困ります、ファインマンさん

権威なんぞというものには、金輪際頭を下げてはならん。どんな名言であろうと、それを誰様が言ったかなどということにこだわらず、始めと終わりを必ずしっかりと見定め、はたしてそれが理に叶っているか?と、自分の心にたずねることだ

これはつまり、「ちゃんとしたデータがあって、そのデータを分析して、その分析に基づいて判断をすれば、答えは自ずと出る。」ということだろう。このうち、「判断」の過程はそれほど重要ではないと思っている。「分析」までの過程がしっかりとなされていた上で、いくつかの選択肢が残されていた場合、その選択肢はどれも正解だと思うからだ。それよりも、「ちゃんとしたデータが出ているか」や、「その分析がちゃんと出来ているか」の方が重要である。例えば、今の俺なんかは、「十分な教科書はあるのに、読むのが面倒だから、勉強していない」わけであり、これは「分析」の行程を疎かにしている例だ。インターネットがある今、「データはあるけど、面倒だから分析していない」ということが多くなっていると思う。一方、「ちゃんとしたデータが出ているか」疑問なのが、例えば政治だろう。官僚や国会議員は国のデータを全て出してくれさえすればいい。あとはマスコミやネット上の有志等がそのデータをわかりやすく国民に提示する。国民は各々でそのデータを分析し、判断する。それさえできれば何の問題もないのに、とテレビを見ながらよく思っている。

  • p.63-64:火星人から見た地球人

よほど特別なことでもない限りは不死身だと思われる火星人などが、ヒョイとこの地球にやってきたとする。彼らの目から見れば、この人間という生きものは、七、八〇年のうちには必ず死ななくてはならず、おまけにいつ死ぬかわからない命のはかなさを知りながら、なおも生きていかねばならないというつらい問題を抱えた、実に哀れな生きものに見えることだろう。しかしわれわれ人間は、心理的にやりきれない、そんな宿命を抱えていながらも、笑い、冗談をとばし、毎日を何とか生きているではないか。

火星人の視点というのは、俺も浪人時代によく考えていた。特に、3浪・4浪らへんは、周りに同じ境遇の人間がいないものだから、太平洋の真ん中を一人で漂流している気分になっていた。そこで考えるのが、「火星人が今の自分を見たらどう思うか」である。例えば、俺も高校時代はなんとなく、「1浪まではOK」と思っていた。だから、2浪すると決まった時は、「やばい」と思った。さらに、3浪・4浪すると決まった時は、「すごくやばい」と思った。でも、火星人の視点で考えれば、「やばい」なんてことは何もないのである。俺が「やばい」と思ったのは、ただ単に、周りに同じ境遇の人間がいなくて、集団から外れてしまったから、自分の立場に自信が持てなくなっていたからなのだ。集団にいる時は、周りとの相対的なポジションを考えていればよい。例えば、俺は今、薬剤師の国家試験に挑んでいるわけだが、これは、大学内でだいたい平均点くらいを取っていれば受かるようになっている。だから俺は平均点と自分の点数を比べていればいいのである。だいたい平均点を取っていれば安心できるわけだ。しかし、孤独に戦っている時はそうはいかない。周りに比べるものが無いのだ。だから、「火星人の視点」を考える。「火星人の視点」とは、いわば、自分の中の絶対的な基準なのである。「火星人の視点」さえあれば、人と違うことをすることも怖くはない。「火星人の視点」さえあれば、集団がダメになった時、そこから離れることができる。だから今は、浪人して集団を外れたことで「火星人の視点」を得ることができて、本当に良かったと思っている。あの頃、いろいろ励ましの言葉を貰ったが、その中で一番嬉しかったのは、「このまま80歳とかにもなって、まだ浪人してたらスゲーカッコいいじゃん!」という友達の言葉だ。この言葉には、「このまま浪人しつづけてもずっと応援する」とか、「大学に受からなくても良い人生は送れる」とか、いろんなメッセージが含まれていて、最高の言葉だと思うし、国家試験に挑んでいる今も、よくこの言葉を思い出している。確かに、「卒業できなかったらどうしよう」とか、「国試受からなかったらどうしよう」とか、考えないわけではないが、そんなことじゃ人生は何も決まらない。人生において、重要なことはたった1つ。命を燃やすことだ。どんな立場で何をやっているか、なんてのは全くどうでもいいことなのである。

