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2008-12-08

漫画表現の中の、光を反射しない眼について

漫画の中でしばしば見かけられる表現として、「つや消しの眼」、「光を反射しない眼」があります。百聞は一見に如かずと言うことで、例をいくつか挙げてみましょう。

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うしおととら 愛蔵版 11巻 p143)

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(シンシア・ザ・ミッション 7巻 p66)

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GS美神極楽大作戦 愛蔵版 11巻 p122)

こんな感じのヤツですね。

私たちは特に誰に説明されたわけでもなく、これらの表現を受け入れ、ある一定の解釈をしています。

大体の場合において、眼が光を反射していないキャラを見ると私たちは、「そのキャラは正気を失っている」のように解釈するのではないでしょうか。上で挙げた三つの例は、概ねその解釈に沿ったセレクトになっています。「うしとら」ではこのキャラは妖怪に操られ、「シンシア」では薬物で自由意志を失わされ、「GS美神」では偽物の映像、つまり本人のものではない意思表明となっています。

そこから派生して*1、このような例を挙げられます。

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アイシールド21 27巻 p179)

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モンキーターン 愛蔵版 16巻 p121)

アイシールド21」ではこのキャラはショックを受けて軽く茫然自失になっている描写であり、「モンキーターン」では(背景のスクリーントーンと共に)このキャラの強さ、威圧感を演出しています。

後者の状況を詳しく説明すると、賞金王決定戦*2で優勝したこのキャラが、試合後に主人公とそのライバルに向けてねぎらいの言葉を投げかけているシーンです。この表情はその二人に向けられていたものであり、圧倒的な存在感を感じた二人の意識と読み手の意識をシンクロさせるために、このキャラの眼から光を取り除いたのでしょう。このとき、光の除去、つや消しの眼は、「自分の理解が届かない相手」、「考えが読めない相手」ということを意味し、二人とこのキャラの実力の距離を表しています。「自分の理解が届かない」、「相手の考えが読めない」ということは、「正気を失っている」相手の考えを読もうとすることと根っこのとこでは同じです。


派生部もひっくるめて一般化した言葉で言えば、「光を反射しない眼を持つキャラは、他のキャラとコミュニケーションの土台を同じくしていない」というようになるでしょうか。両者の意思の次元の高低はどうあれ、普通の眼を持つキャラと、つや消しの眼を持つキャラでは、その瞬間に十全なコミュニケーションをとることができなくなっているのです。

では、いったいなぜそのような解釈を私たちはしうるのでしょうか。実世界にはそんな眼をした人間なんていないのに。


目が「見える」ということ。


まずは、人間の目について生物学的な観点から洗いなおしてみましょう。いつも便利なWikipedia

wikipedia:目

ここからこの論のポイントとなる点だけをまとめて書き出せば、目は光の受容体であるということです。光の受容体であるということは、当然目に光が当たらなければ「見える」という現象は起こらないということ。十全な視力を有している人間でも、光のない真っ暗な場所に行けば何も見えないということです。当然ですね。

そしてそれは裏を返せば、「見える」状態にあるためには目が光を反射していなければいけないということ。ならば、「目が光を反射していない」描写をなされているということは、そのキャラは「見える」状態にはないということ。

これはあくまで理屈の話です。実際「光を反射しない本物の目」が人間に備わるには、眼球の表面にすりガラスのような細かい凹凸や傷がびっしりできなければならないでしょう。私は小学生時代にサッカーボールが強く目に当たり、診察で「表面に箒で掃いたような傷ができた」と言われました。実際それでどれくらい視力が落ち、またその傷の密度、分布はどれほどのものだったのかはわかりませんが、逆に言えばそれくらいの傷ではまるでぱっと見に影響は出ないということです。今でも視力こそ悪いですが、せいぜい0.1を切るかどうかですからね。これくらいなら別に目にボールが当たらなくても平気でなります。


見てるけど「見えて」ない。


そんな理屈の話から、絵としての表現の話に行きましょう。

上記の例では、正面から見たキャラの目が一様に光を正常に反射していません。正常な視力を有しているキャラたちの目がです。

これはつまり、「視界に入っているけれど『見えて』はいない」ということを比喩的に表しているのではないでしょうか。正面からこちらを向いているのに、こちらを「見て」いる気がしない。それを表すための、「光を反射しない目」なのだと思います。

