Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-09-24 助けられるか助けられないかということについて(Kさんのコメント)

助けられるか助けられないかということについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「助けられるか助けられないか」とはどういうことかもう少し詳しくお願いします。

助けることができないかもしれないしできるかもしれないということなのでしょうか?阿弥陀仏からすれば「必ず助ける」で定まっているのではないのでしょうか?

回答します。hiromiさんからもコメントを頂きましたが、いいたいことは同じ事です。

Kさんのコメントにもあるように、阿弥陀仏の本願は、必ず助ける本願です。しかし、現実問題として、私がその通り救われているかどうかが問題だということです。

阿弥陀仏の側から見れば、常に助けようとしておられるのですから、現在ただ今が、助けられるか助けられないかのまっただ中です。今後助けることができないかもしれないし、できるかも知れないと言うことではありません。

どうしたら救うことができるかという手段については、阿弥陀仏が五劫思惟されています。兆載永劫の修行によって南無阿弥陀仏となって完成しています。すでに「どうやったら助けられるか」という方法については解決がついている阿弥陀仏からすると、それから問題になるのは「助けられるかどうか」なのです。

南無阿弥陀仏が、与えられるかどうかということです。

言葉を換えますと、すでに救われる手立てについて、五劫思惟されたことを、もう一度考え直そうという心が、自分中心の考え方です。

そうかといって、もうすでに手段は考えて頂いたのだから、救ってくれるのは阿弥陀仏の仕事だからと阿弥陀仏の慈悲に乗っかるのは、法体づのりになります。

一、思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば仏に成るべし、同心とて別になし、機法一体の道理なりと。(御一代記聞書)

阿弥陀仏の五劫思惟の通りに同心すれば仏になる。同心といっても、機法一体の道理のほかにはないと、御一代記聞書にあります。

「どうすれば、どうなったら」という手段については、こちらの考えることではありません。阿弥陀仏の五劫思惟の本願に同心するということは、「助けられるか助けられないか」を自分のこととして考えるということです。

阿弥陀仏は、誰を助けるために五劫思惟されたのかといえば、私を助けるためです。当事者の私が、「どういう手段を講じれば助かるか」と考えるのは、阿弥陀仏の御心にあわないのです。同心していないということになります。

阿弥陀仏側の視点から、私を見ることが大事です。

marymary 2009/09/25 07:52 山も山様
 お世話になります。
念仏誹謗の罪は恐ろしいといわれますが、さして謗っている自覚もない、無邪気な心であってでもよくない行いだということでしょうか?なぜそんなに重い罪だと仏教で教えられるのでしょうか?

KK 2009/09/26 10:37 山も山様
ご回答有難うございます。
「阿弥陀仏は私を助けることができるのかできないのか」ということを考えるのでしょうか?
「唯除五逆罪誹謗正法」だから自分は除かれているのかということでしょうか。

marymary 2009/09/26 21:38 Kさんが24日に回答してもらった質問は、私もお尋ねしたかった内容そのものでしたので、質問して下さいましてありがとうございました。
結局、「名号を受け取りなさい」ということだと思うのですが、どうやって受け取ればいいのか、名号を聞くとはどういう状態か、どういう事なのか、よくわかりません。
目にも見えず、形のないものをどうやって受け取ればいいのでしょうか?

KK 2009/09/28 23:05 maryさん
どういたしまして。私もmaryさんや他の方もいろいろと質問してくださるので有り難いです。
今後もよろしくお願いします。

最後の学徒最後の学徒 2009/09/29 02:31 ご無沙汰しております。

阿弥陀仏は私を救う力のある南無阿弥陀仏を完成され、
私に届けて、救おうなされていると聞いております。

それはすでに私に届けられていると感じるくらいに阿弥陀如来の御慈悲を思えるのですが、実際の心は相変わらず晴れません。
間違いなく届けられているものが受け取れていない、という思いがします。

「そうかといって、もうすでに手段は考えて頂いたのだから、救ってくれるのは阿弥陀仏の仕事だからと阿弥陀仏の慈悲に乗っかるのは、法体づのりになります。」

と書かれておりますが、自分は法体づのりなのかもしれません。

ここで、「阿弥陀仏の慈悲に乗っかる」と言われている事と、
別のエントリーで、
「名号を受け取る」とか、
「南無阿弥陀仏という救いの働きによって救われる」

この違いを聞かせて頂けないでしょうか?

最後の学徒最後の学徒 2009/09/29 02:44 (ひょっとして)つまるところ阿弥陀仏の御心通りに
「私が救われているか」
「私が救われていないか」
ということでしょうか?

最後の学徒最後の学徒 2009/09/29 02:55 度々申し訳ありません。

結局は、

「そうかといって、もうすでに手段は考えて頂いたのだから、救ってくれるのは阿弥陀仏の仕事だからと阿弥陀仏の慈悲に乗っかる」

ということが、何故、法体づのりと呼ばれ、悪いのかよく分からないのだと思います。
それ自体が間違いなのか、実際に救われていないから間違いなのか、分からないという状態です。
中々、言いたい事がうまく言えないのですが、どうかよろしくお願い致します。

orimaorima 2009/09/29 04:35 いつもお世話になっております。

自分も最後の学徒さんと同じような感じがします。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証