  • p.73-79:茶首ツグミという名前がわかっても意味が無い

「・・・いくら名前を並べてみたってあの鳥についてはまだ何ひとつわかったわけじゃない。ただいろいろ違った国の人間が、それぞれあの鳥をどう呼んでいるかわかっただけの話だ。さあ、それよりあの鳥が何をやっているのか、よく見るとしようか。大事なのはそこのところだからね」と言ったのである。こうして僕は早くから、何かの名前を知っているということと、何かの意味を本当に知るということの違いを教えられたわけだ。

役職名や大学名。名前に惑わされるべきではない。ソイツが有能かどうかは、ソイツを"よく見ていれば"わかる。大事なのは、観察により気付く能力だ。そして、何に気付くかは、観察者のセンスによる。センスはあるかないかではない。磨くか磨かないかである。だから、あらゆる手を用いてセンスを磨かなくてはならない。センスを磨かずにいると、名前に惑わされる人間になってしまうだろう。

  • p.80:答えの出し方はどうでもいい

そもそもxを出すのに代数でやるとか、算数でやるとかいうことがあるものか。「代数でやる」というような考え方は、代数を勉強する生徒が皆試験にパスするように、学校が勝手に作り出したいい加減なルールに過ぎない。自分がそもそも何をしようとしているのか、その目的も意味もわかっていない者でも、やれ7を両方の項から引くのだとか、やれ乗数があるときは両項ともその乗数で割るのだとか、ただ順番に当てはめていきさえすれば答えが出せるというようなルールだ。

「目的が達成されるならば、手段は問わない」この発想はとても好きだ。例えば、写真の場合なら、目的は良い写真を撮ることである。そのためには、デジタルであろうがアナログであろうが、一眼レフであろうがコンパクトカメラであろうが、関係ない。世の中には、「このカメラで撮ったからこの写真はダメだ」とか、「この構図だからこの写真はダメだ」と思っている人がいるが、それは違う。カメラや構図は、良い写真を撮るための1つの手段に過ぎないわけで、そこから外れても良い写真を撮ることはできるのである。

去年の6月。病院実習の帰り、夕日が綺麗だった。手持ちはコンパクトデジカメのみ。いつも使っているデジカメを取りに家に帰ってると夕日が消えてしまう。手持ちのコンパクトデジカメで夕日を撮ろうと決めた。

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  • p.90-98:数の数え方は人それぞれ

トゥキーは僕とは違った方法で数えているのだ。彼は数の書いてあるテープが動いていくのを目に浮かべていたのだ。そして「メリーさんは仔羊を一匹飼っていました」と言いながら、このテープを眺めていたわけだ!これでわかった。彼はテープが動いていくのを「見て」いるわけだから、ものは読めないのだ。一方僕は頭の中で数を唱えているのだから、当然同時にしゃべるわけにはいかないわけだ!

(中略)

この実験のおかげでトゥキーと僕は、人がたとえば数を数えるなどという単純なことをやる場合、皆が皆同じことをやっているのだと思いこんでいるが、実は決してそうではなく、人によってずいぶんやり方が違うものだと悟ったのだった。

(中略)

人は何か一つの観念を説明しようというとき、すでに自分の頭の中にある考えに基づいて説明するのがふつうだ。この概念はあの考えをもとに教えられ、その「あの考え」はまた他の概念に基づき、そのほかの概念とは例の数を勘定することから来ている・・・というふうに、概念というものはレンガの壁のように積み重なっているものだ。そしてその数の数え方というのは、人によって千差万別なのだ!

