『クマのあたりまえ』(魚住直子)

魚住直子による動物寓話短編集です。
動物寓話という形式は非常に便利で、哲学的な難しいテーマにアプローチできる状況を容易に設定することができます。ただし、その難しいテーマを処理しきれなければ、どうしようもない駄作になってしまいます。残念ながらこの作品集は失敗しています。
『そらの青は』は、自分の感じている色と他人の感じている色が違うのではないかと気づいてしまった魚の話です。つまり、逆転クオリアの問題です。さらにそこから敷衍して、同じ言葉で表される感情も実は違うのではないかという問いにぶち当たります。
ところがこの作品、「おなじ言葉だけではわからないから、もっとわかりあいたくなるんじゃない?」という結論に着地してしまいます。他人のクオリアがわからないことが問題となっているはずなのに、それが置き去りにされています。
この文では「わかる」という言葉が二回使われていますが、意味合いのレベルが全く違います。それを同レベルの言葉であるかのように混同させて、逆転クオリアにおける「わからなさ」を矮小化させ、この問題を論理的に検討することから逃げています。これは知の怠慢以外のなにものでもありません。有名なフランス文学を連想させるタイトルも、白々しく感じられてしまいます。
表題作『クマのあたりまえ』でも、見逃せないごまかしがなされています。死を怖れる子グマが、石になれば死ななくてすむのではないかと思って、石の真似をする話です。しかし石には感覚も感情もないことに気づき、「死ぬのは今でもこわいけど、死んでるみたいに生きるんだったら、意味がないと思ったんだ」と、石になることをあきらめます。
この作品の問題は、感覚と感情を捨てることを交換条件として不死が得られるかのような明らかな虚偽を前提として、死の恐怖から目を背けさせようとしている点にあります。
子供向けだからこそ、ごまかしてはならないラインがあります。この作品集は、子供に真剣に向き合って書かれたものだとは思えません。