幸いにして私はそんな失礼な人間には会ったことがありませんが、世の中には、その場に一緒にいながらもこちらのことを見ないで、意識しないで、焦点をあわせないで喋る人間がいるとかいないとか。本当にいるのかはわかりませんが、漫画などの中ではしばしばお目にかかります。そんな人間と相対する時に、人は「こいつとはコミュニケーションが取れないな」と感じるのではないでしょうか。

このとき感じるコミュニケーション不全の兆候は、「こちらを『見て』いない」ということで端的に表れます。言葉はこちらに向かっているのに、まるで対象になっている気がしない。対象からの除外は、「見ているのに『見て』いない」から感じるのです。

会話分析のターンテイキング・システムを引き合いに出せば、会話のキャッチボールは、会話の語尾を誰かに投げかけたり、誰かに引き取ってもらうことで進行していきます。相手の自発的な引き取りは、普通の会話では、言葉のイントネーションはもとより、視線の交換などでも発生します。一対一で話している時でも、自分の会話のターンを終えた後に相手の目を見ることで、相手に自分のターンが終わったことを知らせることができます。三人以上での会話でも、誰かに投げかけるように言葉を終えて、その後に視線を配ることで他の人が次の会話を続けるのです。会話において視線の動きは非常に重要な位置を占めています。

ですから「見ているのに『見て』いない」状態というのは、一般的なコミュニケーションにおいて明らかに不調の原因となるのです。そのために、光を反射しない目による「見ているのに『見て』いない」描写は、当事者間のコミュニケーションが健全に行われていないことを表徴しているのです。

上の画像では、「モンキーターン」の例が最もそれを強く表しているでしょう。このキャラと主人公たちははっきりと相対しているのに、このキャラは主人公たちを「見て」いない。そこで表されるコミュニケーションの不全が、このキャラと主人公たちの存在感の遠さを象徴的に意味しているのです。主人公たちとこのキャラは同じ場所にいるのに、コミュニケーションの土台は此岸彼岸ほどに離れているのです。


実践編。


それの実践編ということで、この画像を見てください。

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HUNTER×HUNTER 26巻 p80)

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(同書 p81)

これはネフェルピトーのところにゴンとキルアが殴りこんだシーンですが、先の画像で光を反射しているゴンの目が、二枚目ではフラットなものになっています。この間に何があったといえば、ゴンにとっては理解不能な台詞をピトーが吐いたのです。単純な怒りに燃えていたゴンが、(彼にとっては)理解不能な言葉をピトーにぶつけられたために、自身の思考が酷く乱されているのです。

読み手にとっては、ピトーのこの台詞が理解できます。今まで充分にそれを理解させうる描写があったからです。ですがそれを理解できるのは第三者視点である読み手だからであり、物語の中を当事者として生きるゴンにとっては、ピトーの台詞は完全に理解の埒外となっています。冷静なキルアは(ゼノの言葉もあり)なんとかピトーの言葉の真意を量れましたが、それは怒りに燃えるゴンには不可能なことでした。

読み手にとっては、ゴンの考えもピトーの考えも(ついでにキルアの考えも)理解できる。そしてここで相対してる三人の中で最も相手のことを理解できていない、つまりこの場でのコミュニケーションの土台から遠く隔たっているのは、明らかにゴンです。そのために、他の誰でもなくゴンの目がつや消しになっているのです。


結び。


広く使われているこの表現ですが、いったい誰が使い始めたんでしょうね。広まっているからそうとは感じませんが、現実にはまずありえない表現でもって何かを表象するというのは、非常に偉大な先駆です。まさに「目は口ほどにものを言う」というか「目は心を写す鏡」というか「目に物言わしてる」というか。これだから漫画の記号性は面白い。

追記;ブクマのコメントでもありますが、この仮説は男性向け漫画(微妙にいかがわしい響き)に限って書かれています。私は女性向け漫画の造詣が深くないので、そちらに手を出しても意味がありませんから(もちろん、男性漫画での場合を全て網羅できているとも思いませんが)。そちらにも見識のある方が両分野を包括できる理説を述べてくださると、非常に助かります。

