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2017-02-12

『亜人ちゃんは語りたい』誰かに頭を預けるデュラハンの信頼感の話

今現在唯一、どころか、ここ数年レベルで唯一視聴継続しているアニメ亜人ちゃんは語りたい』。

6話Bパートでは、放課後に雨が降ってきたために、高橋先生のいる生物準備室で親の迎えを待つデュラハン町子の姿が描かれました。両親が諸事情で迎えに来られなくなったため、代わりにひかりの父が来てくれたところ、一緒に帰ろうとするも、鞄を教室に置きっぱなしだったので、それを取りに行こうと京子は自分の頭を抱えようとしましたが、ひかりの父がその役をかって出て、「揺らさないよう頭を抱えるのも練習だから」と、京子の頭を抱えて教室に向かったのです。

で、このシーンを見てふと意識されたのは、このような行為、すなわち自分以外の人間に頭を持たれるというのは、生半可な信頼感ではできないことだよな、ということです。

だって、第三者に自分の頭を抱えられたまま、自分の身体から離れた所へ移動されたら、もしそこでなにか起こった時、頭だけでは対処のしようがないんですから。抱えた人間に悪意があった場合はもちろんのこと、もし偶発的な事故が起こった場合でも、自分自身ではそれに一切対応できないまま、その状況に巻き込まれるしかないなんてのは、想像するだけで絶望と無力感でいっぱいになってしまいます。

油性ペンで額に「肉」と書かれようとも、散々嫌がっていた歯医者へ連れていかれようとも、正面から10tトラックが突っ込んでこようとも、頭だけではどうしようもできない。せいぜい助けを呼ぶことくらいですか。ただ、それすらも猿轡なりなんなりで簡単に封じられてしまうし(手がないから抗いようがない)、突っ込んでくるトラックにはあまりにも無力です。

自分以外の誰かに頭を持ってもらう。その信頼は、たとえるなら、全盲の人が足元の点字ブロックの先に落とし穴なんてないと信じるようなものでしょうか。視覚さえあれば見て避けることのできる落とし穴も、全盲だとそれができない。もしそれがなされていた場合、自分ではどうすることもできない悪意に対して、「そんなことはしない」と作った誰かに全幅の信頼をおくことで初めて、視力のないままに点字ブロックの上を歩けるのだと思うのです。

私は以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントに参加したことがあります。それは、大きなホールなどにしつらえられた完全な真っ暗闇の空間で、人工的に作られた草原や森を歩いたり、丸木橋の上を渡ったり、田舎の縁側で寛いだり、バーでなにか飲んだりと、五感の一つを完全に閉じた状態で種々の体験をするイベントです。その空間に入った当初は、今までに味わったことのない完全な暗闇、顔を撫でられてもわからないとはこのことかというほどの真っ暗闇に尻込みし、へっぴり腰でおっかなびっくり歩いていたのですが、次第に何も見えないことにも慣れ、そこには危険なギミックなどないと理解して、ようやく状況を楽しめるようになりました。また、参加者グループを先導してくれたアテンドと呼ばれるスタッフ、この人は全盲なのですが、そのアテンドが的確に参加者たちの状況を把握し、助言などを言ってくれたため、落ち着くことができたというのもあるでしょう。

ダイアログ・イン・ザ・ダークの話を詳しくすると非常に長くなってしまうのでこのくらいにしておきますが、その体験で、暗闇の中を歩くことには、視覚以外の空間把握や白杖の取り扱いなどの単純な能力だけでなく、自分の周りの世界への信頼という、精神的な強さも必要なのだとわかったのです。

京子の場合、頭を抱える誰かという具体的な人間を信頼することになるわけですが、なんであれ、その信頼感というのはとてつもなく強いものです。それこそ、自分の生き死にを任せてしまうほどに。

正直なことを言えば、原作にしろアニメにしろ、自分以外の誰かが自分の頭をもって自分の身体から離れる、という状況のリスキーさをそこまで深く捉えているとは思えないですし(そのリスキーさ、あるいは上述の強固な信頼感に関する描写が見られない)、私自身も原作を読んでいたときには考えつかなかったのですが、アニメでは非常に丁寧にデュラハンの動作を描いているため、ふと思いついたのでした。

