて、交差点などではそこで一旦止まるべきことがわかるように作られています。そう作られているからこそ、目が見えなくとも安全に道を歩けるわけです。

それは当然と言えばもちろん当然のことなのですが、簡単に当然と考えられるのは、目で見てそれがそう作られていることを確認できるからです。自分で確認できるから、そりゃあそう作られている、そうじゃないと危なくてしょうがない、と他人事のように易々と言える。でもそれは、いってしまえば自分に関係がないから。点字ブロックがなくても自分は安全に道を歩けるから。

もし目が見えなければどうか。

点字ブロックが安全に作られているのかどうか、見えないのだから自分自身で確かめようがありません。他の人に聞いたところで、その人が嘘をついているかもしれない。本当に安全なのか、究極的なところで保証がない。それを本当に必要とする人にこそそれが本当に安全なのかどうか保障ができない、というのも皮肉というかなんというかですが、とにかく、それを疑ってしまったら街を歩きようがないんですよね。

だから、目が見えなければ、それが安全であると前提しなければならない。確かめられないものを、確かなものとして受け入れなければならない。他人が作ったものを信頼しなければいけない。

他人のなしたことに対する無条件の信頼。これを愛と呼ばずして何と呼ぶのか。そんなことを、イベントを体験して思ったわけです。

もちろんあり得ないことですけども、たとえばイベント内で、開催者側がなんらかの悪意で参加者に害をなすようなギミックを仕掛けておくことはできるわけです。もしそれをすれば、開催者側への猛烈な不利益が生じることは火を見るより明らかですが、原理的には、できる。けれど私たちは、それを疑っていたらイベントを楽しむことはできない。人道的な理由であれ経済的な理由であれ、開催者側はそんなことをしないと信じるからこそ、心からイベントに没入できるのです。

で、視覚障碍者は日常的にそういうことを信じているのだな、と考えたわけですよ。

とはいえ、それはもちろん視覚障碍者に限りません。健常者だろうがなんだろうが、神ならぬ人の身、世の中のすべてのことを知ることなんて不可能です。日常の中で、必ず自分の知りえない箇所が存在しています。であれば、他人に対する信頼が無ければ安心して生きていくことはできないのです。

目の前でしゃべっている相手がいきなりナイフを持ち出して刺すことはない。乗っている車にブレーキが壊れるような仕掛けがされていない。突然オフィスの天井は落ちてこないし床も抜けない。そういう、当たり前のことに対する当たり前の信頼は実は、確かめようのないことについて確かだと信じるしかないものなのです。

ですから、たとえばアグリフーズの農薬混入事件のような、食べ物に毒は入っていないという当たり前の信頼が崩される出来事は、日常を大きく揺るがすのです。

ここで話はマーニーに戻りますが、彼女は、タワーから落下するという非常に危険な演技は、落下した自分を受け止めてくれる他人がいて初めてできるものであり、そしてそれをするには他人は自分を受け止めてくれると心から信頼しなければいけないのだと気づいたのでしょう。生死のかかった瞬間だから、その強烈さもひとしお。「世界を包む「愛」」すら見えたのです。


とまあそんなことを、file45を読んで思いました。

ちなみに、記事中のダイアログ・イン・ザ・ダークはマジでおすすめです。生理的に真っ暗闇がダメって人は無理ですけど、そうでないのならば、初めはおっかなびっくりでも、慣れれば視界の一切効かない世界と鋭敏になるそれ以外の感覚に、ワクワクすること請け合いです。私も久しぶりにまた行きたい。

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2014-03-29

男と女のSFでエログロでナンセンスな掌編集 『幻想ギネコクラシー』の話

ギネコクラシー」。それは、「女性上位」「女権社会」を意味する言葉。古来、まだ人の社会がささやかな規模であった頃、それは女性を首長とする穏健な集団であったという。だが、社会が複雑になり、集団同士が相争うようになると、首長の座は男性にとって代わられていった。これは、人々の生活がまだ牧歌的であったことの記録である……(嘘です)

幻想ギネコクラシー 1

幻想ギネコクラシー 1

ということで、沙村広明先生『幻想ギネコクラシー』のレビューです。

とりあえず嘘あらすじから始まりましたが、「ギネコクラシー(gynaecocracy)」 の意味は本当です。

作者曰く

自分の漫画の傾向として女性キャラが男性キャラを下に敷くようなものが多い気がしたので、このシリーズもどうせそうなるだろうと思い連載途中で付けました。

(「あとがき」より)