最近、国試とか卒試とかのせいで、「頭の良さ」について考えることが多い。頭の良さをコンピュータに例えれば、それは2つの要素に分けることができる。1つはCPUやメモリといったスペック、もう1つはプログラムの処理方法である。スペックが良ければ、難しいプログラムをそのまま処理することができるが、スペックが悪ければ、難しいプログラムを簡略化して処理しなくてはならない。つまり、「頭が良い」とは、「スペックが良い場合」と「簡略化が上手い場合」の2つの場合があるわけだ。しかし、俺がよく思うのは、スペックによる頭の良さなんか無い、ということである。例えば、記憶力が良い人はスペックが高いという意味で「頭が良い」と言われることが多いが、ローマンルーム法などの記憶術を使えば、飛躍的に記憶力は向上するわけで、それはプログラムの処理方法によるものだ。じゃあ、そもそも「頭のスペックが高い」ということはどういうことか考えてみると、脳の中の神経細胞の数が多いとか、その神経細胞を伝わる信号の速さが速いとか、そういうことになると思うが、少なくとも脳が重いほど頭が良いという事実はないし、信号の速さはイコール化学反応の速さだからこれは誰でも同一である。というか、そういったことを考えなくとも、スペックの絶対値なんてのは個人によってそうそう変わるものじゃないんだから、「自分の脳はスペックが低い」と考えるのは非合理的だと思う。スペックが低いかどうか気にしてる暇があったら、処理方法を工夫するべきだろう。まあ、「自分の脳はスペックが低いから、人一倍処理方法を工夫しなきゃ」という発想はありだと思うが。ただ、俺の周りの優秀と言われる人を見る限り、「自分の脳はスペックが低い」と考えてる人はあんまりいないように思う。スポーツ選手が「自分には運動神経が無い」と考えないように。逆に言えば、「自分の脳のスペックは低くない、処理方法を工夫すればできるはずだから頑張ろう」と考える人が優秀になるんじゃないだろうか。

  • p.268:現場とお偉方

会が終ったときにはもう何の疑いもなかった。ここでもシールの場合とまったく同じことが起こっていたのだ。下の方では現場の技師たちが声を限りに「助けてくれ!」「これは一大事だ!」と叫んでいるというのに、上の方ではお偉方の管理職どもが、安全確保の基準をどんどん甘くしているのだ。そして設計時に予期しなかった誤りが出てきても、その原因の究明もせず、いい加減に片づける、というようなことが起こっていたのだ。

この文章を読むと、どうしても今の政治のことを連想してしまって批判したくなる。しかし、今俺が考えなくてはならないのは、「もし自分がお偉方の管理職になったら」ということだろう。立場が上の人が下の人の意見を聞くのは案外大変なのかもしれない。今、俺が怠惰な生活を送っているようでは、たとえお偉方の管理職になったとしても、下の人の意見を聞くことはできないわけだ。

  • p.319-320:科学の高潔さ

僕は科学の分野なら慣れているからわかるのだが、科学でほんものの仕事をしようと思うなら、自分が結果はこうなるべきだと思っていることに断じて左右されず、あらわれている事実をありのままにできるだけ注意深く述べることだ。また自分で理論を作りあげたのなら、その欠点と長所を公平に説明する努力をするべきなのだ。科学の分野にある人間は、そのような一種の正直さと高潔さといったものを学びとるものだ。しかし科学以外の、たとえばビジネスの世界ではそうはいかない。僕らの目にする広告だって、ほとんど全部が明らかに消費者をたぶらかすよう作られているものだ。消費者に読んでほしくないことは、虫眼鏡でも見えないぐらい小さい字で印刷してあるし、文だってわざととらえどころのない書き方がしてある。その製品が科学的に公平に説明されていないことぐらい、誰にでも一目でわかるものだ。つまり物を売る商売では、さっき言ったような高潔さなどというものは考えられない。

前半部の「科学の高潔さ」は情報が溢れている現代において非常に重要だと思う。俺が大学院に進むのも、この高潔さを身につけたいからというのが理由の一つだ。しかし一方で、後半部の「不公平な説明」も等しく重要だと思っている。「不公平な説明」とは、言い換えれば「表現」である。有限の時間の中で、自分の思ったことを人に伝えるためには、情報は厳選しなければならない、不必要なものは切り捨てなければならない。残酷なようだが、それが生命の本質だと思う。そこに命をかけられなければ、表現者ではない。

MyStrings020:オレ、勇者になる!(2929文字、ランクS)