そういうことも気づかせてくれる、まったくいい意味での違和感アニメだぜ。

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2017-01-22

『ど根性ガエルの娘』作品の外に実在する登場人物とそこから生まれる奇妙な面白さの話

1月20日の夜、にわかに私のtwitterのTLが騒がしくなりました。多くの人がある作品について語り、また感想のリツイートをしだしたのです。

その作品とは『ど根性ガエルの娘』。同日に第15話がアップされると、その内容に衝撃を受けた人が非常に多かったようです。

ヤングアニマルDensi ど根性ガエルの娘/大月悠祐子

同作は、70年代に一世を風靡した漫画『ど根性ガエル』の作者、吉沢やすみ先生を父に持つ、漫画家大月悠祐子先生によるエッセイ漫画です。

「お父さんは大ヒット漫画家で、でも漫画で苦しんで荒れて、家族は…」という作品解説のページにあるように、若くして大ヒット漫画家になった吉沢先生ですが、『ど根性ガエル』連載終了後はヒットに恵まれず生活が低迷、周囲からのプレッシャーなどから筆を握ることすら困難になり、82年の秋には家族がいるにもかかわらず数か月間失踪してしまいました。もともと人格者と呼べるような人間ではなかった同氏、帰ってきた後も生活は楽ではなく、家族関係もボロボロ。それでも、家族は少しずつ再生していって……という過程を、娘である大月先生の視点を通して描いているものです。

初めに白状しておくと、私は連載媒体であるヤングアニマルDensiを見ていたので、同作の存在自体は知っていたものの読んだことはなく、『ど根性ガエル』の作者の娘の家族エッセイ漫画だという概要すら知りませんでした。TL上でのフィーバーを見て、既刊分はほとんど掲載終了となっていたものの1話から読めるだけ読み、最新話の15話を読んで、そしてまた1話を読みなおして、「こりゃあ騒ぎにもなるわ…」とため息をつきました。とびとびに読んだ私ですらそうなのですから、ずっと追っていた人にとってはさぞ衝撃的だったことでしょう。

さて、物語の内容についてここで具体的に述べることはしませんが、私が今回の件で興味深く感じたのは、本作がエッセイ漫画であるという点です。つまり、本作の登場人物は基本的に作者自身を含む実在の人物であり、描かれている出来事も、作り手の主観的なものであれ、実際にあった(と少なくとも作者は思っている)ものだということなのです。少なくとも読み手は、そう前提して読みます。それがどういう効果を生んでいるかといえば、読み手がエッセイ漫画を読んでその物語に衝撃を受けたとき、物語それ自体から受ける衝撃に加えて、そのモデルとなった実在の人物が、物語と同じ(少なくともそれに近い)目に遭っているということにも衝撃を受けていると思うのです。

作品の内側の登場人物と、外側に実在する登場人物=作者への、二重の感情移入

普通の作品であれば、明示されたり、あるいはあからさまにモデルとなっているのがわかる実際の事件や人物がいない限り、読み手はそれを架空の作品だと前提して読みます。もちろん作品の一から十まで作り手が生み出したと信じ込むことはせず、何かしらのヒントやモチーフはどこかで拾ってきたと思うでしょうが、作品内で起こった事件や登場人物に、そっくりあてはまるような実在のものがあるとまでは考えないでしょう。

そういう場合読み手は、楽しさであれ悲しさであれ怒りであれ名づけようのない何かであれ、読んでいて心の裡に強い感情が生じることもあるでしょうが、その感情自体は作品そのものにのみ向いています。たまたまある読み手の知識の中に、作品に類似した人物や出来事があれば、それに関連付けて感情が動くこともあります。ですが、言ってみればその感情は、作品とつながるものではあっても、作品に重なるものではありません。並列的に存在する感情です。

けれど、その作品に具体的なモデルがあるとわかる場合、しかもそれが作者自身やその周辺人物である場合、さらに言えば作品内の事件が悲劇的なものである場合、作品だけでなくそのモデルとなった実在の人物へも感情移入してしまうと思うのです。「この人は、私がこんなに衝撃を受けた事件に、実際に関わった人なんだ」と、感情移入が二重写しのように重なり、増幅してしまうのだと。少なくとも、私はそう感じてしまいました。そういうところに強い感情、ある種の楽しさを見いだしてしまうのは、いささか倒錯的という気がしないでもありませんが、してしまうのだから仕方がない。

もしこれが、たとえば史実をモデルにした作品や第三者による伝記などのように、描かれている作品にモデルと作者が直接的に関係がなければ、この感覚も薄いと思います。作った人と描かれた人が別人であれば、それはあくまで、具体的なモデルを出所のはっきりしたところからもってきた作品でしかありません。辛い出来事を辛い目に遭った人が他人に理解できるように自ら再構成する、というなにかのカウンセリングのような所業が内包する、切実さ、切迫感は、そこに存在しないのです。