無思慮に自説が全てを説明できると考えることは、理説の止揚にとって危険なことだと思います。


追記(2013.4.29):試みに過去記事の英訳中です。

A comic expression of eyes not reflecting light - Ponkotsu Yamada .com



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。

一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。




*1:だれがどのような場面で使い始めたのかが定かではないので、どれが大元でどれが派生かは議論の余地があるのですが、ひとまず暫定的にこの解釈を大元としておきます

*2競艇で年末に行われる、一年で賞金を多く稼いだ上位12名が出場できるレース。その年の最強を決めるレースといっても過言ではない

wowwow 2008/12/10 08:04 この表現は「瞳孔が開いている、開ききっている」ことを表現しているのでは? 瞳孔が開いていると、焦点が定まっていない状態や、死を感じさせます。

yamada10-07yamada10-07 2008/12/10 20:19 眼をそこまで詳細に描きこまない作風であれば(記事の例であれば「ハンタ」が最もそうでしょうか)、つや消しの眼を描くことで瞳孔の拡大を表しているというのはあると思います。感情の変化で瞳孔の拡大・縮小は起こりますし、生命活動が停止することで瞳孔が開くので、そこから眼に光のないキャラは正気(生気)を失っているという解釈もできるでしょう。記事内では挙げませんでしたが、「マスターキートン」(浦沢直樹)13巻「ライオンの騎士」の回に出てきた被催眠暗示者は、暗示にかかって正気を失っているのであり、それゆえの瞳孔が広がった眼だといえるでしょう。
ですが、全てが全てそうだとは私は言い切れないと思います。「モンキーターン」の例では、画像のキャラはその前後のコマでは普通の眼であるのに、このコマでだけ眼から光が消えているのです。そうなると、つや消しの眼を単純に瞳孔の拡大とのみ捉えるのはいささか不自然ではないでしょうか。また、「うしとら」の場合、妖怪にとり憑かれているから瞳孔が開いているというのも少し強引な気もします。このキャラはこの描写をされているままに、集団の中で生活ができている(他の人間に不審を与えていない)のですから、もしこの眼が瞳孔の拡大を表しているのなら、このキャラは瞳孔を拡大させたままに周囲と齟齬なく生活していることになってしまうのです。
ですから、実際の瞳孔拡大を表現しているものだけでなく、象徴的な意味表現であるつや消しの眼もあるのだと思います。
私の仮説は、「1.他の場面では普通の眼をしているキャラが、あるシーンではつや消しの眼になっている」→「2.つや消しの眼には知らず知らずの内にある解釈をして、私たちは読んでいる」→「3.私たちはなぜそう解釈しているのか」という構成をとっています。「つや消しの眼は瞳孔の拡大を表している」という要素は1の中に含まれるのですが、そして1には他の要素(状況)もあるのです(それが「モンキーターン」や「うしとら」、「GS美神」の例です。また同時に、1には含まれていない要素もあります。具体的には女性向け漫画とか)。
つや消しの目について、瞳孔の拡大という生理的反応以外も説明しうる仮説として私はこの説を構築してみました。

masamasa 2008/12/11 03:25 光を映さない瞳は文字通り「曇った眼」を表し、その人物が他者とのコミュニケーションを一方的に遮断している状態の表現だと考えます。興奮・混乱・洗脳した(された)り、あるいは他の登場人物と同じステージに立っていない高次元(場合によっては低次元)の存在は、こちらを確かに見ているかもしれないが、それは単なる情報としての他者を見ているだけで、意思の疎通をしようとは考えていません。曇った眼はその他者との隔たり=フィルタの象徴ではないでしょうか。

通りすがり通りすがり 2008/12/11 09:08 思いつきですが2点ほど、
・目の不自由な人の目を見ると実際どんな感じなのか
・NARUTOの日向ネジ・ヒナタの白眼の表現的効果は?

aaaaaa 2008/12/11 21:22 思いつきですが…
死亡した人の目はかなり濁った感じになって光を反射していないように
見えるので、そこからきているのではないでしょうか。