とのこと。

女性が男性を組み敷いているかどうかはともかく、恋愛を軸にした男女の関係性にSFとエログロとナンセンスをないまぜにして出来上がった短編集が、本作です。

巨大な水槽の中で果物と一緒に浮かぶ、白痴の美少女。

童貞のまま40歳を迎えたことで妖精の国の女王と婚姻する資格を得た男。

男が宇宙船でたどりついた先の異星にただ一人いた、謎の美女

悪魔的な画風の作家の絵に取り囲まれて暮らす、地主の未亡人とその娘。

そんな幻想的でもあり妄想的でもある物語が全12編。しょうもない話だと思いきやほっこりまとめたり、逆にちょっといい話っぽく始まったと思ったら圧倒的なくだらなさの下に終わったり、あるいは徹頭徹尾退廃的な空気のままに話が進んだり、くだらなさをくだらなさで煮しめたくだらなさの塊だったり。バラエティに富んだ作品群となっています。

ページ数は、最初と最後の話を除けば8p(ちなみに、その両話は「幻想ギネコクラシー」クレジットの連載とは別枠のようです)と、短編というより掌編で、突飛な設定を一気にぶち上げて、そのまま投げっぱなして終わるものが多数。オチていないという意味ではなく、余韻も無しにぶった切るようにして物語にエンドマークを付ける感じです。でも、掌編はそういうものの方が好きです。「楽園からのハッピーバースデー」の唐突なオチなんか相当いい。

私が好きなのは「鳳梨娘」。上で挙げた「巨大な水槽の中で〜」のお話ですが、白痴の少女を巡る悲しくもグロテスクな物語と、救いが無いようであるのかよくわからんラスト。最後の最後の一言の投げやりさがなんかもう身も蓋も無い。帯の惹句に「身も蓋も無い話を描かせたら当代随一」とありますが、こういうところなのでしょう。

あと「コップと泥棒、その妻と愛人」のおっぱい揉むシーン、普通にエロくてよいです。

クレイジー(notカオス)な掌編集をお望みの貴兄に。

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2014-03-15

悩める生徒が駆け込む単眼系保健医『ヒトミ先生の保健室』の話

ヒトミ先生は中学校の養護教諭。彼女の保健室には、今日も多くの生徒が訪れます。長く伸びてしまった舌(3m強)、大きくなってしまう/小さくなってしまう身長、簡単に外れてしまう体の各部位、周りの目が気になって透明になってしまう自分の身体。思春期の少年少女が抱える体と心の悩みを、ヒトミ先生はその大きな単眼で優しく見つめ、相談にのってくれるのです……

ヒトミ先生の保健室 1 (リュウコミックス)

ヒトミ先生の保健室 1 (リュウコミックス)

ということで、鮭夫先生の初単行本『ヒトミ先生の保健室』のレビューです。モノアイの養護教諭(いわゆる保健医)のもとに、やれ舌がのびた、やれ身体が透明になったと、思春期の子供なら誰もが抱える、他人とは違う自分の体の悩み、そこから生まれる心の悩みを抱えた生徒らがやってくる。そんなお話です。

「誰もが抱える」の文言で首を傾げた方も多いでしょう。舌伸びねえよ、体透けねえよ、と。けれど本作の中では、そういう身体の変化や他人との差異は、当たり前のものとして存在しています。それをよく表しているのがこのページ。

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(1巻 p91)

本当は見開きですが、サイズと倍率の都合で1ページだけ。ヒトミ先生と父親が出かけたデパートには、翼がある者、尻尾がある者、角がある者、風船のように宙に浮かぶ者、ライオンのような顔を持つ者と、多種多様の人ばかり。しかも、皆楽しそうに歩いている。他人と目に見えて違うところのある自分。それを受け入れている人々が暮らしている世界です。

とはいえ、他人と違う自分にそれでも悩んでしまうのが思春期のサガ。それは、自分は他人と違うと思い込みたい(元々の意味での)中二病と背中合わせの感情ですが、どちらの形で発露するかは人それぞれ、こじらせたらまずいのは病気と同じだし、多くの人が程度の差はあれ発症し、大人になってから罹ると影響が大きくなってしまうのは、おたふく風邪などもそうです。なものだから、それが顔を見せたら早めに誰かに相談するのがよい。病気は罹りはじめが肝心。どうしようもならなくなる前に、ヒトミ先生の保健室へGOだ。

この作品で唸らされるのは、キャラクターの畸形さの描き方です。畸形さ、こう言ってよければ、フリークスさを実に当り前に描いているのです。ヒトミ先生のモノアイからしてそうですが、舌が3m伸びる少女とか、体がバラバラになるゾンビ少女とか、身長3m以上の少女/1mの少女とか、相当フリークス。にもかかわらず、そのかわいらしい絵柄と、それ以上に、誰もがその畸形さを、せいぜいちょっと髪が茶色い程度のものとしか思っていない、徹底された「当たり前」な態度の描き方のおかげで、作品に絶妙なバランスをもたらしています。