これでふと思ったのが、もし仮に『ど根性ガエルの娘』を完全に架空のものだという前提で読んだらどう感じるだろうか、ということです。つまり、作中の主人公は作者自身でなく、主人公(=作者)の父とされる漫画家も現実には存在せず、その漫画家が描いた大ヒット作も存在しない、「漫画家を父に持った娘が自分の家族を自伝的に描いた架空の作品」だとして読んだら。おそらく、面白さや15話の衝撃は変わらずとも、感情移入の二重写しは起こらないでしょう。他の一般的な作品と同じ意味での、面白さであり、衝撃。もちろん、感情移入の二重写しが起こった方が上等だとかそういう意味はなく、あくまでそういうものだという話で。

作品の外側で競合する、二つの異なる物語

また、本作が実在の人物による物語だという側面において、さらに話が複雑になるのは、作者の大月先生には実弟がいて、その彼にインタビューがなされた別の漫画家による作品では、大月先生が見ていた現実とは違う現実が語られている、という点です。

【田中圭一のペンと箸−漫画家の好物−】第八話:「ど根性ガエル」吉沢やすみと練馬の焼肉屋

これは田中圭一先生による、漫画家の家族に食にまつわる話をうかがうというインタビュー漫画の第八話なのですが、直接大月先生の作品と関係はないものの、そこで実弟の口を通して(さらに田中先生の筆を通して)語られている吉沢家の姿は、『ど根性ガエルの娘』と読み比べたときに混乱してしまうようなものです。

実在の二人の人物から語られる、一つの家族に関する二つの異なる姿。これを、どちらの語る家族像が正しいのか、と部外者が答えを見つけようとすることに意味はないでしょう。それを確かめる術はありませんし、仮にあったとしても確かめてよい筋合いはありません。

大月先生が語っていることも実弟が語った(田中先生が描いた)ことも、そこには当人の記憶というフィルターがかかり、さらにはそれを漫画として再構成するという作業も経ているのです。記憶には記銘(情報の入力)・認識(情報の保持)・想起(情報の出力)という三段階がありますが、そのどの過程でも容易に情報は変質し、さらには想起した先で漫画化するという、都合四つのフィルターを通して、二つの家庭像は描かれているのですから、どちらかは正確な家庭像で、もう片方は偽物だとは、とてもじゃないけど言えません。

それに、実際大月先生には家族がこう見えていて、実弟にはそう見えていた、という可能性もあります。人は無意識のうちに、現実を見たいように見て、見たくないものは視界に入れようとしない生き物です。ある一つの家族があって、その中にいた姉は自分の見たいように見た結果あのような家族像になり、弟もまた同様である、ということは十分にあり得ます。

まるで芥川の『藪の中』ですが、「真実の家族像」などというものも、部外者にとっては藪の中にとどめざるを得ないのです。

作品自体の外側で図らずも生まれた、エッセイ漫画がゆえの物語の重層化。異なる家族像が見えてしまったからこそ意識された、「真実の家族像」という不可触の答え。それが、本作に奇妙な味わいを与えています。お願いだからさらにお母さんに話を聞いて漫画化するのはやめような。

最後に

ともあれ、作品内部への作者自身の当事者性や、実在の登場人物による異なる物語の提示などの、『ど根性ガエルの娘』という作品それ自体から離れた要素によって、本作に、一般の作品ではありえない、ある種異様な楽しみ方が生まれていることは事実でしょう。ともすれば、文学理論や批評理論のモデルケースにもなりそうな、本作とそれを取り巻く状況。内容はもとより、その点でも非常な面白さのある作品だと思いました。

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2017-01-08

『亜人ちゃんは語りたい』デュラハン京子 見本のないものの描き方の話

ペトス先生原作のアニメ亜人ちゃんは語りたい』の放送が始まりました。

TVアニメ「亜人ちゃんは語りたい」公式サイト

とりあえず視聴してみようかと思いチャンネルを合わせました。初回は一時間スペシャルとのことだけど、実のところ、前半30分は声優陣によるただの番宣だったことはご愛嬌ということで、本編はなかなか面白く仕上がっているなと思いました。原作の漫画はキャラクターの動きはあまり多くない(キャラクターの動作にあまり重きを置いていない)ところ、場面転換などを多く使って、キャラクターをよく動かしているのが印象的でした。