角膜がにごってるせいなのか、水晶体がにごってるせいなのか、
そこまではわかりませんが。

yamada10-07yamada10-07 2008/12/12 00:38 >masa さん
光を反射しない眼が何を表しているかといえば、やはりそれは象徴的な何かであるはずですよね。それまでは普通の描写だったものが、あるシーンだけそう描かれるということは、実体的、実際的な何かというわけではないと思われます。じゃあ象徴的な何かがなんなのかというと、ストーリー上の文脈から考えれば「コミュニケーション不全」と一般化して言えそうです。「口ほどにものを言う」眼が言っていることが、「あなたとはコミュニケーションが成立しませんよ」というものなわけですね。
「モンキーターン」の例だと、曇った眼をしたキャラが言ってるのではなく、その眼を向けられているキャラがそういう風に見ている、という逆方向の状況ではありますけど。

>通りすがり さん
>・目の不自由な人の目を見ると実際どんな感じなのか
どうなんでしょうね。全盲の理由にも因ると思いますし、先天的か後天的かでも違うかもしれません。
>・NARUTOの日向ネジ・ヒナタの白眼の表現的効果は?
「NARUTO」はまともに読んだのがずいぶん前なのでうろ覚えですが、あの二人は常に白目でしたよね?他のキャラと比べても大きく異なる表現方法がとられているということで、単純に「眼」による能力の存在を強く前景化させていたのかな、と。あとは能力名にもひっかけてですかね。写輪眼も発動する時は特殊な眼紋が浮き出ますし。

>aaa さん
その意味もあると思いますが、詳しくは上の私のコメントで。
ところで実際死体の眼って、瞳孔が変化しないだけでなく光も反射しないんですか?死んだ人間の顔を見たことはありますが、眼を見たことはないのにはたと気づいたので。

tyuntyun 2008/12/12 00:47 ここまで絶望先生無し

masamasa 2008/12/12 06:03 つや消しの目をした人物を大まかに4タイプに分けてみると、
1:視力に異常がある、特殊能力で一般人には見えないものを視るなどの、「人とは異なる世界を視るもの」
2:人の姿をした機械・妖怪・宇宙人などの「人にあらざるもの」
3:昏睡やショック状態、洗脳などにより、「話すことができない、話が通じないもの」
4:相手を自分と対等の存在として認めていない、「白眼視をしているもの」
になります。
こうしてみるとどのタイプもレベルの違いこそあれ、通常のコミュニケーションが成立しづらい状態にあるといえそうです(1の例は誤解を招くかもしれませんが、全盲の人に色彩の説明がしづらかったり、(フィクションにおいて)霊の視える人が他人に理解してもらえないというようなことです)。
「目は心を映す鏡」ですが、実際の目に映っているのは当人の心ではなく、相対している人物です。コミュニケーションの一側面が、自分は他人の目にどう映っているかを確認することであるならば、鏡(目)が曇っていればその像は不鮮明になり不安を招くのが一因でしょう。

akak 2008/12/12 12:41 「げんしけん」の荻上なんかツヤ消しを見事に使いこなしたキャラでしたね。
初出からずっとツヤ消しの目のままで、某件が片付いてからやっとハイライトが入る。あの構成の巧みさには唸りました。

yamada10-07yamada10-07 2008/12/13 02:50 >tyun さん
「絶望先生」は「基本ハイライトなしの目で、たまにあり」。この記事で取り扱っているのは、「基本ハイライトありで、たまになし」の描写です。「絶望先生」の描写はまた別体系かと思います。

>masa さん
基本ハイライトの描写があるからこそ、つや消しの目の描写に何らかの意味がもたせられるわけで、そう考えると、目に光があるというのはすなわち相手とのコミュニケーションが図れているということになります。相手の目に映る(自分の)光でもって自分がコミュニケーションの成立を信じることができるというのも、ちょっと面白い話ですね。

>ak さん
そうだったんですか。「げんしけん」はざっと読んだことしかなかったのですが、まさに仮説の傍証となるような事例があってとても嬉しいです。

aki426aki426 2008/12/13 17:56 ハイライト表現には視線の方向を表す,という考え方もあります.目の向きが立体的におかしくても,瞳孔とハイライトの描き方で視線の方向を変えることが出来たりします.

