豊岡小学校と今城神社 今昔物語
これから、校長先生から頂いた資料をもとに、豊岡小学校と今城神社、
『今』から『昔』にタイムスリップしてみます。
<平成25年:『今』>
まずは、平成25年現在の豊岡小学校です。
グラウンドと駐車場の間にフェンスが新設され、
体育館が改修(耐震工事)されました。
ピカピカです。
<今城神社>
そしてこちらが、現在の今城神社です。
小学校の東側(体育館東)にあります。
<今城宇兵衛さん墓地>
現在は四国中央市指定記念物[史跡](昭和37年4月1日指定)
となっている今城宇兵衛さんのお墓は、
小学校のすぐ南側に位置しています。
〜ここで、今城宇兵衛さんについてちょっと調べてみます〜
(四国中央市 教育委員会 文化図書課HPより引用)
『今城宇兵衛遺跡(イマジョウウヘエイセキ)について
今城宇兵衛は享保7年(1722)、19歳で豊田村の庄屋になった。
当時の豊田村は、毎年のように起きる洪水に苦しめられていた。
宇兵衛は豊田川に堤防を築くため奔走した。
享保13年(1728)、堤防普請の許可が下された。大町村側492間(886m)、
豊田村側362間(652m)の大工事で難航を極めたが、享保17年(1732)、ついに竣工した。
ところが、この年は大飢饉となり、翌18年も不作となった。
窮状を憂えた宇兵衛は直訴を計画したが、直前に密告されて捕らえられ、
享保19年(1734)、31歳の若さで処刑されたと伝えられる。
村人は宇兵衛の功績を長く伝え、宇兵衛の墓には今も香華の絶えることはない。
指定日:1962年04月01日
所在地:豊岡町豊田60』
お墓は現在、小学校側から階段でつながっています。。。
というよりは?豊岡小学校の方が、もともとあった
宇兵衛さんのお墓に近づいていったのでしょうか!?
はてさて、その謎にせまるべく『昔』へタイムスリップ出発です。
まずは豊岡小学校の真上にあがってみます。
どうですか?全体がよく見えますね。略地図にするとこんな感じです。↓
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それでは、タイムスリップに出発です!!
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<平成11年 新プール完成>
<イチョウの木>
豊岡小学校といえば、このイチョウの木
いつの時代も、ずっと豊岡の子どもたちを見守ってきました。
[:W160]
平成16年全国的な災害の年に、イチョウの木も大きな被害を受けました。
この年、この木も、樹医さんの診療を受けたそうです。
<旧プール>
以前のプールは運動場西(現公民館の南)にありました。
このプールは昭和46年に完成しました。
<日新>
昭和39年7月4日
「日新」の碑が建立されました。
<昭和26年〜昭和28年>
この年10月14日、九州、四国、中国地方を襲った猛烈な台風15号
=ルース台風により豊岡小学校の講堂も倒れ、南校舎も大破したそうです。
(ルース台風の奇跡)
その後、昭和28年に南校舎(木造)及び講堂 復興新築されました。
<昭和22年>
教育改革6・3・3制実施され、『豊岡小学校』となり、
新制豊岡中学校併置されました。
そのころの豊岡小学校の校舎配置図です。現在の配置と比べて見てみましょう。
<今城神社>
この変遷地図によりますと、『今城神社』は上図の場所(小学校の南側)
に在ったんですね!!
現在の今城宇兵衛さんのお墓の場所と合わせて考えると、
なるほど、当時の風景が目に浮かぶようです。
<二宮尊徳像>
『二宮尊徳像』は昭和18年に建立されましたが、当初は運動場の南、
南校舎前側に設置されていたようです。
<イチョウの木>
『イチョウの木』はこのとき以前からずっと今のこの場所にあったと思われるようです。
豊岡小学校の象徴『イチョウの木』、
ずっとこの場所で、豊岡小学校、子どもたちだけでなく、今城神社も、そして
私たちの豊岡のことを見守ってきてくれていたのですね。
ありがとう イチョウの木
<続く>