祝復刊「ピカピカのぎろちょん」(佐野美津男)

ピカピカのぎろちょん (fukkan.com)

ピカピカのぎろちょん (fukkan.com)

 かねがね噂は聞いていましたが、まさかこれほどすごい作品だったとは……。トラウマ児童文学として名高い「ピカピカのぎろちょん」が10月に、ブッキングから復刊されました。書かれたのが1968年ですから、もう40年近くも前の作品ということになります。解説を書いている赤木かん子によると、佐野美津男は「大海赫と並ぶシュールのキング」だそうです。
 ある日突然新聞が配達されなくなり、テレビも映らなくなり、町中にバリケードが張り巡らされ、学校も休みになってしまう。大人達は「ピロピロ」が原因だというが、その実態は全くわかりません。子供達は閉鎖された広場に設置されていたギロチンを真似して、おもちゃの「ぎろちょん」をつくます。そして野菜を憎らしい人に見立てて、ぎろちょんで死刑にしていきます。やがてピロピロは終わり町は日常を取り戻しますが、ギロチンのあった広場には高いへいが建てられて、中を見ることができなくなってしまいます。
 こうやってあらすじだけ紹介してもわけがわかりません。この本のすごさを表現しようとしても「スゴイ」「ヤバイ」「キテル」くらいしか思いつきません。自分の語彙の貧弱さが嫌になってしまいます。とりあえずポイントを絞ってこの作品のすごさを紹介したいと思います。

主人公の一人称

 語り手でもある主人公は小学4年生の少女なのですが、彼女の一人称が「アタイ」なのです。まずここで度肝を抜かれてしまいます。「アタイ」が主人公の児童文学なんて今まで読んだことがありません。

ピロピロ

 大人の視点から見れば、おそらく戦争か革命か内乱のような事態が起こったのだと想像できます。でも、本作でのピロピロの描かれ方は強い印象を残します。
 ピロピロの一番の特徴は、その不可視性にあると思います。何かが起こっているはずなのに、人々の生活圏では銃声ひとつしない。もちろん死体なんかがころがっているわけもない。
 しかし、子供達は電柱をよじ登ってギロチンを見ます。当然ギロチンは人殺しのための道具、圧倒的な暴力の産物です。しかしそれは存在するだけで実際に使われているかどうかはわかりません。唯一実体を持って描かれるピロピロはこのギロチンだけというのが、なんとも不気味です。
 この不可視性には二面性があります。ひとつは、近くで起こっているはずの事件から、住民達が守られているということです。しかしこれは裏を返せば、人々は全く事件に介入できず、知ることすら許されない状況であるともいえます。このような暴力のあり方は、発表された60年代よりむしろ現在の方がリアリティを持って受け入れられるかもしれません。
 おもしろいのは、たぶん陰惨な出来事が起こっているはずで、子供達も不気味な遊びに興じている異常な状況を描いているにもかかわらず、作品世界が変な明るさを持っていることです。
 ピロピロになって学校もなくなり、大人も子供にかまっていられなくなったので、子供達は思うままに行動できます。子供達はそんな環境を、ある種の非日常として前向きに享受しているように見えます。おそらく戦時下を描いているのに、暗いだけの話になっていないことが特異です。いや、むしろそういう明るさを持っていることが、作品の「わけのわからなさ」を増幅させて、多くの人々に強いトラウマを植え付けることになったとも考えられます。

ぎろちょん

ためしに、アタイがうちからもってきたキュウリを、死刑にしてしました。

 このくだりが妙につぼにはまって大笑いしてしまいました。こんなこわいことをさらっといわないでください。
 死んだ魚のような目をしている子供達がおもちゃのギロチンで次々と野菜を死刑にしていく*1。そりゃこんなのを子供に読ませたらトラウマになるに決まっていますよ。
 子供が大人のまねをして暴力に目覚める話といえば、グリム童話の「子供達が屠殺ごっこをした話」が思い出されます。大人が豚を殺すのをまねして子供が子供を……というスプラッタな話ですね。しかしグリム童話の方では、子供は大人の行為を模倣したに過ぎません。「ぎろちょん」では、子供達はギロチンに込められた大人の憎しみまで模倣しています。
 主人公のアタイは、ぎろちょんで殺したいほど憎らしい相手を持っていないことに悩みます。しかしギロチンの周りにへいがめぐらされると、そのへいを設置した人間に憎しみを感じ、ぎろちょんで処刑します。この変容の過程を、アタイの成長物語と読み解くこともできるでしょう。

*1:この様子を描いているイラストも恐怖をあおっています。多くのトラウマ児童文学がそうであるように、本作のイラストもどうかしています。中村宏による子供の落書きのようなイラストが、夢に出そうなくらいこわい。