『2分の1成人式』(井上林子)

ことし、内田良の『教育という病』という新書が話題になりました。この本では、保護者や教員の虚栄心を満たすために子どもが教育とは呼べない過酷な活動を強いられ、ときには命まで奪われるような肉体的・精神的苦境に直面させられている様子が報告されています。『教育という病』で主な事例として取り上げられているのは、巨大組体操・2分の1成人式*1・運動部活動でした。ということで、子どもの人権問題に敏感な層には、すでに2分の1成人式は警戒すべきものだと認知されているはず……だったんですけどね。
2分の1成人式 (文学の扉)

2分の1成人式 (文学の扉)

主人公のゆめは、どんくさくていつも担任の先生に怒られていて、いまだに魔法少女アニメが好きな自分を恥じている小4女子。誕生日に親が魔法少女のキャラクターのついたケーキを用意してくれましたが、店の手違いでそれを同じ誕生日の同級生男子のぞみが持って帰ってしまい、恥ずかしい思いをします。そんなゆめですから、学校から出された2分の1成人式の課題もなかなかうまくいきません。一方のぞみも、母を早く亡くしていて父も忙しいため、自分の幼いころの思い出を埋めることができないでいました。ケーキ取り違え事件でのぞみと親しくなったゆめは、のぞみの記憶をたどる手伝いをするうちに自分の生き方も見直していきます。
構成がわかりやすく、〈物語〉としてはたいへんよくできています。
しかし、2分の1成人式を題材に選んでしまった以上、〈物語〉としてよくできているということは欠点にしかなりません。そもそも2分の1成人式の問題点は、理想的な家族の〈物語〉という規範にすべての子どもを押し込めてしまうところにあります。そのため、家で日常的に親に殴られているような子どもも、2分の1成人式の場では自分は理想的な家庭に育つという〈物語〉を生きているという演技を強いられ、耐え難い精神的苦痛を味わわされることになります。
この作品の重要な登場人物であるのぞみは、それほど大きな困難には直面していないひとり親家庭の子どもとして設定されています。大人の期待する〈物語〉から大きく逸脱しない範囲の少数者をアリバイ作り的に登場させていることが、この作品を一層罪深くしています。2分の1成人式を題材として児童文学をこしらえるのなら、必要なのは〈物語〉ではなく、〈物語〉への懐疑です。
それにしても解せないのは、なぜこんな作品をあの井上林子が書いてしまったのかということです。いままでの井上林子作品では、多様な家族の姿が描かれてきました。デビュー作『宇宙のはてから宝物』は、精神疾患を抱える親やアルコール依存症の親を持つ子どもが主人公となっていました。『3人のパパとぼくたちの夏』には、ふたりのパパを持つ家庭が登場します。いままでの自作に登場した子どもたちが2分の1成人式を強いられたらどんな精神的苦痛を受けることになるのか、そこに想像力を及ぼすことがどうしてできなかったのでしょうか。井上林子には期待していただけに残念でなりません。ぜひ本来の自分の立ち位置を思い出してもらいたいです。