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2014-11-01

『僕はお姫様になれない』コッテコテベッタベタの塩梅の話

先々月に発売された、若林稔弥先生の『僕はお姫様になれない』。

話のつくりやノリは8発に発売された『徒然チルドレン』と大差ないのですが、正直なところ、私は本作にいささかのることができませんでした。その感覚はいったいなにによるものなのか、それを考えてみたいと思います。

本作は、シンデレラ白雪姫など、童話の登場人物をモチーフにしたキャラクターたちが主役を張り、それらが連作短編的にからみあっていきます。ストーリーの展開の仕方は、前述のとおり、『徒然チルドレン』とほぼ同様。

徒然チルドレン(1) (講談社コミックス)

徒然チルドレン(1) (講談社コミックス)

青春 それはニマニマのラブコメディである 『徒然チルドレン』の話 - ポンコツ山田.com

勘違いや妄想で暴走しすれ違い、ドタバタとラブラブコメコメする作品です(1巻の段階ではコメディの成分が大きいですが)。内容は大差ないこの両者で、なぜ読んだ印象に大きく差が出たのでしょう。

私の仮説は、4コマ漫画と通常の体裁の漫画、という漫画としての構成の違いに由来するのではないかというものです。一般的な漫画のコマ割りで描かれた『僕は〜』と、4コマで描かれた『徒然〜』。そこに、ネタやノリが同系統でも読んだ際の印象を変えるものがあるのではないかと。

では、4コマ漫画とそうではない漫画で、どのような差があるのでしょう。

一般的に4コマ漫画は、コマが画一な大きさで区切られ、規則的に配列されます(2本のネタが縦に4コマで並び、1ページ内にネタが2本、というのが多くの場合でしょうか)。その画一性・規則性にメリットデメリットはいろいろあるでしょうが、『徒然〜』の場合はメリットとして強く働いたように思います。画一的・規則的に配列されたコマは、その無機質性ゆえに、『徒然〜』のコッテコテでベッタベタな部分を緩和してくれたように感じるのです。

コマの大小は、情報の重要度や情報量、目線の移動などに大きく影響を与えるファクターですが、4コマ漫画は前述の特徴のとおり、それらに関与することがありません。ボケをさく裂させるコマもそれを冷ややかに見るコマもあるいは盛大に照れるコマも、コマの大きさという外形的な面からは情報の重要度は等価となり、熱いコマは冷め、冷たいコマは逆にぬるくなることで、コマの温度は平準化されます。そしてそれこそが、コッテコテでベッタベタなネタをくどすぎないレベルにまでまろやかにしてくれたのだと思うのです。

で、それはとりもなおさず、『僕は〜』の方はコッテコテでベッタベタなやつが希釈されず、それどころかコマの大小によりブーストがかかってしまているということで。

思惑のすれ違いや妄想による暴走がネタの肝なのですが、緩急のついたコマ割りでそれが描かれると、妙につらい。他の作品との比較はいざ知らず、『徒然〜』と比べるとひどくつらい。有体に言って、ニマニマではなく苦笑いになってしまいます。「そりゃないわ」と。

また別の観点として、通常の漫画としてストーリー性を高めたというのも、負の側面として表出しているように思えます。これも4コマでなくなったということと無関係ではないと思うのですが、一つの話の中で主要キャラクター以外にモブが多く登場するようになり、また背景も描きこまれるようになったことで、作品世界に広がりが与えられました。そういうストーリーとは一見無関係なものが作品世界やキャラクターに奥行を与えるの確かなのですが、『僕は〜』の場合、世界が広がった分だけ、「なんで他のキャラクターはこのずれっぷりを変に思わないの?」という方向に考えが行ってしまったのです。すれ違いは、当人たちばかりがわかっておらず周囲はそれを生温かく見守る、という構図が面白いと思うのですが(『徒然〜』の「仮面」などはそれが上手く出ています)、『僕は〜』は当人以外の周囲の人間もあまりにも不自然なすれ違いを見過ごしており、そのためにギャグを通り越して嘘っぽくなってしまっています。設定をとやかく言うのも野暮かもしれませんが、女子が男子生徒の格好をするのを百歩譲ってありとしても、中高にわたって他の生徒どころか教師まで皆が皆性別を勘違いしているというのはあまりにも強引。トイレや体育の授業、旅行などはどうしているのか。

すれ違いからのドタバタコメディは一点突破要素が強いネタな分だけ、その一点突破にどれだけ隙を作らないかが大事だと思います。無駄に焦点を広げては、突破するだけの鋭さが失われ、読み手のテンションを下げてしまう。それが『僕は〜』で出てしまったのかな、と。