これが普通の少年少女のお悩み相談であれば、私もさほど面白いとは思わなかったでしょう。ですが、登場人物らの悩みが、読み手の私にとってみれば非常に重大で(3mの舌にはなりたくない)、にもかかわらずヒトミ先生の態度が普通に普通。そこにぐっと引き込まれるのです。一線越えた向こう側の、「当たり前」がこちらとは違う世界で描かれる、こちらと同じ人間の悩み。素晴らしい匙加減。

しかし、本作の裏表紙では悩みを抱えた女生徒らを「長舌系女子」「不死身系女子」「巨躯系女子」「短躯系女子」「透明系女子」とラベリングしているのですが、主役の単眼系女子ヒトミ先生も含めて、小さい子が迂闊に読めば妙な性癖が目覚めかねないようなラインナップ。『セントールの悩み』『モンスター娘のいる日常』などの系譜に連なる人外系漫画と言えましょう。まったくCOMICリュウは攻めますね。

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2014-03-06

『銀の匙』知識の「闇ナベ」の話(縦横につながる学問の話 その2)

妙なタイミングの発売だなと思ったら、実写映画の公開にあわせてなんですね、『銀の匙』。

銀の匙 Silver Spoon 11 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 11 (少年サンデーコミックス)

進級を間近に控え、八軒たちがいよいよ寮から離れることとなった11巻。引っ越しの荷物整理をする中で、男子の部屋からは、備えておいたはいいもののすっかり存在を忘れていた保存食が続々と見つかります。引っ越し先に持ってくのは面倒くさいし、かといって捨てるのももったいない。結果、彼らが考え付いたのは楽しい処分方法。すなわち闇鍋。

もちや米、コーン、肉などの安牌どころはともかく、豆科牧草、納豆、イカの塩辛、熊の胃、ヨーグルト(男湯に沈めて発酵)、ジンギスカンキャラメルなどの劇薬レベルのものまでぶっこまれたモザイク処理必至のソレに、男(漢)たちは覚悟をもって箸を突っ込むのですが、意外や意外、びっくりするほど美味い。

彼ら曰く「俺たちには闇ナベの才能が無い!」。

とまあ、一年間バカなことをやってきた男子どもを見て、嘆息交じりに女子らが言います。

「あいつら単体ではアホばっかだけど、集まるとたま〜に妙な天才力を発揮するよね。」

「普通アホ同士ってのは「混ぜるな危険」よね。」

「「「「「なに?」」」」」

いや、あんたら闇ナベみたいだなあって。

(11巻 p139)

その言葉を聞いた男子たちは悪口を言われたかと被害妄想に囚われますが、文脈的にはこれは、むしろ褒め言葉。なんかようわからん奴らが集まって、なんか知らんけど妙にいいものができる。それがこの場合の「闇ナベ」。

さて、このシーンを読んで思い出したのが、以前自分で書いたこの記事。

そして、様々な分野を研究していると、ある分野において、一見まったく関係のなさそうな分野の考え方が使えることに気づくことがあります。ある体系の中に異物とも呼べるものが闖入することで、それまで見過ごされてきた糸口が見つかることがあるのです。

『銀の匙』縦横につながる学問の話 - ポンコツ山田.com

ここでは、既存の体系への異物の闖入という話でしたが、そこが体系でなくとも、いや、体系でないからこそ、全く関係のなさそうなもの同士が出会うことで、「闇ナベ」のように、予想もしなかった面白いものを生み出すことがあるのです。

記事自体は二年前ですが、最近読んだ故スティーヴ・ジョブズについての記事でも、これと通ずることが書かれています。

「半年もすると、そこに意味を見いだせなくなりました……ドロップアウトした瞬間興味のない必修科目とはおさらばして、面白そうな授業に潜り込むようになりました」。ジョブズカリグラフィの授業に潜り込んで「その面白さに魅了された」と語る。

「これらがわたしの生活になんら役に立つはずもありませんでした。ところが10年後、最初のマッキントッシュをデザインしているときにそれが戻ってきたのです。もっていた知識をすべてMacのなかに盛り込みました。それは美しいタイポグラフィを内蔵した初めてのコンピューターとなりました。あの授業に潜り込むことがなければ、Macがマルチプルタイプフェイスも非固定ピッチフォントも手にすることはなかったでしょう。そしてウィンドウズがそれをコピーしたことで、それをもたないパソコンは存在しないまでになったのです」