で、その中で最も強く印象に残ったが、デュラハンである町京子でした。

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頭部が胴体から分離している亜人である彼女は、移動の際は腕などで頭部を抱えて運ぶ、座っているときは膝や机などに載せるなど、ヴァンパイアや雪女、サキュバスなど他の亜人より、見た目の点で大きな特徴があります。

漫画で見ている分にはなるほどそういう特徴なんだと普通に受け止め、また漫画では主に亜人の彼女らの内面にスポットが当てられることが多いため、京子の外見的特徴にはさほど気にしていませんでした。ですが、いざアニメになって、動く京子、すなわち、静止画の連続である漫画と違い、走ったり歩いたり教室で椅子に座って他の人間と話したりするなど動画として動く彼女を見て、デュラハンの特徴がいかに他の人間と違うかというのが強烈に伝わってきたのです。

たとえば、教室内で着席してクラスメートと会話をしているシーンでは、彼女の正面と右側に座る二人の女生徒がいるのですが、机の上にクッションを敷きその上に自分の頭部を置いている京子は、発話する相手が変わる度、手で頭部の向きを変えているのです。そもそも原作では、単行本に収録されている話までではそのようなシーンはないと思うのですが、仮に描くとしても、置いた頭部を動かすことで話者の方へ視線を変えるという動作をシームレスに表現することは不可能で、連続するコマ、複数の静止画でもってそれを表現するしかありません。頭部が胴体から分離しているデュラハンなら当然であるその仕草も、実際にそう動いているのを見ると、見慣れていない限りは確かに違和感なのです。

また、否定の仕草として首を振る時も手で頭部を動かしている点や、話している女生徒は、人間相手であれば胴体の上にある頭部へ視線を向けるところ、机の上にある京子の頭部へ視線を向ける、すなわち通常と比して不自然に視線が下がるという点も見逃せません。アニメの中で会話している女生徒ら同様、テレビの前で視聴している私たちにとっても、京子の存在は、明らかに(慣れていないという意味で)違和感のあるものなのです。そして、その違和感が、原作でも後に語られるような、亜人と人間の付き合い方、距離感というテーマへの導入にうまくつながっていくことでしょう。

この、原作にはない京子の動作を描くにあたり、アニメスタッフはかなり検討を重ねたのではないかなと思います。手で首を振らせるとか、普通の人間で考えれば不自然極まりないですが、デュラハンにしてみればそれが当たり前。自分にとっての普通じゃないことを当たり前としている者を描くのは、かなりの検討と、そして思いきりが必要だと思うのですよ。なにしろ、今回でいえばデュラハンですが、それついて見本がありません。正解がありません。そういうものについて、これでございと自分の思うところを表現するには、十分な検討を重ねて自分を納得させた上で、それでも「これでいいのだ!」と公開するときには一つの思い切り、覚悟がいるのです。いやあ、納得させられましたけどね。

今後も、このいい意味での違和感をどう描いていくのかということを確認すべく、視聴していこうかなと思ってます。

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2017-01-04

家と女と独りと幸せとさびしさと 『プリンセスメゾン』の話

家。それは人の集まる場所であり、明日への活力を養う場であり、人の夢を投影する箱であり、資産でもあり簡単に変えられるものでもあり、そしてなにより人が暮らす場所。

居酒屋チェーン正社員として働く沼越幸は、暇を見つけてはショールーム不動産を回り、自分の家を探している。まだ若いのにとか、独り身なのにとか、この先どうするのとか、俺らみたいな収入じゃ無理っしょとか、口さがない世間は色々言いもするけれど、そんな言葉には耳を貸さず、彼女はひたすら探し続ける。たった一つの自分だけの家を。

そんな、女性たちの家にまつわる、幸せと寂しさの物語……

プリンセスメゾン(1) (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン(1) (ビッグコミックス)

あけましておめでとうございます。例年であれば昨年のブログのまとめをするところですが、昨年はさぼり気味で振り返るほど記事を書いていないのでゴニョゴニョ。今年はぼちぼち書いていきたいなということでどうぞよしなに。

それはそれとして、新年一発目の更新は、池辺葵先生『プリンセスメゾン』のレビューです。

この作品もレビューを書こう書こうと思ってなかなか書けなかったのですが、作品としてのきりは全然よくないもののこのままずるずる延ばしてもなんなので、思い立ったが吉日と手を付けた次第です。

さてこの作品、最初に書いたように、自分の家を買おうとする沼越幸をメインストーリーに、家を買う人、家を手放した人、一人で暮らす人、家族で暮らす人など、家と女性というテーマで様々な話が語られていきます。

