S会会員さんから以前頂いたコメントについて思うことをエントリーします。質問コメントではありませんでしたので、私の思うところです。
思うに昔、会長の話を真剣に求めていたころ、自分は罪悪深重のものと思おう、思おうとしていたことを思い出します。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090710/1247215243#c1247235089
無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これが「機の深信」である、といわれるとそのように思おうとし、そのように知らされたいそのように思いたいとずーっと考えていました。
こうした思いにとらわれている会員さんは非常に多いのではないかと思います。法に対する疑いであると同時に機に対する疑いですから、当然一念で知らされる自己の姿が罪悪深重の無間地獄行き間違い無しのものと聞くと自分はその自己の姿を本当と思えない、これも疑情だからこの心をなんとかしたいと思うのは自然な気持ちではないかと思います。
(私だけだったかもしれませんが)(S会会員さんのコメントより)
このように思う方は多いと思います。
「何かが知らされるはずだ」という観念にとらわれると、「知らされる」ということで見ている対象は自分の心ばかりになってしまいます。
機ばかりをみて、法を仰がなくなるので、結果として阿弥陀仏には向かなくなってしまいます。
ちなみに『歎異抄をひらく』にもこれに関連する記述がありました。
弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。
(159ページ)とあります。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090710/1247215243#c1247235089
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しかし、コメントで頂いた部分では、「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」と「疑いなく救われる極楽一定の自己」と、「自己が知らされる」で一貫しています。意味は違いますが、これではどちらも「機に疑い晴れる」となってしまい、「不可思議な二種深信」が「不可解な二種深信」になってしまいます。
二種深信のお言葉を見ますと
一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)
機の深信は、「自身は〜出離の縁有ること無し」と深信すとあります。
二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)
法の深信は「彼の阿弥陀仏〜往生を得」と深信すとあります。
深信するものが、「自身」(機)と「阿弥陀仏」(法)だから二種深信です。
この「歎異抄をひらく」も、以前エントリーで書きました「なぜ生きる」も、読んでハッキリしない部分があるのは、いろんな意味で焦点が定まっていない本だからです。読まれる方の理解力や信仰の問題ではなく、本そのものに真宗の要が書かれていないからだと感じます。
要がない分、信仰のある人が読まれれば余計にはっきりしない本だと思われると思います。