2008年の目標は、「オレ、勇者になる!」にしました。その理由を書いて、MyStringsのとりあえずの最終回にしたいと思います。
まず、「勇者とは何か」ということについてですけど、俺にとっての勇者は、子供の頃に読んだ漫画の主人公達のことであり、その中で最も典型的な具体例が、ドラゴンボールの主人公である孫悟空なわけです。そして、悟空は典型的であるだけなく、俺にとっては最も憧れている主人公でもあります。では、なぜ俺は悟空を勇者だと思っているのか、ということを考えるために、悟空が持っている勇者の要素を1つずつ上げていきたいと思います。

ドラゴンボールの主題歌の歌詞に、「この世はでっかい宝島 そうさ今こそアドベンチャー」というフレーズがあって、悟空は作中、この歌詞の通りに世界中を(時には宇宙も)冒険するわけです。でも、じゃあ実際に、悟空に憧れている俺がこの現実世界において、単身&手ぶらで世界中を冒険できるかと言えば、そんな勇気はこれっぽっちも無いわけですよ。それはなんでなんだ、と。なぜ悟空にはできて、俺にはできないんだ、と、そう思うじゃないですか。いや、もちろん、その理由の1つとして考えられるのは、単に性格の問題ってのもあるでしょう。俺より悟空の方が圧倒的に度胸が据わってるというような。しかし、それ以前の問題として、サバイバル能力の有無があると思うんです。つまり、悟空が冒険できるのは、いざとなれば行った先で食料を調達し、生きていく自信があるからじゃないかと。もし俺が、アフリカとかに行っても、その辺の動物を捕まえて食っていけるとしたら、別にアフリカに行くのを怖いとは思わないはずでしょう?ということはどういうことかというと、もし俺が悟空のような勇者になりたいのならば、サバイバル能力を身につけなきゃいけないということですよ。そして、今のこの現代における現実的なサバイバル能力と言えば、直接食料を調達することではなく、食料を買うカネを稼ぐことだろうと。「じゃあ結局、就職することじゃないか」と思われるかもしれませんが、それはちょっとニュアンスが違うと思うんですよね。冒険をするってことは、いろんな場所に行くということであって、その行った先々でカネを稼ぐには、単一の方法ではダメかもしれないじゃないですか。自分の中にいろんな引き出しを持ってて、その行った先に合わせた引き出しを使わなきゃいけない。それは言いかえれば、引き出しを増やせば増やすほど行ける場所が増えるということです。そしてもちろん、その引き出しに入ってるものがショボかったらどうしようもないので、ある程度以上の状態を保たなくてはいけない。つまり、冒険しようと思ったら勤勉にならざるを得ないということですよ。と言うと、まるで一か所で働いている人が勤勉ではないと言ってるように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。一か所で勤勉に働いている人のことをスペシャリストと呼ぶのでしょう?ただ俺は、そのスペシャリストというものにはどうも向いていないようだから、それとは違うベクトルに向かおうとして考えた結果が、「オレ、勇者になる!」なわけなのです。

  • いかなる時も100%楽しい

思えば、悟空ほど勤勉な人間はいませんよね。だって、死んであの世に行ってまでも修行してるんですから。でもおそらく、悟空は「俺は真面目に生きてるから偉いぜ」みたいなことは考えてないと思うんですよ。あと、「仕事で溜まったストレスを遊びで解消しよう」っていう発想もない。悟空はきっと、「好きなことをやってるだけなんだから、別に真面目だとも思わねーし、ストレスなんてのもねーよ」って言うと思うんですが、これが俺の理想形なわけです。例えば、俺は今学生なので、1日10時間勉強したとしましょう。そうしたら、「やったー!俺、今日スゲー頑張ったから、自分にご褒美としてウイスキーでも飲もう!」とか思うわけでじゃないですか。これをやめたいんですよね。それってつまり、暗黙のうちに、「勉強よりウイスキーを飲むことの方が楽しい」と思ってるってことでしょう?そうじゃなくて、勉強してる時も、ウイスキー飲んでる時も、寝てる時も、起きてる時も、100%楽しいという状態にしたいんです。もし、「なぜ生きてるの?」って聞かれたら、「生きるのが楽しくて楽しくてしょうがないから」と答えたい。もっと言えば、悟空のように、死んだ後でもそうでありたいんです。(ああ、100%楽しんでいるかどうかは、「死んだ後でもそれを続けていられるかどうか」という質問で判別できるかもしれません。)

