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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-07-06 心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します

心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します(メールで頂いた質問)

あるブログをみていると

心常念悪を心常念悪と疑い晴れたいうことは、はるかに人智を超えている。ちょっと聞いて分かることではありえない。

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/f6a21f4d71ec1e93bd2f869df9d32798

とありました、私もそのように考えていたのですが、阿弥陀仏に救われ、無明の闇が晴れると、心常念悪に疑いが晴れるということなのでしょうか(メールで頂いた質問)

メールの文中に、掲載されたブログURLが書いてあったので、このエントリーをトラックバックしてみました。

回答します。

結論から言いますと、阿弥陀仏に救われて知らされる姿は、機の深信であって心常念悪ではありません。

機の深信とは、以下のお言葉です。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

ここにあるように、はるか過去から現在も、出離の縁があることの無かった自分であると、深信したことをいいます。深信とは、深く信ずると言うことですが、露チリの疑心が無くなったと言うことです。

ここで、疑心という言葉は、疑情であり、自力の心のことなのですが、疑煩悩とイメージが重なりやすいので、別の言葉で「条件をつける心」とします。

機の深信が立つまえ、阿弥陀仏に救われる前は、「出離の縁あることなし」ということにも「条件をつける心」で条件をつけます。

たとえば「極悪の自己が知らされねば」出離の縁はあることなしである。

「心常念悪と知らされねば」出離の縁あることなしである。

「心常念悪だから」出離の縁有ること無しである。

「聞法心が弱いから」出離の縁あることなしである。

救われない自分に条件をつける心が、自力の心です。条件があると思うから、自分の心にいろいろと条件をつけ、勝手にコーチをする心です。

「もっと自己を見つめよ」

「もっと悪を見つめよ」

「もっと強い聞法心を起こせ」

「もっと命がけになれ」

そうならないと、助からないぞ、救われないぞという心が条件をつける心であり、自力と言うのです。阿弥陀仏にかわって、かってに条件をつけ自分をコーチするのです。

阿弥陀仏に救われれば、条件をつける心がなくなるのですから、無条件に助からないと知らされるのが、機の深信です。

無条件に救うのが、阿弥陀仏の本願です。本願について条件をつける心がなくなるので、これを法の深信といいます。

無条件に救われない自己の姿が知らされるのが、機の深信です。

ですから、心常念悪だからと条件をつけるのは、自己の姿に条件をつけているので、救われて出てくる言葉ではありません。

S会会員S会会員 2009/07/07 00:23  機の深心とは『阿弥陀仏のお力によらなければ絶対に流転
輪廻から抜け出せる自分でなかった』と知らされるというような
ことを言われているんでしょうか?
もしそうなら二種の深心とは絶対矛盾するようなこころでは
ないような気がします。二つの正反対のことが一念同時に知ら
されるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦とか大仰
なことをいう人は間違っているということでしょうか?

あほうどりあほうどり 2009/07/07 14:48 S会会員様

二種深信は、善導大師が観無量寿経の「深心」を表されたものです。
この場合、観無量寿経の「深心」と言っても、隠彰弘願の意味ですので、大無量寿経の「信楽」のことであり、真実信心のことです。
従いまして、二つの心があるのではありません。
その点の誤解から、「矛盾」と言われるのでしょう。
真宗学の学者や哲学者の表現の中に「矛盾的」とか「矛盾性」とか「矛盾のように感じる」というものはあっても、それがそのまま矛盾であると言うのは間違いです。

さて、機の深信についてのよくある間違いは、「自己の罪悪を掘り下げていき、徹し切ったところに、いわゆる機の深信が立ち、救いがある」といった類のものです。
簡単に言えば罪悪観と機の深信との混同です。

S会会員さんのご質問は
機の深心とは『阿弥陀仏のお力によらなければ絶対に流転輪廻から抜け出せる自分でなかった』と知らされるというようなことを言われているんでしょうか?
ですが、この中の“阿弥陀仏のお力によらなければ”の部分は違いますね。
機の深信をS会会員さんの言葉を使って表現するならば、
罪悪深重の私には、迷いの世界から出離するのに間に合うものは一つもなく、過去も現在も未来も、流転輪廻から抜け出せる自分でない、と信知する。
となります。