うん、まあ、ええと、『徒然チルドレン』2巻の発売はいつかな。

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2014-10-01

『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話

今年度のオレコン漫画ランキング暫定一位に輝いている、田島列島先生の『子供はわかってあげない』。

夏の日に少年は男になり、少女は恋をする『子供はわかってあげない』の話 - ポンコツ山田.com

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

本作にはあるテーマが一貫して伏流しており、それが様々な形をとって登場しています。

そのテーマとは何か。

それは「交換」です。

これは一般的な意味ではなく人類学的なそれで、モノだけではなく、行為も対象になります。誰かが誰かに何かをあげたら(したら)、された側もなにかをあげる(する)。そのような動的な運動性が、ここでいう交換です。

具体例を見てみましょう。

第一話で、屋上で絵を描いていたもじくんは、ヤンキーにぼこぼこにされて屋上の鍵も奪われてしまいましたが、“岩高の狂犬”こと千田くんがそのヤンキーどもをブッ飛ばし、鍵も取り返してくれました。千田くんがそんなことをしてくれたのは、もじくんが彼のラブレターを代筆してあげたことがあったからで、のびているヤンキーから鍵を取り上げ、もじくんに鍵を手渡しながら千田くんは「これで借りは返したからな」と言うのです。

なにかしてもらったから、お返しに何かしてあげる。

ずいぶん当たり前のような話ではありますがこれは、大上段な話をしてしまえば、人類に普遍的に存在する営為なのです。心理学では返報性などとも呼ばれますが、何かをされたらお返しをしなければ気が済まないという心の動きは、古今を問わず広く見られます。

卑近な例を言えば、試食コーナーでつまんだら買わないとまずいような気持ちがそれですし、アメリカではある大学教授がちょっとした実験で、多くの見ず知らずの人間にクリスマス・カードを送ったら、その教授が何者なのか受け取った人間は一切知らない(そもそも教授かどうかも知らず、当然実験だということも示していない)にも関わらず、驚くほど大量の返事のカードが来た、という話もあります。北米太平洋西岸ネイティブ・アメリカンの間に存在するポトラッチという儀式は、ホストがゲストを蕩尽的にもてなし、それをされたゲストは今度は自らがホストになり先のホストを、あるいは別のゲストを招いて同様かそれ以上のもてなしをする、というものです。パプア・ニューギニア島嶼部に住む複数の部族にはクラと呼ばれる交易があり、二種類の貝の首飾りを、クラに参加している共同体の中で規則的に交換していきます。

このような「交換」がなぜあるかといえば、様々な意見がありますが、交換をすることで財や関係性に変化が生じ社会が常に動的な状態におかれる、というものが説得力のある仮説だと私は考えます。

生命とは何かという問いについて、福岡伸一氏は「生命とは動的平衡にある流れである」(『生物と無生物のあいだ』p167)と答えていますが、これは生命体たる人間の集まりである社会集団にも適用できるものでしょう。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

社会集団も、変化の起こらない静的な状態ではいつしかその活動を停止させてしまうので、内部に変化を起こしその要素が流動することで、社会が一個の有機体として活動を続けられるのだと思うのです。

戦国妖狐』でも、かたわらによって、外界から保護という名の断絶をなされた村が「循環を失くして澱み」滅んだ、というエピソードがありましたが、まさにこれは社会集団が静的な状態に留め置かれたためにその活動を停止したことに他なりません。

戦国妖狐(3) (BLADE COMICS)

戦国妖狐(3) (BLADE COMICS)

『子供はわかってあげない』に戻りましょう。

サクの実父は、他人の心を読むという彼固有の能力を持っていましたが、その固有性ゆえに誰かに教えることがひどく困難であり、教団内でそれを教えようとしてきたのも、教団の人間たちに「乗せられるだけ乗せられてきた」からという外部的な動機に基づいており、結局長続きするものではありませんでした。そして、そんな彼が教団に戻らないことを決め、代わりに見つけた「やるべきこと」が、以前やっていた指圧への復職だというのは実に示唆的です。なぜかというに、指圧は彼が彼の師から受け継いだ技能であり、職だからです。彼は、誰かから受け継ぐ、すなわち交換のサイクルに入ることを選んだのです。すると図ったように弟子をとらないかという話が出て、サクの父が技術を与えられた側から与える側へ移り、さらに交換のサイクルが生まれました。

指圧師への復職を決意した彼は、教団の中にいた自分を自嘲して、「世界中で自分にしかできないことにこだわり続けてたんです」と照れ笑いをしました。自分にしかできないことはどん詰まり。それ自体が交換の運動性におかれることはありません(もちろんそれから発生した効果で交換は生まれますが)。そのこだわりを捨てたことで、彼は動的な関係性の中に入れたのです。


サクの父の話で技能の継承が登場しましたが、受け継ぐということも交換の一類型です。ですから、18話での恋する心ことジョニーの言葉も、交換についてのものとなります。

ジョニーは人類が自分に対してとりうる対抗措置について「フロンティアで見たものを言い伝えや文献にすることだけだ」と述べました。そして対抗措置の中で最良のものは「「好き」という言葉だ」とも。