  • ひたすら明るい

これが俺にとっては一番難しくて、しかし、悟空を含めた勇者にとっては最も重要な要素だと思うんですが、とにかく明るいですよね。ポジティヴシンキングというか、そもそもネガティヴな感情が無いんじゃないかというくらい明るい。だから勇者なんですよ。どんな状況においても、あの明るさで周りの人へ勇気とmotivationを振り撒けるから。で、おそらくそれができるのは、サバイバルできる実力があって、人生を100%楽しんでいるからだとは思うんですが、それとは別の次元で必要な精神があると思うんです。それは、"肯定する精神"。つまり、今の俺が持ってる、"とにかく否定したくなる精神"をなんとかしなきゃいけないわけですよ。いや、それは世の中から否定する精神が無くなればいいと思ってるわけではなくて、「オレ、勇者になる!」と思った俺だからこそなんとかしなきゃいけないわけなのです。そこで、とても参考となるのが、俺が去年知った"シリコンバレーの精神"ってやつです。と、ここで、最近シリコンバレーから日本に戻られた、はてなの近藤社長のブログを引用します。

僕がアメリカで英語サービスを作ってみたいんだ、と話すと、「そりゃなんて素晴らしい挑戦なんだ!応援するよ。Junyaなら絶対うまくやるよ!」とこちらが驚くくらいの勢いで励ましてくれる。まだ形すら存在しないものを、なぜそれほどまでに肯定できるのかと自分でも思うほどの言葉をたくさんの人に頂いた。その言葉に何度助けられたか分からない。

シリコンバレーには、こういう明るさがシャワーのように降り注いでいる。冷たい水を浴びると、どれだけ勢いのある人でも体が動かなくなってしまうだろう。温かいシャワーを浴び続けてようやく、新しい芽が育つ。そういうことが分かっているからなのか、あるいは半年以上晴れっぱなしの陽気な気候のせいなのか分からないけれど、とにかくみんなフレンドリーだ。

考えてみれば、シリコンバレーは勇者の集まりなのかもしれませんね。
ところで、"否定する精神"を"肯定する精神"にするアイデアがありまして、それが、「否定したい対象の逆を肯定してやればいいじゃん」ってことなんです。例えばですけど、「日本ではなんでもかんでも否定されるからダメだ」って言いたくなったとしたら、その言葉をグッと抑え込み、「シリコンバレーではなんでもかんでも肯定されるから素晴らしいんだよ!」という言葉に変換して言えばいいんですよ。その方が気持ちいいじゃないですか、否定的な文を並べるより。

  • 最後に

最後までこんな文章を読んで頂き、どうもありがとうございます。おそらく、「なんて幼稚なんだ」と思われた方が多いかと思いますが、もうそれはいいんですよ。「ガキだ」とか、「変だ」とか、「悩みがなさそう」とか、そういうのは全部ほめ言葉として受け入れることにしましたから。イチローが敵地で浴びるブーイングみたいなものだと。というか、「こんなバカでも立派に生きていけることを証明してやろう」と最近は思ってます。それよりも、もっとバカになることを考えなきゃいけないでしょうね。空気が読めないことを恐れてちゃダメですよ。空気ばかり読んでたらバカにはなれませんから。だいたい、ジャンプの主人公ってのは大抵がバカでしょう?

茂木健一郎-「脳を活かす勉強法」

いや、この本、マジで凄いっすよ。俺がもしこの本の内容を小学生くらいに理解してたら、どこの大学にでも楽勝で入れたんじゃないかと思ったくらいです。ちがうな。そう思ったのは事実だけど、感想としてはもっと重要なことがありますわ。それは、「この本を読めば、その後の人生が無限に楽しくなる」ってことです。いや、これ本気で言ってますよ。

学習することが上手くなれば学歴を得られるから、良い就職ができて幸せに暮らせる?そんなクソショボドムスな理屈じゃねんだよ!そうじゃなくて、

向上するということは学習するということであり、その学習が無限に楽しくなれば無限に向上することができる。無限に向上した結果できあがるのは圧倒的な力を持ったプロフェッショナルであり、そのプロフェッショナルは向上する過程が既に無限に楽しい上に、さらに多くの場合で結果も伴うから、またさらに無限の楽しさを得る。それが人生を無限に楽しんでいるという状態である。

