安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞とは、法を聞くことです(全くわからないんですがさんのコメント)

全くわからないんですが さんから、コメントを頂きました。有り難うございました。

親鸞会という団体では以下のように教わっています。こういう話「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点??を、まじめに言われるのなら、おかしいと思います。自分に疑いが無くなったら決勝点?というお話でしょうか?特定の団体でなくても、浄土真宗を語る団体が、このような、おかしな話をまじめにしているのは、笑ってすむ問題なのでしょうか?
「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)

「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。

「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という
(全く分からないんですがさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090718/1247904812#c1251163821

回答します。
自分に疑いが無くなったら決勝点ということは、浄土真宗にはありません。

コメントに書かれた文章について、思ったことを書きます。

「仏願の生起・本末を聞きて」とは、「仏願の生起」と「仏願の本末」を聞きてという意味です。
「仏願の生起」を本から末にかけて聞くということではありません。

上記のお言葉を簡単に解釈します、以下のようになります。
「阿弥陀仏が自分の力で生死を離れることができないものを救うために本願を建てられ、五劫思惟の願と、兆載永劫の行によって南無阿弥陀仏の名号を完成なされた。その名号を阿弥陀仏から受け取る一つで、疑心有ること無しの真実信心を獲得したことを、「聞」というのだ」

「聞其名号」の「聞」についての説明ですから、仏法を聞くと言うことは何を聞くのかということについての親鸞聖人の解説です。

コメントの文面では、「仏法を聞く=私の姿を聞く」ということになります。どれだけ私の姿を聞かされても、それで救われるのではありません。
仮に自分の姿が知らされて救われるというのならば、自分にもともと往生できるものがあるということになります。
自分の姿に疑心有ることなしとなるのが信心ならば、二種深信とはいえません。(二種深信とは、機の深信、法の深信のこと)

あくまでも法を聞くのが聴聞です。南無阿弥陀仏の法を聞くのが聴聞です。

信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。(御文章5帖目5通・信心獲得)

信心獲得するというのは、第18願を心得ることです。「ただ今救う本願を、ただ今救うと聞く」のが「聞」であり、真実信心なのです。