「「好き」という言葉」は「ただのカード」で、そこにジョニーはとてもじゃないが入りきらないけれど、それを見せればジョニーがすべて伝わることにすると先人達が編み出した方法、というか約束だというのです。困難なことについて、先人達が編み出したものを連綿と受け継ぐ=交換することで対処しようとする、人類の知恵の話です。


また、作中で何度も登場する「人が自信をもって意見を言う時って その意見が「誰かから聞いたもの」である時」や「人は教わったことなら教えられる」などの話も、交換の一類型と言えます。これらは、自分の中だけで考えた、よくまとまっていない考えは誰かに言う気になかなかなれないけれど、誰かから与えられた綺麗にパッケージングされたものならば、自分が効いて納得したものは、また別の誰かに与えたい。そのような動機でもって、情報は、あるいは教えるという行為は交換されていくのでしょう。


このように、交換は往々にして、二者間のみで行われるのではなく、誰かからされたこと(もらったもの)をまた別の誰かにする(あげる)という形で、広範に展開していきます(先に挙げたポトラッチやクラはその好例です)。それを明確に言葉にしているのが、最終話でのもじくんの兄・明大です。

「お金… 本当にいいんですか?」

「いーのよ 負けてあげるって言ったじゃない」

「でも… タダってわけには…」

「…

…じゃ そしたらね

美波ちゃんが大人になった時 私と同じように自分より若い人にそのお金の分何かしてあげて

そういう借りの返し方もあるの 覚えておいてね」

(下巻 p174)

今受けた借りを、自分ではなく別の誰かに返す。まさに交換の循環です。明大はサクに、交換の環を広げよと告げたのです。

また、その数ページ先には、明大と彼(女)の下宿先の家主・善さんとの会話も交換を世界に広げたいということを表したものでした。

「善さん 私 美波ちゃんに渡したよ 善さんに渡す分の家賃」

なので今後家賃家賃と騒がないでほしい」

「これからも家賃は発生します」

無間地獄!?」

「そうだよーん

俺らは子供を残せるわけじゃないから 明ちゃんとのつながりが世界のどっかとつながってたいんだ」

(下巻 p179)

家賃、すなわちお金は、交換を促進するために人類が発明した最大のものです。金貨・銀貨等、お金の素材そのものに価値がある場合はまた別ですが、そうではないお金、たとえば現在の貨幣や紙幣(=不換貨幣・紙幣)は、交換されることでその価値が担保されるものです。1000円札は、「これは1000円分の価値があります」という約束事に同意している人の間で交換されていることで初めて1000円の価値を持ちます。

これは、私が適当な紙に1000円と書いたものを1000円札として使おうとしても誰も相手にしてくれないことを考えればよくわかります。私が勝手にある紙切れを1000円札と言い張っても、他の人がその約束に同意しなければなんの効力もありません。日本国内で流通している1000円札は、皆が1000円分の価値があると思っているから1000円札たり得るのです。

1000円札を外国に持って行って使おうとしてもそれが出来ないのは、海外の一般的なマーケットでは、1000円札は1000円分の価値を持つという約束が同意されていないからです。1000円の価値を持つお金を手に入れるためには、その国で1000円分の価値を持つという約束が成り立っているお金に両替しなければなりません。

こうしてお金はその存在意義からして宿命的に交換されることを義務付けられており、それゆえにお金を使う人は交換の環に入らざるを得ません。明大からお金を受け取る善さんは、必然的にそれを使う(銀行に預けたり投資するのも同様)ことになり、社会の交換の環に加わります。どこかからお金を稼いできた明大はそれを善さんに家賃として渡し、善さんはそのお金を何かに使う。こうして二人の関係性は社会に向けて開かれたものとなるのです。

余談ながら、善さんが17話のラストで読んでいた『うすら悲しき熱帯』は、フランスの文化人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの著作である『悲しき熱帯』のパロディです。

レヴィ=ストロースは、人間が自集団の女性を他集団に送り出し、別の他集団から女性を受け入れる、すなわち女性を交換することで社会は発展していくのであり、インセストタブー近親相姦の禁止)はそれに基づいている、と述べました。それを考えれば、女性ならぬ明大を受け入れた善さんが、社会集団につながる交換を強く希求明大から家賃を求めたのは、決して偶然ではないでしょう。


世界に必要なのは「自分にしかない力」じゃない

「誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと」だけだ

(下巻 p104)

これはサクの実父の言葉です。彼の言葉の意味がが満ち溢れているかのような本作は、交換ゆえに個と社会がつながり、個人の小さな事件が他の事象へ次々と波及していく中で個々人の内面が描き出される物語の奥深さがあるのかなと思います。

マジ名作。

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2014-09-25

夏の日に少年は男になり、少女は恋をする『子供はわかってあげない』の話

夏の大会に向けて練習に励む水泳部のサクこと朔田美波。休憩時間にふと見た校舎の屋上にあった人影が気になって、練習後にそこへ走れば、いたのは去年同じクラスだった書道部のもじこと門司昭平だった。二人ともアニメが好きということが知れ、仲良くなる二人。ある日サクがもじの家まで行くと、とある新興宗教のお札をたまたま見つけた。そのお札は5歳の頃に別れたサクの実の父親に繋がるものかもしれなくて・・・・・・。そこから始まる、小さくも大きな一夏の冒険。

