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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-07-07 絶対わからないものではありません、疑心有ることないのです(S会会

絶対わからないものではありません、疑心有ることないのです(S会会員さんのコメント)

S会会員さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

機の深心とは『阿弥陀仏のお力によらなければ絶対に流転輪廻から抜け出せる自分でなかった』と知らされるというようなことを言われているんでしょうか?

もしそうなら二種の深心とは絶対矛盾するようなこころではないような気がします。二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦とか大仰なことをいう人は間違っているということでしょうか?(S会会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1246893797

回答します。

コメントで書かれていることは、機の深信ではありません。

どちらかといわれれば、法の深信です。

機の深信とは、前回のエントリーにも書きましたが、

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

という善導大師のお言葉です。書かれているように「昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信させられます。

遙か過去から現在まで、出離の縁有ることのない自分であると知らされるのです。

法の深信は、阿弥陀仏の本願に疑い晴れるのですから、阿弥陀仏の願力によって往生するに間違いないと知らされることを言います。

二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)

正確に言えば、阿弥陀仏が私たちを助けて下される本願を建てられたことと、その願力によって往生できることが知らされます。

「絶対に矛盾」かといわれれば、「疑心有ること無し」は共通しているので、何もことさら不思議に思うことはありません。

「矛盾」と感じるのも、一つの疑心の現れなので、矛盾するかしないかの判断は人間の知恵でしていることです。阿弥陀仏の智慧からいえば、何の矛盾もありません。

罪悪生死の凡夫であり、出離の縁あることのない私がいるからこそ、阿弥陀仏は本願を建てられました。

出離の縁あることのない、罪悪生死の凡夫のままで、そのまま救うという本願力乗ずれば、かならず浄土往生させていただけるのですから、私の計らいではありません。

二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦(S会会員さんのコメント)

このようにことさら強調するのは、阿弥陀仏の智慧を「人間の知恵では計れないもの」と計っているように聞こえます。

言葉そのもの、一つ一つは確かにその通りです。親鸞聖人が「不可称不可説不可思議」と言われているのですから。

しかし、「絶対理解できない」が、どうも「絶対に救われる事はない」、「滅多に救われることは無い」とことさらいっているように思えます。聞いている人が「自分は今生では助からないのではないか」、「助かる人はあっても、よほどの人でないと無理だ」と、ただ今救う本願を、ただ今救う本願と思えなくなるのではないでしょうか。

「(君たちには)絶対にわからない」というのは、「自分だけはわかっている」と相手に思わせる言い方です。

阿弥陀仏の作られた本願、名号を、ことさら自分の専有物のように思わせるのは歎異抄6章に書かれているところと同様のものと思います。

如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんと申すにや。かえすがえすも あるべからざることなり。(歎異抄6章)

如来よりたまわる信心なのですから、聞いた相手に「わがもの」と思わせることは、あってはならないことなのです。

S会会員S会会員 2009/07/09 22:47 山も山様
ご回答ありがとうございます。先のコメント等であほうどり様が回答
された内容をもとに質問させて頂きたいのですが、
『なぜ生きる』という本に、
・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。
これを「機の深信」といわれる。聖人には、自己の告白が多いが、
みな機の深信である。いくつかを紹介しよう。
悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し〜
                (221ページ)とか
・無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの
極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。
煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし〜
                (260ページ)
と書いてありますが、こうした部分も機の深信と罪悪観?と混同して
書いてあるということでしょうか?
またこの本の記述が仮に間違っているとしたら、他力の信心を得ている
ひとでもこの辺を混同することはありうるのでしょうか?
以上、宜しくお願いいたします。
(もし、問題があるとお考えであればスルーして頂いて結構です。)

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