二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、
絶対に理解できないとか、
絶望への挑戦とか、
につきましては、

「二つの正反対のことが一念同時に知らされる」
→上に書きましたように、二種深信は二つの心ではなく一つの心です。
 前後があるのでも、並んで起きるのでも、いずれか一方が他方の条件であるのでもありません。
 また、別の角度から言えば、この表現では一念覚知の恐れがあります。

「絶対に理解できない」
→凡夫の智恵ではかれないということならば、死ぬまで理解できません。
 だから不可称不可説不可思議の信楽と親鸞聖人は仰っています。
 では、分からないのかと言うと、
 「聞いてみなんせまことの道を 無理な教えじゃないわいな」
 とおかる同行も言っていますね。

 聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり(正像末和讃)

「絶望への挑戦」
→挑戦するのはいいですが、間違った場合の責任は誰が取るのでしょうと言いたいです。

S会会員S会会員 2009/07/07 20:19 あほうどり様
ご回答ありがとうございます。してみるとT会長はそれほど間違った
ことはいってないということですかね。罪悪感を掘り下げていった先
に機の深信があるとは会長が言ったことはないと思います。また二つ
の心とも言ったことはないと思います。ただ『助かるに間違いなし』
『堕つるに間違いなし』と二つの正反対のことが一念同時に知らされ
るというようなことは言っていたとは思いますが・・・。
そういえば、自分の罪悪を形にしたら、大宇宙にもおさまりきらな
いというような表現をしていましたが、もしこうしたことが知らさ
れるとしたら一念の時に知らされるんでしょうか?それとも段々知ら
されていくんでしょうか?それとも信心決定してもこのような知らさ
れ方はしないのでしょうか?
以上、宜しくお願いします。

あほうどりあほうどり 2009/07/07 21:42 S会会員様

私はS会会長が言っていることが100%間違いだとか、100%正しいとか、あるいは、50%間違いで50%正しいなどと批評するものではありません。
一つ一つの論題について、問答する場がこの「安心問答」と思っております。
「問答」ですので、種々の意見が出るのもまた、結構ではないでしょうか。

さて、先の説明と合わせて読んでいただきたいのですが、つづまるところ
機の深信=信機=捨機=捨自=「自力無功」と信知する
ということです。
従いまして、法の深信と矛盾するはずもありません。
初後一貫する、まさに機法二種一具の深信です。

“『助かるに間違いなし』『堕つるに間違いなし』と二つの正反対のことが一念同時に知らされ
る”
とありますのは、先にも述べましたように、
1.罪悪観と混同する恐れ
2.一念覚知の恐れ
がありますので、不適切と考えます。

ご質問

自分の罪悪を形にしたら、大宇宙にもおさまりきらないというような表現をしていましたが、
もしこうしたことが知らされるとしたら一念の時に知らされるんでしょうか?
それとも段々知らされていくんでしょうか?
それとも信心決定してもこのような知らされ方はしないのでしょうか?

につきましては、
「自分の罪悪を形にしたら」という表現の意味がわかりかねます。
ただ、何度も言っておりますように、機の深信と罪悪観は違います。
上に述べられていることは、罪悪観ですので、各人異なります。
(これも何度も言っておりますように、一念の時に知らされるという表現は引っかかります)

papapapa 2009/07/07 23:16 S会会員様
「罪悪感を掘り下げていった先に機の深信があるとは会長が言ったことはないと思います。」と書かれてありますが、6月21日の降誕会で
はっきりと、「親鸞聖人は20年間の比叡山でのご修行をされたから、いずれの行も及びがたき身、と知らされ、すべての人を極悪人と誓われた本願と相応した」と
言い切られました。
機の深信との言葉こそ出てきませんでしたが、「極悪人と誓われた本願と相応」=「機の深信」ではないでしょうか?
本願と相応する罪悪感など、それこそ何十年、聞いたことがありません。
願力によってのみ本願と相応すると、ずっとT先生が説かれていたからこそ、降誕会の発言にはびっくり仰天した次第です。
(驚いている人があまりいないのもまた驚きですが・・今までどのように聞いてこられているのかと。)

