安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に救われても、煩悩そのものは変化しません(質問さんのコメント)

質問さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証信巻)
臨終一念の夕に、仏のさとりをひらきます。これを往生即成仏といいます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547586

引用場所が教行信証の「信」巻である、ということが重要のように感じました。「真の仏弟子」について親鸞聖人解釈されたところですね。
その少し前に、「大願清浄の報土には、品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。」とここにも「横超」が出てきますので、関連深いと思いますが、

「臨終一念の夕」と「一念須臾」は、同じとき(時節)を差す一念でしょうか?(質問さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547586#c1244550561

臨終一念の夕べというのは、臨終のときをいいます。命が終わると同時にという意味です。
一念須臾は、一念も須臾も短い時間を指す言葉ですから、言葉の意味がそもそも違います。

また、「臨終」とは何の臨終でしょうか?(同上)

命が終わる時をいいます。この肉身の命が終わることです。

また、獲信とこの「臨終」の時間的関係は、どのようになっているのでしょうか?(同上)

時間的関係というのは、いつ臨終を迎えるか分かりませんが、親鸞聖人のお言葉通り、「横超の金剛心を窮むる」(獲信)が先で、そうなった人が念仏の衆生です。その念仏の衆生が、臨終一念の夕べに、仏のさとりを開くのだといわれています。

また、往生即成仏の「往生」と「臨終」は、同じとき(時節)を差すのでしょうか?(同上)

臨終とは「臨命終時」の略で、命がまさに終わろうとする時のことです。
往生とは、「浄土に往き生まれる」のことです。

「往生というのは、浄土にうまるという也」(尊号真像銘文)

よって、同じときではありません。

それから、超証する「大般涅槃」と「無上正真道」は、本質的に同じさとりの内容でしょうか?(同上)

同じです。阿弥陀仏にただ今救われた人がさとる証には、別のものはありません。

前回質問しました
「獲信後から成仏までの間、煩悩はどうなっていくのでしょうか?」
につきまして、煩悩が出てきた時に、その煩悩(苦しんでいる状態)と摂取不捨の関係がどうなのか、阿弥陀仏の光明が煩悩に苦しんでいる人(獲信者)にどうはたらくのか、教えて頂きたいという趣旨でした。宜しければ、コメント・ご回答頂けますと幸いです。(同上)

煩悩そのものは、なにもかわりません。
煩悩が出てきたときというのは、煩悩が出たり消えたりする前提ですが、煩悩具足の凡夫の私から煩悩は出たり消えたりしません。
縁によって、欲や怒りや愚痴の心は出てきますが、摂取不捨の利益に救われていても、煩悩は何も変化しません。
そのことをいわれているのが正信偈の御文です。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
(摂取の心光は常に照護したもう、已に能く無明の闇を破すと雖も
 貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり)

阿弥陀仏に救われても、貪欲愛欲、怒りや憎しみ雲や霧が常に真実信心の天を覆っているのです。雲や霧には何も変化はありません。
ただ、往生の障りにはならなくなるだけです。