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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-09-25 謗法罪について考える(maryさんのコメント)

謗法罪について考える(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

念仏誹謗の罪は恐ろしいといわれていますが、さして謗っている自覚もない、無邪気な心であってでもよくない行いだということでしょうか?なぜそんなに重い罪だと仏教で教えられるのでしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253832747

回答します。

謗法罪とは、自覚も大事ですが、自覚無く造る場合もあると思います。

もう一つは、なぜ謗法罪が重い罪かといいますと、仏が嫌われている罪だからです。具体的にどんなことが謗法罪かというと法を自ら謗り、人にも謗らせることによって、自他共に苦しませることです。

謗法とはどういうことかについて、曇鸞大師はこのようにいわれています。

もし無仏無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと(往生論註・注釈版聖典P298)

(大意)真実を覚った仏もいなければ、その法もないしでたらめだと否定すること。またそのように思い込んだり、人から聞いてそう思って宣伝するようなことを、みな誹謗正法と名付ける。

仏の説かれた正しい教えを信じなかったり、自分中心の考えで行動をすると、お互いが衝突し、自他共に苦しめることになります。

こういうことをいわれて自覚をしている人は、すでに謗法の罪を造っているということになります。

そこで、最初のお尋ねに関して、「自覚が無い場合も謗法になるのか」ということですが、阿弥陀仏の本願に救われるという事に関していえば、「ただ今救う」という本願を否定する心があれば、謗法罪ということになります。

しかし、親鸞聖人は本願に誓われた「唯除五逆誹謗正法」についてこのようにいわれています。

造っているから救わないという本願ではないのです。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文)

(大意)

「唯除五逆誹謗正法」とは、「唯除」とはただ除くということである。五逆罪を造った人を嫌い、謗法の罪の恐ろしさを知らせるためである。この二つの罪の重いことを示して、慚愧の心を起こさせて、全ての人をもらさず往生しなさいと知らせるお言葉である。

五逆罪、謗法罪の罪は仏が嫌い除かれている大変重い罪です。もちろん、恐ろしい罪だから造ってはならないということが最初にあります。

しかし、本来は、本願の目当てである私たちが、逆謗の機であるとはっきり知らせるためです。重い罪を重い罪と知らせて、慚愧の心を起こさせて心を生まれ変わらせ、南無阿弥陀仏を与えて、一人も漏らさず救おうとされているのが阿弥陀仏の善巧方便であるといわれているのです。

ただ、「このように懴悔しなければ救われない」という条件をつけていわれたものではありません。「逆悪もらさぬ誓願」といわれるように、阿弥陀仏の本願はどんな逆悪も救うのですから、「懺悔できたものだけ救う」ということではありません。

慚愧の心を起こさせるのも、阿弥陀仏のお仕事なのです。

ただ今の救いを、ただ今と思えずはねつけるので、救われると慚愧の心が起こされるのです。そのままといわれても、条件をつけようとするから、救われると法を謗っていたと知らされるのです。

では、何をしたらよいのかといえば、ただ今救われることです。

謗法罪を造らないことはとても大事な事です。しかし、阿弥陀仏は「謗法罪を造ったら救わないから造るな」と本願には誓っておられません。もらさず救うから、救われて下さいという仰せです。

繰り返しになりますが、だから謗法罪を造ってよいということはありません。「唯除五逆罪誹謗正法」といわれたのは、阿弥陀仏の大慈悲による善巧方便のお言葉で、私がそれに乗っかって悪をしてもよいということでもありませんし、他人を攻撃する言葉に使うものでもありません。

お疲れお疲れ 2009/09/26 17:04 上田氏の説法内容とだいたい同じですね。
理解できます。

どうかな?どうかな? 2009/09/26 19:11 知り合いが、Uさんに「どうしたら、疑情が晴れるか」を尋ねたら、いきなり、「諸々の功徳を修め、彼の国に生まれんと願じ〜」と善の話になって、「部屋を片付けたり、整理整頓が大切」だって言われたって。変だなと思って、その人にDVDを借りて、実際、聞いたら、やっぱり、「片づけをしていきなさい」って言ってた。今はどうか分らないけど。去年の話だよ。だいたい同じってどこが?とても同じ話とは思えないんだけど。

元会員元会員 2009/09/27 01:55 >>阿弥陀仏の本願に救われるという事に関していえば、「ただ今救う」という本願を否定する心があれば、謗法罪ということになります。

このように山も山さんは仰られていますが、以前獲信しても知らされるのは、機に関しては、それぞれ違うと言われていたように記憶して
おります。(罪悪観はそれぞれ違うというような話です)しかし上記の論理でいくと全ての人が謗法罪を作っているものという主張ですよね。
なれば獲信しても全てが罪悪深重と知らされるのでなければ、何を根拠として上述の内容を言われているのでしょうか?
山も山さんが獲信したとき逆謗の者と知らされたのであれば以前のお答えはおかしいように感じます。また逆謗の者と知らされなかったのであれ
ばどこかに根拠があるということですよね。
(信心決定したら、疑情が謗法の心だと知らされるなら、未信の人は全て謗法の者ですよね。そうするとT会長が言ってるように信心決定した
ら、全てのものが罪悪深重と知らされるということと矛盾しないと思うのですが・・・)
以上、よろしくお願いいたします。

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