S会会員S会会員 2009/07/08 10:14 あほうどり様
回答ありがとうございます。ただますますわからなくなったので
お教えください。機の深信とは極悪最下のものとすべての人が
知らされると思ってきましたが、これは罪悪観にすぎず信心決定
してもひとりひとり罪悪観は違うということを言われているんで
しょうか?
・またたしか教学聖典に7高僧方の機の深信云々という問題があったと思いますが、たしか
竜樹菩薩・・ネイ弱怯劣
天親菩薩・・普供諸衆生
曇鸞大師・・?
道綽禅士・・もし悪をつくることを論ずればなんぞ暴風シ雨に異ならんや
善導大師・・機の深信
源信僧都・・予が如き頑魯のもの
法然上人・・愚痴の法然坊、十悪の法然
これも罪悪観にすぎない(善導大師はちがうでしょうが)ということでしょうか?

papa様
「親鸞聖人は20年間の比叡山でのご修行をされたから、
いずれの行も及びがたき身、と知らされ、すべての人を
極悪人と誓われた本願と相応した」といったとのことですが、
単にいい間違えただけではないでしょうか。
(修行時代があったから罪悪観が深まり、法然上人のもとで真剣
 に聴聞せずにおれなかったからそのおかけで・・・といいたか
ったんですよ、きっと、でも高齢だから・・・)
そのように言ったのは事実なのでしょうが、ただ
三願転入でまず諸善をしなければならない、精一杯
しなければ、この道絶対すすめませんという思想を受け入
れた時点で上述の言動とはあまり矛盾しないように感じます。
まあ今までは確かにこういう部分は気をつけて話をしていたように
思いますし、決定的なことは言わなかったと思うのでそういわれる
のはわかります。

あほうどりあほうどり 2009/07/08 12:31 S会会員様

お答え1
「機の深信とは極悪最下のものとすべての人が知らされる」ことではありません。

◇その説明
今話題になっているのは、機の深信ですが、二種深信のお言葉をおげておきます。
善導大師の「二種深信」のお言葉と言われるものは次の2つです。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)

二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)

さて、この2つのご文を読んで分かることは何でしょうか?
何を深く信ずるのか、何が信知させられるのでしょうか?
散善義のご文を使って縮めて言いますと、
「自身は無有出離之縁の者なり」
となります。
では「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」は何を表しておられるのかというと、「自身」の様を表して、「無有出離之縁」の理由を示されたものです。
往生礼讃はその部分が、「善根薄少」となっていますね。
極悪最下とは書かれていません。
ところが、「散善義」のご文で「無有出離之縁」よりも「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」に重点を置いた読み方をしますと、罪悪観の極まりが機の深信であると誤解するのです。
重点は「無有出離之縁」にあります。

お答え2
S会発行の教学聖典(2)24
問 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。
答 (省略)
についてですが、実機(=素機、衆生本分の機、衆生性得の機、お目当ての機)を善導大師を除く七高僧方がこのように仰ったというのなら、間違いではないです。
ご質問ではこれらが機の深信であるかのように書かれていましたが、機の深信ではありません。
機の深信と理解されたら間違いです。
それぞれの方々(善導大師を除く)が自己をみられてのお言葉です。
仰る通り罪悪観です。
従いまして、「機の深信」≠「実機」ですし、「機の深信」と「罪悪観」を併記してある教学聖典の答は誤解を招きます。

補足
ご質問の中に「罪悪観にすぎない」という表現が出ていますが、私は罪悪観などどうでもいいと言っているのではありません。
自己の罪悪を観ることは信前信後を通して大切なことです。
「仏願の生起本末」の「生」に当たるのですから。
ここではあくまでも「罪悪観」と「機の深信」とは違うということを理解して下さい。

S会会員S会会員 2009/07/08 16:45 あほうどり様
なるほどなるほどなるほど、よくわかりました。ありがとうござい
ます、ありがとうございます。そういうことでしたか。ここ一年ほど
ずーっとわからなかったことがわかりました。ありがとうございま
した。

papapapa 2009/07/08 18:30 S会会員様
「単にいい間違えただけではないでしょうか?」とのことですが、間違えていいところと間違ってはいけないところがあると思います。
80歳と100歳の言い間違いなら気になりません。
「どうしたら救われるか?」という最も大切なところです。
捨自帰他の教えを間違えて伝えては、浄土真宗になりません。「願力」と一言も言われなかったのですよ。
言葉は命です。言葉で伝えるしかないのですから。
T先生は「わしがもし親鸞聖人の教えを間違えて伝えたら切腹する。」とずっと言われていました。
高齢で説ききれなくなったのなら、説法すべきではないと思います。