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

ということで、田島列島先生『子供はわかってあげない』のレビューです。

一学期の終業式間際から夏休みが終わるまでの、夏の数十日間。学生たちが心弾ませずにはいられない夢のようなひととき。もう過去のものになってしまったあのわくわくを思い出させてくれる、というかこんな高校生活送れたらクッソ楽しいだろうなと思わずにはいられない、すばらしい作品でした。

なにより特筆すべきは、作品全編を通じて漂うふわふわわくわくする空気。第一話はサクがプールに浮かんでいるシーンから始まるのですが、本作を読みながら感じる空気はそれによく似ていて、何も遮るものなく見通せる青い空の解放感だとか、身体と水との境界が融けてなくなっていく浮遊感だとか、疲れた身体が何物にも束縛されずに放り出される快い倦怠感だとか、夏のプールの心地よさを全て詰め込んだようなこの空気。書き込みの薄いポップな絵柄によるものなのか、細かく挿入される地口やパロディなどの小ネタによるものなのか、軽妙な台詞回しによるものなのか、深刻なことでも深刻にならずに描き出す語り口によるものなのか。おそらくそれらが絶妙に絡み合って、この他では得難い空気が生まれているのだと思うのです。伊坂幸太郎先生の『重力ピエロ』で、「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」という一節がありますが、それを地で行くかのような陽気さです。

第一話はweb上で試し読みできるのですが、それは本当に軽い導入部。サクともじの紹介をして、ちょっとドタバタしたお話だけといえばだけなのです。でも、二話になると話は動きだします。五歳のときに別れたサクの父親と、門司家のとある事情が交錯して、にわかにストーリーに深刻さが加わるのです。けれどこの作品で素晴らしいのは、上で書いたように、話に深刻さが加わろうとも空気はちっとも重くならないところ。実の父との久しぶりの対面や、それを家族に知られたら今の幸福な過程が壊れてしまうんじゃないかという心配、いなくなった父が抱えていた悩み、もじの兄の悩みなどなど、いじろうと思えばいくらでも重くできそうな物語の要所を重くせず、さりとて軽薄にはならず、風通しのいい展開になっているのです。

高校生の時のあの夏と同じように、もう手の届かないものとして描かれているのが、主人公サクの素直さです。もじ曰くの「ひんまがっていない」女の子であるサクのストレートな感情表現は、怒るも悲しむも喜ぶも困るも彼女の感じたまま。こういう風に生きられたら人生楽しいだろうし、周りの人も楽しいだろうなと思えます。もちろんそれは、彼女の感じ方が周囲の人間を蔑ろにするようなものではないからで、周囲の人間も実際に彼女に惹かれているからそう思えるのですが、ひんまがった自分がとうの昔に無くしてしまったそれ、少なくとも高校生の時分には確実になかったそれが活き活きと描かれているのは、ノスタルジーというかなんというか。


ネタバレがさほど問題になる作品ではありませんが、それでもなるべくクリティカルな部分は言わないようにするとどうしても奥歯に物が挟まってるような書き方になってしまい、この作品の魅力を十全に伝えられた気がしないのが残念無念。とりあえず、試し読みの第一話はぜひ読んでもらいたいし、それがお気に入れば即本屋に走るかポチってほしい。第一話の空気が好きなら、以降の意外な方へ進むストーリー展開の中でも失われないそれに感動できると思います。

子供はわかってあげない/田島列島 モアイ

3巻以内でお薦めの作品と問われたら、『レベルE』、『ぼくらのよあけ』、『G戦場ヘヴンズドア』に並んで挙げます。すごい好き。

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2014-09-19

星と隕石と引力と 『きみはスター』の話

ヤマシタトモコ先生の『運命の女の子』に収録されている『きみはスター』。タイトルにも用いられているスター=星をキーワードに,本作を読み込んでみたいと思います。

運命の女の子 (アフタヌーンKC)

運命の女の子 (アフタヌーンKC)

レビューは既に書いておりますので、未読の方はまずそちらで興味を持っていただけたらと思います。

彼女らはそれに乗るのか、抗うのか 『運命の女の子』の話 - ポンコツ山田.com

この作品のキーワードとなる「スター」。カタカナで「スター」と言えば、たいていの場合は人気者の意味を表しますが、作中ではそもそもの意味の天体としての星も、たとえ話の中で登場します。

……甲斐谷くんらしくないね

落ちたスターって感じ

元々 わたしなんかきみの足元にも及ばないのに わたしなんかにかまって変な真似してさ

星は

地に落ちた瞬間に自分が星だったことに気づく

(p104,105)