拙作ですが,参考までに
http://d.hatena.ne.jp/aki426/20080424/1209070598

なまえなまえ 2008/12/14 05:29 SEED覚醒の話と聞いて

yamada10-07yamada10-07 2008/12/14 23:06 >aki426 さん
心理描写という漫画的(ストーリーからの要請)な側面以外に、もっと表層的(悪い意味でなく)なレベルでもハイライトの効果はあるんですね。勉強になります。

>なまえ さん
ああ、どうでしょう。SEEDを見ていない私には、果たしてこの記事が関係あるのやらないのやら。

セブン@Oz_oneセブン@Oz_one 2008/12/21 03:33 最近のNARUTOはたいていどのキャラクターもハイライトを入れていません、
ハイライトを入れない理由として、
目が曇る、目が濁る、精気を失っため、〜の目は節穴か?、といった言葉の表現を絵に起こした場合、瞳孔と瞳の区別をなくす事で視線を無くす場合、日本画のようなハイライトを入れない手法の場合。4コマに多く見られるディフォルメによる場合、等がすぐに思いつきます。
逆に普段入れていないハイライトを入れる理由をとしては、
周辺の光度(日中なの深夜なのか、屋外なのか屋内なのか)、目の潤いや涙による反射率の変化、等の変化を表現する手段、
等が考えられる、これらはキャラクターに起こる変化をキャラの命である目に反映させていると受け取れる。
また光源のある場所で人間の目はハイライトが入っている状態が正常とするなら、ベタで塗りつぶした目は異常な事であるという考えた場合、白黒反転といった表現もこの延長線上の物だと考えられるます)
私が何を言いたいかというと、
この手の絵に関する技法は作家によって解釈が異なり、一つの結論に至るのは今回のように一つの作品のみ扱った場合であり、何か一つの作品の特異性を見つけて語ろうなんてのはナンセンスですが、おおまかに分けて考えたって、これといって意味が無い。漫画を論ずるという行為には限界があり、その先に行くには実践しかないのではということです。では

yito222yito222 2008/12/21 11:05 精神科医の春日武彦氏の著書に「顔面考」というのがあります。漫画表現についてもページを費やされており、すごく面白いので一読をおすすめします。

yamada10-07yamada10-07 2008/12/21 12:32 >セブン@Oz_one さん
>この手の絵に関する技法は作家によって解釈が異なり
「普段ハイライトを入れる漫画家が、あるシーンでいれていない」という状況の下で、いくつかの作品群で類似の解釈ができる、というのが今回の私の記事です。他の人と細部までまるで同一の技法を採用している漫画家はいないでしょうが、おおまかなところで根っこを同じくしている漫画家はそれぞれの技法体系ごとにいると思います。むしろ、他の人とは全然違う技法でやっているという人の方が稀でしょう。
>おおまかに分けて考えたって、これといって意味が無い
私は大まかに分けたというよりは、各シーンを抽象化して一段上の次元でまとめたつもりです。それが無意味だとは思いません。
>漫画を論ずるという行為
私が論じたのは、漫画のテクニカルな面ではなく、「なぜそのような技法を使うことで、このような解釈がなされるのか」という人の解釈能力、物語の読解能力、差異の認識能力です。絵とストーリーが高度に組み合わされ、多くの人に読まれている漫画はそこらへんを考えるのに格好の材料です(もちろん単純に読んで楽しむのが第一ですが)。私自身漫画を描く気はなく、絵心も全くないのですが、逆に、そういう人間だからこそテクニカルな面に気をとられずにいろんな解釈ができるんじゃないかなと思います。実践しかないとおっしゃるのなら、一番上手い(売れている)漫画家には誰も口を挟めなくなってしまいませんか。そうではないから漫画に関わらず創作物は面白いのです。

>yito222 さん
春日先生の著作ですか。面白そうですね。骨相学、人相学にも興味があるので、ちょっと読んでみようかと思います!

OrihikaOrihika 2009/03/27 01:08 アニメでも同様の表現が、催眠術にかけられた状態などを示すのに用いられますね。アニメの場合、通常の(ハイライトのある)目の表現との変化で「今催眠術にかかった」「解けた」と言った動きも表現しています。

また同人用語として「レイプ目」という呼び方があります。これは、レイプされ抗う気力もなくなった際の脱力・放心状態を表現する際に使用されるからです。

yamada10-07yamada10-07 2009/03/29 23:52 やっぱり目の光の有無で、意思の有無を表してるわけですよね。
初期ディズニーのように、当初は目にハイライトが入らないのが普通で、いつの頃からかハイライトをいれるようになったから、このような表現ができるようになった、つまり表現の幅が広がったっていうのが、表現の進化論として面白いですね。

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