S会会員S会会員 2009/07/08 19:53 papa様
お気持ちはわかります、自分も長いこと聞いてきて、それが間違
いじゃあないかと思い始めて非常に苦しみました。
仰られる言葉は確かにその部分だけで見たら間違いであるとは
思います。ただ自分は会長は信心決定していないと思いますし、
自分のために法を説いていると思っていますので、
(いろんな人の話や盗作した方々の著書でそう思っています。)
そうした思いを前提にした感想であることをご了承いただければ
と思います。

marymary 2009/07/08 21:28 あほうどり様
 おほうどり様のコメントの内容を確認させてください。
S会会員様の『機の深心とは『阿弥陀仏のお力によらなければ絶対に流転輪廻から抜け出せる自分でなかった』と知らされるというようなことを言われているんでしょうか?
に対して、『“阿弥陀仏のお力によらなければ”の部分は違いますね。』と答えられています。
これは、機の深信とは、『阿弥陀仏の願力からも漏れた、出離の縁のない私であった。』と知らされるという理解でよいでしょうか?
よろしくお願いします。

あほうどりあほうどり 2009/07/08 21:48 mary様

いえいえ、そういうことを言ったのではありません。
善導大師の「機の深信」のお言葉に「阿弥陀仏の・・・」ということは無いですね。
ですから、山も山さんも「どちらかというと・・・」と書かれたのでしょう。
すでに書きましたように、真実信心の二つの相を示されたのが、二種深信ですから、ややこしく考えずに、そのまま受け取ればいいですよ。

marymary 2009/07/08 22:41 あほうどり様
 機の深信は、本願文の「唯除五逆誹謗正法」から起きる、と以前聞いてきたものですから…。
阿弥陀仏の本願からも除かれているから、助からない自己が知らされる、と。
それで納得していたつもりなのですが、この説明自体は合っているという理解でよいでしょうか?

KK 2009/07/08 23:11 あほうどり様

ご無沙汰しております。お尋ねしてよろしいでしょうか・

>“『助かるに間違いなし』『堕つるに間違いなし』と二つの正反対のことが一念同時に知らされ
る”
>とありますのは、先にも述べましたように、
>1.罪悪観と混同する恐れ
>2.一念覚知の恐れ
>がありますので、不適切と考えます。

ここで一念覚知とはどういう意味でいわれているのでしょうか?
「救われた年月日に覚えがなければならないという異安心」とは違うようですが。

あほうどりあほうどり 2009/07/08 23:34 mary様

先に説明しましたように、
二種深信=信楽=真実信心
です。
機の深信はその一つの相です。
少し難しく言いますと、自力無功を表します。
(これも既述ですが)

一方、
唯除五逆誹謗正法
は、実機を示されたものです。(実機については既述)
「本願からも漏れていたぁ・・・」等というのも罪悪観です。

ですから、mary様が聞いておられる説明は、機の深信と罪悪を混同するものであり、間違いです。

[補足]
これまでの説明が分かりにくいと感じられるならば、
親鸞聖人の正信偈の源空章の四句
還来生死輪転家
決以疑情為所止
速入寂静無為楽
必以信心為能入
の前二句が機の深信の意、後二句が法の深信の意と思われたらよいでしょう。

あほうどりあほうどり 2009/07/08 23:53 K様

一念覚知説のことですよ。
一念覚知説とは「救われた年月日に覚えがなければならないという異安心」とだけ思っておられるようですね。
もちろんそれも一念覚知説ですが、一念覚知説にはいろいろなバリエーションがあります。
大きな問題ですし、それらについて論じていきますと、一つの論文ができます。
歴史的には「三業惑乱」について論及しなければなりません。
今日のところは取り急ぎ、簡単な答えのみにしておきます。

marymary 2009/07/09 07:40 あほうどり様
 大変よくわかりました。
ありがとうございました。

KK 2009/07/09 22:49 あほうどり様
一念のときに何か知らされる体験があってそれが弥陀の救いだというような意味なのでしょう。
それだと逆に、何も知らされないのかと十劫安心のように思う人も少なくないのではないかと思いまして。