これが真相なんすよ!
で、この本にはその最初の一歩であり、また最も難しいハードルである「学習が無限に楽しくなる方法」が書かれてるわけ。いや、別に年齢なんか関係ないっすよ。90歳でも100歳でもきっと無限に楽しくなれるから。そりゃあ確かに、俺がいくら言っても信用されないでしょうけど、でも、この本では茂木さんが科学的にそう言ってるんだからさ。とりあえず皆さんも読んでみたらいいと思うわけです。

MyStrings019:脳の等価原理仮説(1170文字、ランクB)

最近、「誰の脳もポテンシャルはほとんど同じなんじゃないか」ということを考えています。略して、"脳の等価原理仮説"。

こんなことを書くと、反論として、「そんなわけないだろう、例えば遺伝的に記憶力が良い人と悪い人っているじゃん」と言われそうですけど、それは俺の"脳の等価原理仮説"によればこういうことになるんです。「誰の脳にも、"一度見たら忘れない"くらいの記憶する回路はある。ただ、記憶力が良い人の脳はその回路が70%程発現しているのに対して、悪い人は30%程しか発現していない、つまり遺伝的に記憶力が良い人っていうのは、あらかじめ回路が発現してる人のことを言う。」と。

もう少しわかりやすく言いましょう。例えば、俺、ナスの漬物が嫌いなんですよ。嫌いというか、どうしても美味いと思えないんですが。でも、世の中にはナスの漬物が大好きな人もいるわけですよね。この差って、"脳の等価原理仮説"を用いると、ナスの漬物を美味いと思う回路が発現してるかどうかの差だと思うんです。つまり、俺がナスの漬物を美味いと思えないのは、ただ回路が発現していないからなだけで、本当はナスの漬物が好きなはずだと。

まあ、この仮説はおそらく反証不可能なので、皆さんは「そう言われるとそうかもな」なんて思ったかもしれませんが、もしこれが本当だとするとかなり大変なことなんですよ。だって、もし、全世界の人間の脳が"ほぼ"等価だとするならば、どんな犯罪者の回路も、どんな天才の回路も、あなたの脳の中に潜んでることになるわけですからね。言い方を変えると、全ての人がアインシュタインにもヒトラーにもなりうるわけです。

ただし、等価なのは脳だけですから、これに体が関係してくるとそうもいかなくなります。身体による制約ってやつです。例えば、一流のスポーツ選手の脳回路なんていうのは、その人の鍛えられた体があってこそ発現した回路ですから、それは他の人が発現することはないわけですよ。だから、才能や個性というのは本来は身体性の話であると思うんですが。

話を戻しまして、この仮説によって俺が一番言いたいことって言うのは、"マイノリティこそ宝の山"ってことなんです。つまりどういうことかというと、例えば、この世の中で俺だけが良いと思っているものがあるとしますよね。でも、それを迂闊に周りに薦めるとまず批判をくらうと思うんですよ、"俺だけ"が良いと思っているものですから。「そんなのはダメに決まってるだろう、良いと思ってるのはこの世でオマエだけだよ」なんて言われるんじゃないでしょうか。でも、"脳の等価原理仮説"からすれば、俺が良いと思ってるならば、この世の全ての人もそれを良いと思える回路を内蔵してるわけですよ。ということは、もし俺が他の人の回路を発現させられれば、俺はパイオニアになれるというわけです。

MyStrings018:"多様性"と"ひも"(1593文字、ランクA)

前回書いた、「"頑張る"ということが本当に必要かどうか」という問題についての答えが"多様性"だと思っているわけです。つまり、頑張ることも頑張らないことも、多様で良いだろうと。

そもそも、なぜ「"頑張る"ということが本当に必要かどうか」ということを考えるようになったかというと、1つは前回の"都会と田舎の比較"だったんですが、もう1つは今年の春に美術館に行ったことが大きく関係しているんです。