家を買う。それは、普通に考えれば並大抵のことではありません。まずなにより、金額が並大抵ではない。新築で買おうと思えば、8桁に届くのは当たり前、場所によって文字通り桁が違うことも。そして、家を買えば、賃貸や投資目的でもなければ普通はそこに自分が住む。住むということは生活が発生するということ。新しい家から職場に通い、新しい生活圏で買い物をし、新しい隣人と付き合いを構築していく。もし生活の中で不具合、たとえばお隣さんがとってもいけない感じの人だとか、土地の地盤がゆるゆるだとか、そういう穴が見つかっても、一度買った家をおいそれとは手放せない。なにしろ高い買い物。賃貸なら引っ越しもそこまで大変ではありませんが、ローンを組んで登記もして、人生最大レベルの決断を下して晴れて自分のものとした不動産を手放すことは、むしろ買う時以上に大変なことでしょう。そんな話は、少し周りの人に聞けば、いくらでも耳に入ってきます。買う前から人は、その覚悟を試されるのです。

でも、主人公の沼越幸は、ひたむきに家を探します。

26歳。

居酒屋チェーン正社員

年収270万円。

独身。

恋人も無し。

両親鬼籍

彼女を知っている人は、不思議に思います。なぜわざわざ家なんか買うのかと。

彼女の同僚は言います。「俺らみたいな年収でマンション買うとか無理っしょ」と。

でも、彼女は言います。努力すればできるかもしれないこと、できないって想像だけで決めつけてやってみもせずに勝手に卑屈になっちゃだめ、と。

彼女の友人は言います。「ほんとに頑張り屋さんだね マンション買うなんてすごい大きい夢に迷わず向かっていって」と。

でも、彼女は言います。大きい夢なんかじゃありません、家を買うのに自分以外誰の心もいらないんですから、と。

彼女にとって家とは何なのか、作中で明確に語られはしません。

亡くなった両親と一緒に住んでいた思い出の場所。自分で所有している自分の居場所。自分が幸せに暮らせる場所。自分が自分でいられる場所。自分が自分を納得させられる場所。

何ともでもいえるでしょう。

彼女は夢想します。一人で暮らす自分の家を。日々の仕事で疲れた体をひきずって帰り、ほっと一息つく家を。友人たちが集まる家を。

それはきっと彼女の幸せの形。彼女が望む未来の形。それが生まれる場所が、彼女の家なのです。

彼女の未来図に、自分の家はあっても、家族はいません。これから先、それは変わるかもしれないけれど、今の彼女の具体的な幸せとは、自分の家。そしてそれの根っこにあるのは、おそらく「自分の人生をちゃんと自分で面倒み」ること。「誰かと生きるのはそのあと」だし、「そんなの夢のまた夢でしょうけど」。

誰かと生きられるのは幸せなことです。でもそれは、一人で生きることが不幸せであることを意味しません。ライフスタイルの多様化だの自分らしく生きるだのと言ってしまうとだいぶしゃらくさいですが、性別を問わず信条を問わず、公共の福祉に反しない限り、自分にしっくりくる生き方をかつてより選びやすくなったことは間違いないでしょう。配偶者を持たなくても、どこかに定住しなくても、親のぶっといすねをかじっても、自分の性的自認に合うよう身体をいじっても、それがしっくりくるなら、それでいい。もちろん誰かと暮らしても、同じところに一生住んでも、それもまたしっくりくるのであれば。

きっと人は、どんな人でもさびしいのです。家族のある人も無い人も、お金のある人も無い人も、友人のいる人もいない人も、職が安定する人もしない人も、幸せな人もそうでない人も。

幸せとさびしさは関係ないのです。他の人から見ればどんな人でも、幸せに見えるときもあるし、不幸せに見えるときもある。満ち足りているように見えるときもあるし、ひどく淋しそうに見えるときもある。ある人がどう見えるは、その人が実際どうであるかというよりも、その人を見る側がその人の生き方暮らしぶりを自分に当てはめたときにどう思うか、なのです。

ある人の生き方がさびしく見える人は、そういう生き方を淋しいと思う人なのだし、幸せに見える人はそれが幸せだと思う人なのです。

そして、それはそれとしたうえで、その当人にしても、自分が幸せであろうとも、ふとした瞬間にさびしさを感じることもあります。一人で充足していようと、温かい家族を築いていようと、ある瞬間、心に隙間風が吹くことは避けられない。きっとそれは、ありえた他の幸せが存在する世界線から吹いてくる風。可能性だけでしか存在しなかった、ありえたかもしれないだけの別の現在に、誰しも一瞬だけ心がつながることがあるのです。この作品に描かれている幸せとさびしさは、そういうものであるような気がします。