物語の主人公の一人、井上公子の言葉です。彼女にとって、これを言った相手である甲斐谷開は人気者の「スター」だったのですが、果たして、二つの意味で「スター」とはどういうものなのでしょうか。


この物語の体裁は、高校時代に同じ英語劇部だった甲斐谷開・小高ゆかり・井上公子の三人の当時の人間関係を、大人になって偶然再会した開とゆかりが回想する、というものになっています。三人は高校時代の成績トップ3で、卒業生代表となる成績優秀者に選ばれるほどでした。しかし、開とゆかりにあって、公子にはなかったものがありました。それは、他の生徒からの評判です。端的に言って容姿に優れていた二人と、そうではない公子。社交性が高いゆかりに、とっつきやすさはないけれどそれがむしろ孤高と見えた開と、他人への関心が薄く人当たりもきつくなってしまう公子。これだけを見れば、スターとは開とゆかりであり、公子は能力は高くともそう呼ぶことが出来ないように思えます。しかし、時間軸を過去の高校時代から大人になった現在に戻せば、スターと呼ばれるような立場になっているのは、女優として活躍している公子だけでした。

スター。

星は手が届かないから綺麗なのだ、なんて言葉もありますが、それと同様に、人気者の意のスターも、簡単に手が届かないからこそ価値があるのかもしれません。というか、ただの人気者とスターを分ける線は、まさにそこなのでしょう。他の人と同じ地平に立つ人気者と、皆の手の届かないところで輝いているスター。その意味で、高校時代の孤高な開はスターで、社交性の高いゆかりはあくまで人気者だったのでしょう。周囲からの評価が高いという点では同じでも、どこにいると思われているかで違いがあったのです。

さて、万物には万有引力(重力)があり、夜空に輝く星がそこにある(ように見える)のも、星(系)同士の引力と遠心力が釣り合っているからですが、その伝手で考えるとスターとその周りの人間の関係性は、性格や能力などなんらかの理由で他人から距離を置いている人間と、その人に近づいてみたいけどそれができない周囲の人間の間でバランスがとれていることだと言えそうです。

スターの輝きは、実際の恒星において、本当は一等星より輝きの強い恒星地球からの距離のために六等星とされたりするように、スターの持つ魅力と、スターとファンの距離によって変わりえます。魅力が実はそれほど大きくないスターもファンからの距離が近ければ(でも同じ地平ではない)輝きが大きく見えたりするし、その逆もあるのです。これは見方を変えれば、魅力が大きければファンからの距離があっても、すなわちより広範囲のファンに対しても輝きを発せられると言えます。

もしスター側の離れる力が強くなれば光も見えないほどに遠くへ行ってしまうし、それが弱くなれば、あるいは周囲の人が積極的に寄っていっていれば、両者は近づいていき、同じ地平に立つことになります。高校時代の公子が前者であり、公子に惹かれた開が後者、すなわち「落ちたスター」なのだと思うのです。

多くの生徒にとってスターだった開は、彼らから距離があったのですが、公子に惹かれた開は、まさに惹(引)かれたわけで、それは星同士の釣り合いのとれた関係性を崩したことにほかなりません。隕石とは、ある星の重力に負けてその星へ落ちてしまった物体ですが、開は公子の重力に引きつけられすぎ、隕石となってしまったのです。


さて、今までずっと開視点で考えてきましたが、ここで公子サイドへ目を向けてみましょう。

彼女は自身を、能力に対して客観的に高い評価を与えられているにも関わらず、「まわりを見ると」「いつもみじめ」になってしまい、開の「足元にも及ばない」と考えています。だから、他の人は無論のこと、開にも関心を向けようとはしませんでした。告白された後でさえ、彼女の開への態度に(少なくとも傍目からは)変化はなかったのです。

ですが、内心はそうではありませんでした。彼女は卒業式の翌々日にデートをした開に対して、「きみはね わたしがきみを好きになったら失望するよ」と言いました。開はそれを否定しますが、公子は重ねて強調するのです。「きみはする ――きみはじぶんを好きにならない人が好きなんだ」

その言葉は、一見開への拒絶のようにもみえますが、彼女の本心は次の台詞にありました。「でも きみを ・・・好きにならないやつなんていない 誰も ・・・・・・ごめん カイ」

ひどく遠回しな公子の告白。この時初めて彼女は、開のことを下の名前で呼びました。彼女らのいた英語劇部では、親密さを増進させるために下の名前で呼び合うことを奨励していましたが、公子は男女問わず頑なに名字で呼び続けていました。そんな彼女が初めて呼んだ開の名前。彼女が初めて開に見せた親密さ、そして好意。ですがそこには、同時に謝罪の言葉もありました。

なぜ公子は、告白と同時に謝罪をしたのでしょう。

それはきっと、自分の告白が開を失望させてしまったと公子は考えたから。

彼女の考えが正しいとすれば、自分が開のことを知らなかったから、興味を持たなかったから彼は公子に興味を持っていたことになります。しかし、彼女が開に好意を持ったことで、その前提が崩れてしまった。開が公子を好きになる理由がなくなってしまった。