もし大学をドロップアウトして、カリグラフィの授業に潜り込むことがなければ、コンピューターが「美しいフォントをもつことはなかったかもしれない」と、彼は語る。

「これらの点を未来に向けて繋げることはできません。過去を振り返ることでのみ、それらが繋がっていることがわかるのです。ですから、これらの点がやがて未来で繋がることを信じていなくてはなりません。何かを信じなくてはいけません。根性、運命、人生、業、なんでもいいんです。なぜならいずれ点が繋がると信じることが、己に忠実に生きる自信を与えてくれますし、たとえ月並みな道から足を踏み外したとしても、それは大きな意味をもってきます」


ハングリーであれ、愚かであれ – ジョブズが遺した14のレッスン【14】 from 『WIRED』VOL.2

カリグラフィとコンピューターという、一見無関係なものが出会ったケミストリーによって、Macのマルチプルタイプフェイスや非固定ピッチフォントといったものが生まれ、そしてそれは、いまや世界中のパソコンに浸透しているのです。思いもよらないものが出会う知識の「闇ナベ」は、時として世界規模の発明すら生み出します。

また、「これらの点を未来に向けて繋げることはできません。過去を振り返ることでのみ、それらが繋がっていることがわかるのです」というジョブズの言葉は、学校という場で学ぶことそのものに繋がってきます。

学校、特に義務教育である小中学校では、多くの生徒が、今現在自分が学んでいるものが将来どんな役に立つのかわからないまま、勉強に向かっています。しかしそれは当然のことなのです。今現在の自分、すなわちまだ10代前半の人間にとって将来何が役に立つかわかるほど、人生は単純ではありません。

国語の文法が何の役に立つ、社会の歴史が何の役に立つ、理科の化学反応式が何の役に立つ。そんな疑問に答えられるわけはないのです。だって、将来それぞれの生徒がどんな人間になるか、誰もわからないのだから。

だから、あえて答えるならこうなるでしょう。

「なにが役に立つかわからないのだから、やっておけ」

ついでにもう一言言っていいのなら、こう言ってやるでしょう。

「なんだ、お前の人生は15歳の今でどうなるかわかってしまうものでいいのか」

未来の自分に役立つもの。それは現在から未来を見てわかるものではありません。ジョブズの言葉通り、「過去を振り返ることでのみ」(未来における)今の自分に何が役立っているのかわかるのです。

また、八軒の担任・桜木は11巻でこんなことを言っています。

学校ってのはさ八軒、おまえらのためにある畑なんだよ。そりゃ規則があって窮屈な所もあるけど、どこ耕してもいい宝の畑だ。

頭で学ぶも良し。胃袋で学ぶも良し。筋肉で学ぶも良し。機械から学ぶも良し。動物から学ぶも良し。人から学ぶも良し…

そういう人たちとのつながりを作るのに丸々3年費やしても良し。どこを耕すかは自由だ。

(11巻 p98,99)

この言葉は、額面通りに受け取っても十分大事なのですが、これが学校という場についてのものだと考えると、その裏側も非常に重要になってきます。つまり、学校というものが大人数で一定の作業を共同で行う場である以上、何かを意図して学ぶその傍らで、意図しないで学んでいるものもある、ということです。

桜木先生の言うとおり、学校は、各人が「どこを耕すかは自由」になっている場所で、当然自分と違う分野を耕す人間がいるわけです。文系理系のクラス分け、部活、委員会、小中学校の先輩後輩など、クラスや学年を越えた人間関係は見つけようと思えば意外に見つかるもので(実際に八軒は、「断ら(れ)ない男」の異名を背負うこととなった振る舞いのおかげで、科の違う上級生にも多くの知己を得ています)、そういうつながりを通じて、自分だけでは目のいかなかった分野に興味を持ったり、知識を教えてもらったりできるのです。そういえば八軒も、11巻の中で「人のつながりって作っておくもんだなぁ…」(p76)としみじみ言っていますね。

意図しないものを意図しない形で得ることができる場所。それが学校だと思うのです。

無論のこと、得たものが将来役に立たないこともしばしばあります。今から学生時代を振り返って、「あれが何の役に?」と思うことも多々あるでしょう。けどそれもやはり、今現在という時点から過去を振り返ったときに、繋がっていないということであって、今からさらに未来を考えれば、どうなるかわかりません。畑の土作りが何年もかかるように、過去に蒔いた知識の種が芽を出すのも、今ではなくもっと先かもしれないのです。

ま、もちろん死ぬまで芽が出ない可能性も十分にあることも確かなのですが。

なんでもかんでも勉強すればいいってものではないけれど、興味があるもの、面白いと感じたものには精力的に取り組むと、それをやって楽しい今だけでなく、未来にも何か芽が出るかもしれませんね。

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