フードコーディネーターとして本も出している女性が、友人らとのホームパーティーの後に一人床について、自分の死を思う。

旅を趣味とするテレアポの女性が、旅から帰り働く日常の中で、どこで生きようかと清々しい笑顔でひとりごちる。

夫と赤ん坊と暮らす主婦が、マンションの直下の部屋で一人暮らす女性が作った、奇矯な生活と裏腹にとでもいうべき美しい染物を見て、その暮らしに思いをはせる。

婚活に疲れた公務員の女性が、将来の自分の姿を想像して、そこに描いた姿のためにマンションを買う。

彼女らの姿には、自分のしっくりくる暮らしを生きる幸せと、その充足とは無関係に吹き込むさびしさ、両方があります。その二つこそが、この作品の最大の魅力だと私は思うのです。

彼女らに楽しさが描かれ、そしてそれを読む私が楽しさを感じる。彼女らにさびしさが描かれ、そしてそれを読む私がさびしさを感じる。そして、私はいま幸せか、自分の生き方にしっくりきているか、どこにさびしさを感じるかと、自問します。自答できるかは、時によりけりですが。一人で生きる楽しさと寂しさは、まさに今の私に訴えてくるものであり、私はそれに救われ、傷を触られ、自分のしっくりくる身の置き所はどこかと、つい見回してしまいます。

一人の楽しさとさびしさ。それはまるで、作中で何度も描かれる、ごちゃごちゃしながら美しい、東京の街並みのようです。そこにいる人たちより、ずっと大きく描かれる東京の街。街という大きなキャンバスの中で、人は寄り添ったり一人で歩いたりしています。どう歩こうとも街は街。好きなように歩けばいい。誰をも放っておくような無関心で無機質な街が、本作の世界では、とてもやさしく、冷たく、そして美しく見えます。

そしてこの作品には、もう一つの大きな魅力があります。

恋人も持たず独り暮らしのためのマンションを買おうとする幸に、彼女の友人は言います。

「私も買いたいけどこの先、結婚もしたいしそしたら家って邪魔かなーとか思うし、ローンも先を考えるとなんか怖いしなー」

それに対して、幸は言うのです。

「…すごく勝手なんですけど私はそこまで先は考えてなくて… 両親とも40代で亡くなってますし、私だっていつまで生きられるかもわからないし、この先どうなるかわからないからむしろ今しかないって。いつくるかわからない日を待つよりは、今のベストをつかみたいんです」

それが幸にとってしっくりくる生き方です。

今と未来を秤にかけて、どちらにどれだけ錘を載せるか。

未来の究極とは、言ってしまえば死です。誰の下にもいつかは必ず訪れる、人間の唯一の平等である死。いつどこで口を開けるかわからない底なしの落とし穴に、いつ落ちると考えるのか。いつ落ちてもいいと考えるのか。他の人と同じくらいまでは歩いて行けると考えるのか。もう自分は落ちている最中であると思うのか。

自分の人生には必ず死が待っていること。

メメント・モリ。死を想え。

他の人の感想はどうかわかりませんが、私はこの作品に、ひどく乾いた、余計な情のない死の匂いを嗅ぎとります。具体的な表れとしては、上で引用した幸の言葉などなのでしょうが、それだけにとどまらず、物語の端々に、どこかしら。上手く言葉にできないのが残念ですが、その匂いが、私にはとても魅力的に感じられるのです。

やわらかスピリッツで、第一話からいくつか読めますので、まずはそちらをご一読。

やわらかスピリッツ-プリンセスメゾン

第一話を読んだ後最新話を読むと、幸の頭身の変化にびっくりします。

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2016-11-19

この世界を生きる それはとても優しく悲しく辛く楽しく、そして強い日常『この世界の片隅に』の話

映画『この世界の片隅に』を観てきました。いい……とてもいい……

身も蓋も無い程号泣するかなとも思ったんですがそういう風でもなく、じんわりぐっと涙がこみあげてきて、頬をつうと伝う感じの落涙。いい……

以下、ネタバレ上等の感想。でも、ネタバレで魅力が薄れるタイプの作品ではないので、読んでもらってもいいのかなと思います。一応隠しておくけど。

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