彼女が彼を好きにならないから彼は彼女を好きだったのに、ようやく彼女が彼を好きになると彼はもう彼女を好きではなくなってしまう。彼の好意はそれが実った瞬間に意味のないものとなってしまう。

公子は開を好きになってしまった。でも、それは開の好意無為にしてしまうことを意味していた。自分が好意を持つことで開の好意を駄目にしてしまう。でも、彼を好きに待った自分の気持ちを言わないわけにはいかなかった。だから公子は謝ったのだと思うのです。

開は「落ちたスター」であると公子は以前言いました。それは、私の解釈では公子の重力に引きつけられすぎたということなのですが、相対的に見ればそれは、公子が開の側に引きつけられたとも言えるものです。少なくとも、現にそうなりました。公子もまた開の重力に引きつけられ、距離を近づけすぎてしまったのです。

開は公子に向かって落ちた隕石となり、公子もまたそうなりました。果たして、開は公子に告白された後も彼女を好きでいたのでしょうか。それはわかりません。作中でそれは明言されていないのです。私の考え、というより印象では、公子の言葉通り、開の中から公子への恋心は失われてしまったのではないかと思います。敬意は残っても、もうそれは恋ではない。ラスト3ページの開による地の文の独白は、公子が今まさにスターではなくなってしまっていく過程を目の当たりにしている開の悲痛な叫びだったのではないかと、私は思うのです。


開と公子の以上のような関係に、さらに複雑さを添えるのが、もう一人の登場人物・小高ゆかりです。

作中において彼女は、開や公子のような孤高(あるいは高潔)な存在ではありませんでした。言ってしまえば凡才。スターならざる者。周囲の人間から好かれはしても、憧れられ、手が届かない存在だとは思われていなかった(少なくともそのような描写はなかった)。けれど、例外が一人だけ。それが公子だったのです。

公子はゆかりに向かって言いました。

「こ 小高さんみたいな人になりたいと思っ… ……だけで……」(p112)

容姿に自信がなく、人当たりも悪かった公子にとって、その真逆であるようなゆかりは憧れの対象であったのでしょう。公子にとってゆかりは、スターでした。

しかしここで、たちが悪いことにと言うべきか、ゆかりは公子が開に好かれていることを知っており、公子の才能を知っており、そして自分が公子に好かれていることに自覚的であったのです。

周囲からのスターである開にスターと思われている公子にスターだと思われている自分。

その事実は、自身を「つまんない人間」と評するゆかりにとってひどく魅力的だったはずです。以前の記事(『君はスター』『ひばりの朝』ヤマシタトモコの描く二つの優越感の話)でも触れましたが、自分より上にいる(であろう)人間が自分のことを見上げてくれる(星という比喩から考えれば、ある星からある星を見上げるというのは、相対的なものではあるのですが)という状況は、彼女に優越感を与えてくれるのです。

大人になり「いろいろあって」公子と二人で暮らしているゆかりは、開にこう言います。

わたしはね 平凡で つまらなくて で 

…公子ちゃんといっしょにいることはわたしを特別にしてくれるの 

カイくんみたいな才能のある人に好かれてた… 今は本人も才能にあふれてる そんな人のそばにいられるんだもの

……カイくんにはわからないわね

(p113,114)

高い能力を持ちながら、否、そのなまじ高い能力のために開と公子というスターにはかなわないことを思い知っていたゆかりは、二人に強い劣等感を抱いていました。上記のセリフはもちろんのこと、カイとの会話の中で、自身を卑下するようなことを言った開のセリフを食うようにして、「カイくんは存在自体がドラマチックだったもの 違う?」(p101)と言い放ったのも、その証左と思われます。

公子と一緒に暮らしているゆかりの内心に、公子への愛情があるのかどうか、それはわかりません。上の開の恋心の場合と違い、私の中ではどちらとも解釈しうると思っています。


「星は 宇宙を巡っているときには きっと自分が星だと気づかない」(p96,97)

最後にこの言葉を考えてみましょう。

星が宇宙を巡っているというのは、人間関係において適切な距離がとられていることを意味していると私は考えます。人間同士が他者の魅力に対して引きつけられすぎず、興味を失いすぎず、バランスを保った関係性を維持できている状態。そのバランスが保たれている限り、人は自身の感情に特別な思いを馳せる必要がありません。他者に対して、その距離はどうあれごく自然に振る舞えます。ですが、宇宙を巡れなくなったとき、すなわち、引力運動エネルギーのバランスが崩れ、相手に引きつけられて隕石になってしまうと、今までの自然さを忘れてしまう。今までの自然さが実は絶妙なバランスの上で成り立っていたものだと気づいてしまう。適切な距離を失って初めて、自分が星だった=適切な距離を保てていたと気づくのだと思うのです。