そう、今年の春、美術館というものに行ってみたくて新潟市美術館に行ってみたのですが、そこでは企画展示として偶然に"青山二郎展"というものが開催されていたんです。青山二郎という人の名前に関しては、実はいつも聞いている茂木健一郎さんの音声ファイルの中で度々出てくる名前だったので聞いたことはあったのですが、特に何をした人なのかということは知らない状態でした。というか、見ている間も見終わった後もイマイチわからなかったのですが、家に帰ってネットで検索したり、また新しい茂木さんの音声ファイルを聞いたりして、「生涯職業に就くことはなかった」という情報を知ったのです。

「そうか」と思いましたね。俺は今まで、幸せな人生を送るためには仕事を"楽しんで"やらなければいけないと思ってたけど、そうじゃなかったわけです。幸せな人生を送るための必要条件は、"何でもいいから"幸せを感じられればいいということだけなんですよ。確かに、日本の憲法には"労働の義務"が書いてあるようですが、この宇宙の方程式にはそんなものは書かれてませんからね。

つまり、バリバリ働いてやりがいを感じるのも、そうではない方法で幸せを感じるのも、"多様性"の中の1つなのです。ああ、俺は「幸せを感じるために」生きているので幸せ度合が絶対的な評価軸になってますけど、そうじゃない人だったら、そもそも幸せにならなくたっていいわけですし。

でも、「だったら、どんな人生も等価なのか?」という疑問が生じますよね。夢をかなえた自分と夢をかなえなかった自分の人生はどちらも等価なのかと。

例えば、俺は今、試験期間真っ只中なのですけど、"多様性"という言い訳を盾にして全く勉強せずに試験受けることも可能なわけです。「一生懸命勉強して良い成績をとるのも、全く勉強せずに悪い成績をとるのも等価じゃねえかよ。だって、勉強したからって幸せになるとは限らねえだろ?」と。

これはつまりこういうことなんですよ。

Q1:「"頑張る"ということが本当に必要かどうか」
A1:「頑張ることも頑張らないことも、多様で良い」

Q2:「だったら、どんな人生も等価なのか?」

で、このQ2の答えが「自分の"ひも"に従え」だと思うのです。・・・ああ、ここで言う"ひも"とは"無意識"と読み替えてください。つまり、「頑張るかどうか」とか、「勉強するかどうか」ということの答えは自分の無意識に聞けば教えてくれるはずだと。

俺、中学生の時、英語で35点取ったことがあったんですけど、その後なぜか「やばい」という気がしてメチャクチャ勉強したんです。「自分の"ひも"に従え」ってそういうことなんですよ。自分の無意識は「どうしたら幸せになれるか」という問いの答えを全部知ってるから、その指示に従ってれば自然と幸せになれるはずだと。

逆に言うと、不幸になってしまうのは、何らかの理由でその指示を無視してしまうからだと思うんです。例えば、「一生懸命頑張った方が幸せになれるはずだ」と思いこんで、体が悲鳴を上げてしまってるのに無理をしたせいで病気になってしまったとか。または、無意識が「お前もっと頑張れよ」と言ってるのにそれを無視して、「全く勉強せずに悪い成績をとるのも等価じゃねえかよ」と屁理屈を盾にサボったり。

まあ、つまり、「無意識("ひも")と対話しながら生きていったらそんなに悪い人生にはならないよ」と思ってるわけです。

MyStrings017:豊かさ(808文字、ランクE)

前々回、「ふと思い返せば、この5〜6年の間の俺は、"やる気"をいかに高めるかということだけを考えていたように思います。」と書きました。これは言い換えると、「この5〜6年は"スタミナの管理技術"のことをメインに考えてた」ということになるんですが、実は、今の俺がメインに考えてることは違うんですよ。

つまり、「頑張るためにはどうしたらいいか」という問題は俺の中ではもうほとんど解決されてしまったわけです。今俺が考えてることは、その前提となっている"頑張る"ということが本当に必要かどうか、ということなんですよ。

「何をやる気のないことを言ってるんだ」と思われるかもしれませんし、自分でもそう思わないでもないんですが、違和感を感じてしまったんですよね。雑念を捨てて、ストイックに生きることに。だって、雑念を捨てることって無意識を無視して、意識中心で生きることじゃないですか。