>“『助かるに間違いなし』『堕つるに間違いなし』と二つの正反対のことが一念同時に知らされる”
この記述ではどんな恐れがあるのかという点につきましてお答えいただけたらと思います。

あほうどりあほうどり 2009/07/09 23:18 K様

一念覚知説については、簡単な例を列記しましょう。
・獲信の年月日時を覚えていなければならない。
・「おお!今、獲信したぞ!」とはっきりする。
・あの時獲信したに間違いない。
などは、皆、一念覚知説です。

知らされるとか知らされないというのは、三業の分際のことですから、それで信心を判断できません。
そういうのを三業安心と言います。
一念覚知と三業安心は機執についての異安心ですので、近いものです。

“『助かるに間違いなし』『堕つるに間違いなし』と二つの正反対のことが一念同時に知らされる”
この表現ですと、すでに正反対と認識している二つの心がありますので、間違いです。
たとえば、よく聞かれる例で言いますと、“「明来」と「闇去」とは正反対のことではなく、同じことを別の相で表現したもの“ということと同じです。
次に、「二種一具」=「一念同時」(この場合の一念は、初起も後念も含む)とするのは、正しいです。
もともと一つの心の説明ですので当然です。
しかし、この文章の意図するところを察するに、一念で分裂した二つの心が起きて云々ということですから、一念覚知の恐れがあるということを言ったのです。

KK 2009/07/11 07:14 あほうどり様
ご回答有難うございます。
・獲信の年月日時を覚えていなければならない。
> ・「おお!今、獲信したぞ!」とはっきりする。
> ・あの時獲信したに間違いない。
これが異安心だというのは分かります。

> ・「おお!今、獲信したぞ!」とはっきりする。
これがよく分かりません。
「ただ今救われることが必ずあります」というのとどう違うのでしょうか?
初起の一念は認識できないということなのでしょうか?

あほうどりあほうどり 2009/07/13 07:06 K様

「ただ今救われる」とは「平生業成」「一念往生」のことです。
一念は当然あります。
いつとはなしに救われるとか、だんだん救われるとか、初めから救われているなどは間違いです。
しかし、仰る通り、初起の一念を我々の凡夫の智恵で認識できるはずはありません。

「認識」というのは意業ですし、意業を含めて三業に現れる(「現れる」という表現は語弊はありますが、なかなかいい言葉がないです。それに、もちろん縁に触れてですよ)のは、後念(便宜上数を使えば二念以後)になります。

では、「自分が信心獲得している」と分からないのかという質問が出そうですが、・・・
分かりますよ。
分かると言ってもですね・・・
蓮如上人が仰っている通りなのですよ。

おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。

KK 2009/07/18 18:54 あほうどり様
有難うございました。
分かったようなわからないような感じですが、
「今救われた!」と認識することはあっても、それは救われた一念そのものが分かるのではないということですね。

あほうどりあほうどり 2009/07/19 09:40 K様

問題自体が本派本願寺に起きた3つの惑乱の中でも最大と言われる三業惑乱の中身そのものです。
当時の能化ですらも、義教、功存、智洞と3代にわたって誤ったことですので、「説明は難しい」というのが正直なところです。
しかし、今のところ、Kさんの書かれた理解でよろしいと思いますので、また分からなくなったらご質問ください。
その場合、今というのはあくまでも「今」「平生」の意味であって、「過去」ではありません。
しかし、Kさんの言われる「今救われた!」が「私はたった今信心決定した!」という意味なら、その人がたとえ真実信心を獲得していたとしても、表現方法は「一念覚知説」になりますので、「異安心」ではないですが「異義」にあたります。
浄土真宗の学者の書かれた本や論文、辞書などにも記述がありますので、参考になされたらいいでしょう。
それらの物を読まれたらお分かりになると思いますが、「信の一念」(時尅・信相ともに)を説かなければ浄土真宗になりませんので、くれぐれも十劫安心、無帰命安心と混同されないようにご注意ください。

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