隕石がそうであるように、星はバランスを崩して即消滅するわけではありません。他の星に引きつけられて、地面に激突するかあるいは大気圏で燃え尽きるかするまで、タイムラグがあります。他の星へ近づいている最中は、まだ自分がバランスを崩していることに自覚的ではありません。燃え尽きる、地面に激突する寸前に、自分が今落ちていることに気がつくのでしょう。それが、公子に告白される開であり、開に告白する公子なのだと思います。


『きみはスター』、半年後くらいに読み返すと、また別の何かが汲み取れそうな気がします。そして、そういう作品を名作と私は呼びたいです。

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2014-09-12

『きみはスター』『ひばりの朝』ヤマシタトモコの描く二つの優越感の話

先日レビューをしましたヤマシタトモコ先生の『運命の女の子』。

彼女らはそれに乗るのか、抗うのか 『運命の女の子』の話 - ポンコツ山田.com

そこに収録されている『きみはスター』の中で、ちょっと気になったコマがありました。

f:id:yamada10-07:20140910175008j:image

(運命の女の子 p113)

これの何に引っかかったかと言えば、表情。別の作品で似たような表情を見た覚えがあったからです。

それがこちら。

f:id:yamada10-07:20140910174831j:image

ひばりの朝 1巻 p117)

潤んだ瞳。下がった眉尻。紅潮した頬。僅かに開いた口。少しく上向いた頤。

どうでしょう、私はこの両者によく似たものを感じました。

『きみはスター』の小高ゆかりと、『ひばりの朝』の美知花。二人が見せたこの表情、一言で表せば、優越感、でしょうか。

それぞれのコマの文脈を説明しましょう。

前者の小高ゆかりは、高校の学年で三本の指に入る成績上位者。容姿も端麗で社交性も高く、周囲からの信頼も厚い生徒です。そんな彼女がこの表情を向けているのは、クラスメートであり同じ演劇部でもある井上公子。成績はゆかり以上にいい彼女ですが容姿は十人並みで、性格も少々とっつきにくい。けれど公子は、部内一のイケメンにして、学力も二人と肩を並べる生徒・甲斐谷開から惚れられているのです。そのことに戸惑い、現に開から告白されてもうまくその事実を飲み込めない公子。そこへゆかりが公子の心を揺さぶるような話をしたら、どぎまぎしながら公子は、ゆかりへの憧憬を口にしました。引用した画像は、その言葉を聞いた時のゆかりの顔です。

後者の美知花。中学生の彼女もまた、社交性が高く容姿も優れているクラスの人気者。思っていることを表に出さない性格と、中学生にしては肉感的な身体のせいで孤立しがちな主人公のひばりに、唯一積極的に話しかけている生徒です。しかし彼女の内面には、他者に対して上位の立場にいたいという欲望があります。誰かから褒められる。誰かから頼られる。誰かから好かれる。そういう立場にいることで、相手から信頼を得て、相手の秘密を共有し,仲を深めるというサイクルを繰り返します。彼女は、ひばりにもそのサイクルを生み出そうと会話を続けていたのですが、いまいち面白い話が出てこず退屈を感じていました。しかし、そこで思いもよらず飛び出てきたのが、ひばりが父親から性的虐待(らしきもの)を受けているという告白。それを聞いて美知花は、この表情を浮かべたのでした。


さて、私は二人の表情から感じるものとして優越感という言葉を使いました。

優越感。自分が相手より上にいるという気持ち。しかしここには、二通りのニュアンスがあると思います。

一つは、自分を上げることで自分が上だと思う優越感。それがゆかり。

もう一つは、相手を下げることで自分が上だと思う優越感。それが美知花。

感情の方向は逆ですが、敬語表現の尊敬語謙譲語みたいな感じでしょうか。対象を上げることで敬意を表す尊敬語と、自身(動作主)を下げることで対象への敬意を表す謙譲語ということです。

優越感に話は戻りますが、相対的に自分が相手より上にあるという点ではどちらも同じですが、その位置関係に収まるまでに過程が異なるのです。

ゆかりの状況についてもっと詳しく説明しましょう。前述したように、彼女は部内はおろか校内の人気者ですが、彼女が自身を評価することには、「まわり気にして自分の意見言えないし …そもそも別に自分の意見なんてない」、「特別好きなものも嫌いなものもな」い「つまんない人間」で「ほんとは嫌な奴」。これはあくまで、高校時代の彼女が他の人間もいる前で公子に向けて発した言葉なので、そっくり額面通りに受け取っていいものではないでしょうが、まったくの出まかせというわけでもないと思います。なぜなら、人気者の彼女も内心では、公子や開に憧れを抱いていたから。あるいは、妬みを。

彼女は公子に言います。

カイくんが公子ちゃんのこと好きだって聞いて「なんで公子ちゃんなんだろう」って思った

カイくんはいったい公子ちゃんのどこがそんなにいいんだろうってずっと考えてた 

…ずっと考えて

……考えてたらわかったの

(運命の女の子 p108,109)