ところで、俺は大体2か月に1度、昔住んでた東中野(東京都中野区)で髪を切って、そのついでに新宿あたりを散歩してくるんです。そしてその一方で、長期休みになって新潟に帰ると、必ずじいちゃんと新潟周辺県で2泊以上の旅行をする。なので、地方と都市のギャップをとても感じているわけです。

いや、新宿とかを歩いていて思うんですけど、ホント都会ってバカですよね。なんであんなに窮屈なんですか。人が多すぎて気持ち悪いじゃないですか。あれがつまり、みんなが"頑張った"結果なわけでしょう?頑張って、意識中心で考えていったら"豊かさ"の欠片も無い世界になってしまったわけですよ。

それに比べて、です。↓の写真は、去年の夏、秋田の鳥海山の5合目で見た景色なんですが、これを見たら、「なんだ頑張らなくても"豊かさ"はあるんじゃないか」と思ってしまったんですよね。例えば、毎日六本木ヒルズとかでバリバリ働いてる人と、この鳥海山の5合目で山小屋をやってる人では、どちらが裕福なのかと。



MyStrings016:スタミナの管理技術(1261文字、ランクC)

今回は"スタミナの管理技術"の話ですね。

じゃあまず、体力の話なんですけど、たぶん体力って、ある程度使ってあげた方がそれがやる気に転化して全体的なスタミナ値は上がりますよね。例えば、俺なんかは車を洗う時とかそうですけど、洗ってるうちに、なんかテンション上がってきちゃうみたいな。ああ、でもこれは勉強とかでもそうだから、体力に限ったことじゃないのかも。「ある程度スタミナを消費した方がスタミナ値は上がる」という法則と言えるでしょうかね。まあ、いずれにせよ、「休めば休むほどスタミナ値は回復するわけじゃない」ということが言いたいわけですよ、適度に活動することがスタミナ値を上げるポイントだと。

あと、俺が心がけてるのは、「シャキッとする」ってことですね。例えば、背筋を伸ばすだけでも結構スタミナ値は上がりますし、あと、朝早く起きてシャワーを浴びてWAXをつけて学校に行くのもかなり有効だと思います。たぶんこうすることによって、脳が戦闘モードになるんでしょう。だから逆に言うと、家に帰ってきて服を着替えると途端にやる気がなくなってしまうんです。

「小さい成功を重ねる」ってのも割と大事にしていて、これの典型的な例が競馬なんです。金額は少なくても馬券が当たった翌日ってのは気分がいいんですよ。でも、当たり前だけど競馬は負けることも多いわけで、負けた次の日はパフォーマンスが3割くらい低下します。なので、そういう意味じゃ競馬は"管理技術"に向いていませんね。向いているのは、俺の場合は料理とブログでしょうか。これらは上手くいった場合、結構スタミナが回復してると思うんですよね。あと、今はやってないけど、有機化学の勉強もそうでした。マクマリーを目標までまとめられると、その後なんとなく気分がいいんですよ。

そして重要なのが「環境を整える」ということですね。例えば、ものすごく汚い部屋に住んでたらそれだけで、大量のスタミナを消費してしまうわけでしょう。それに対して、住みやすい環境にいればそれだけやる気もでますから。俺は思うんですけど、頑張れる人と頑張れない人の差って、はっきり言って環境の違いでしかないと思うんですよ。つまり、頑張れる人は頑張れない人より精神力が優れているんじゃなくて、環境がいいんだと。それは逆に言うと、頑張れる人ってのは自分に適した環境にするための努力をしてるんだと、そう思うんです。

あと、「ショックを与える」ってのも俺は好きでして、たまに大食いをしてみたりするのはそのせいなんですよ。つまりそこで気分をリセットすることで、停滞していたスタミナ値を回復させるためのきっかけになるわけです。この間PSP買ったのも結果的にそうなりましたね。

最後に、「感情を選択する」ってこともしてます。例えば、俺はちょっとくらい気に入らないことがあってもあんまりムカつかないようにしてるんですが、それってスタミナを消費させたくないからなんですよ。逆に、確信犯で怒ってやる気出す時もありますが。

まだあるかもしれないけど、もしあったら追記します。