このシーンは部室内でのものですが、彼女は他の部員、なかんずく開がこの会話を聴いていることを重々承知して、というよりも聴いていることを確認したうえで、上の言葉を発しました。

この時ゆかりは、隣で作業をしていた公子の指に自分の手を触れさせるなどして、明らかに「考えてたらわかった」ことに恋愛感情のニュアンスを込めています。少なくとも、自分以外の人間がそう受け取れるような素振りをしています。

開とゆかり。二人とも公子に対して好意の言葉を送りました。けれどその反応は対照的で、明確に拒絶を示された開と、戸惑いながらも肯定的な反応を返されたゆかり。

この対照にもっとも傷ついたのは、当然のことながら、開でした。自分の好意は無碍にされ、ゆかりの好意は受け容れられる。年頃の男の子がそれを笑って許せるわけがありません。激昂した開は言い放ちます。

きみはゆかりの言うことなら本気にとるのかよ

ぼくが何をしても無関心なくせに

フェアじゃないだろ ぼくは本気で言ってるのに き みも断るなら…

…断るならはじめから …正直に言うべきだ 「小高ゆかりが好きだから」って

(同書 p110,111)

開の言葉に虚を、そして隠していた気持ちを衝かれた公子は、口ごもりながら、照れながら言います。

ち ちがう わたしは

こ 小高さんみたいな人に なりたいと思っ…

……だけで……

…………

(同書 p112)

さあ、ここで最初に引用したゆかりの表情が出るのです。

彼女が真に公子を好きなのか。それについては、明確にはわかりません。ただ、私はどちらかといえば否であると考えます。彼女が本当に気にしていたのは、開。ただしそれもやはり恋愛感情ではなく、尊敬、憧憬、空に浮かぶスターを見上げる気持ち。そんな開が好きだった公子に自分は好かれている。「つまんない人間」である自分が、「才能のある人」であるところの開に好かれている公子に好かれている。恋愛感情で人間に上下が生まれるわけではありませんが、この時のゆかりにはきっと、自分が公子の、そして開の上に立てたという気持ちがあったと思うのです。

大人になった時間軸で、ゆかりは言います。

カイくんみたいな才能ある人に好かれてた… 今は本人も才能にあふれてるそんな人のそばにいられるんだもの

……カイくんにはわからないわね

(同書 p114)

この言葉からは、高校時代のゆかりが当時の公子に対して才能を感じていなかったことがうかがえます。ここから私は、高校時代のゆかりの公子への告白は、彼女への恋愛感情ではなく、それを経由して開を上回る優越感が強いと考えるのです(公子と同棲している現在の内心までは、はっきりとしませんが)。

これが、「自分を上げることで自分が上だと思う優越感」です。


さて、美知花の方を考えてみましょう。

こちらの方が話はわかりやすいです。他人の不幸を「ミツのアジ」として密かに楽しむ美知花は、前述したように友人らの信頼を勝ちえて悩み打ち明けてもらい、お互いの親密感を深める一方で、教えてもらったそれを舌の上で舐るようにして暗い甘美さを味わっています。

美知花が舐めている「ミツのアジ」は、相手が美知花だからと信頼を置いたうえで話してくれるものです。そしてこの信頼は相互的なものではなく、相手からの一方的なもの。いくら美知花が相手の望むことを言い、それによって相手が美知花のことを信頼しても、美知花自身にとっとそれは、相手からミツを吸い上げるための方便に過ぎません。口先でしかない美知花の言葉にころっと騙される級友らは、「ちょろい」の一言で済まされるような人間なのです。

友人が美知花に悩みを打ち明けるのは美知花を信頼した証拠。けれど美知花は相手をミツとしか思っていない。所詮、ミツ。所詮、私の娯楽。美知花の内心にある上下関係が、ありありとわかります。

気ままな蝶のように、花を渡り歩いてミツを求めていた美知花。たまたまとまったひばりという花は、一見たいしたミツがなさそうであったものの、探ってみたら「セーテキギャクタイ」という特大のミツが隠されていたのです。これに美知花が喜ばないわけがありません。人の悩みを聞いているのだから、本来出してはいけない顔。にも関わらず、あまりの甘さについ出てしまったもの。それが美知花のあの表情でした。

自分は一切そんなことは思っていないのに、一方的に信頼を向けてきた相手に向けた、昏い喜びの表情。それが美知花の見せた優越感であり、「相手を下げることで自分が上だと思う優越感」なのです。


というような具合で、『きみはスター』と『ひばりの朝』から考えた、二つの優越感でした。

しかしこの二作品を読み返して思いましたが、ヤマシタ先生は複数のキャラクターの心情が交錯している様子を描くのが、絶妙に巧いですね。一回読んでぱっとわかるのではなく、何度も読んでいく内に解けるようにして見えてきたり、その中で依然感じたのとは別の見方が浮かんできたり。

そりゃあ何度も読み返してしまうわ。

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