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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-09-29 元会員さん、Kさんのコメントにエントリー(2つ)

「除かれるか除かれないか」と「助かるか助からないか」は同じか?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

まず、「除かれるか除かれないか」と「助かるか助からないか」は同じことでしょうか?

五逆罪法謗罪を造っているものであれば除かれると仰っているのでしょうけれど助からないとは言われていないと思います。「除かれた者が助かる」というようなことではないかと。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090926/1253967558#c1254144665

回答します。

「除かれるか除かれないか」と「助かるか助からないか」は違います。

前者は、本願に誓われた五逆謗法の罪人について、罪の重さを問題にしていることになります。

後者は、本願に救われるか救われないか、南無阿弥陀仏を心得るか心得ないかということです。

もちろん罪の重さを問題にして、罪を造った者は結果として往生出来ないといわれているお言葉ではありません。

唯除五逆誹謗正法については、以前のエントリーで紹介した、親鸞聖人のお言葉を紹介します。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文)

五逆、謗法の罪の重さを知らせるためにただ除くといわれているのであり、この二つの罪の重いことを知らせ、心をひるがえさせ、南無阿弥陀仏を与えて、全ての人をもらさず往生させると弥陀の大慈悲を知らせるお言葉であるといわれています。

「除かれた者が助かる」という言い方は適当ではありません。

そうなると、一回除かれてからでないと助からないということになってしまいます。

また、除かれた者が、一度除かれたあと、除かれない身になることになってしまいます。

罪の重さからいえば、五逆・謗法罪は、除かれている者であるということは変わりません。除かれた姿のまま救うということであって、除かれてから救われるのではありません。

五逆罪・謗法罪をすでにつくっている人ならば、すでに本願から除かれています。

罪の姿から見れば、助からないものは、助かりません。

阿弥陀仏から見れば、罪に関係なく助けるということです。

除かれるかどうかという問題ではなく、大事なことは阿弥陀仏の本願に向かうことです。

除かれてからではありません。ただ今救われる本願です。

全ての人が謗法罪を造っているのか?(元会員さんのコメント)

元会員さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。回答が遅くなり申し訳ございませんでした。

『>>阿弥陀仏の本願に救われるという事に関していえば、「ただ今救う」という本願を否定する心があれば、謗法罪ということになります。

このように山も山さんは仰られていますが、以前獲信しても知らされるのは、機に関しては、それぞれ違うと言われていたように記憶しております。(罪悪観はそれぞれ違うというような話です)しかし上記の論理でいくと全ての人が謗法罪を作っているものという主張ですよね。

なれば獲信しても全てが罪悪深重と知らされるのでなければ、何を根拠として上述の内容を言われているのでしょうか?

山も山さんが獲信したとき逆謗の者と知らされたのであれば以前のお答えはおかしいように感じます。また逆謗の者と知らされなかったのであればどこかに根拠があるということですよね。

(信心決定したら、疑情が謗法の心だと知らされるなら、未信の人は全て謗法の者ですよね。そうするとT会長が言ってるように信心決定したら、全てのものが罪悪深重と知らされるということと矛盾しないと思うのですが・・・)

(元会員さんのコメント

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090925/1253870634#c1253984127

回答します。

元会員さんの言われるように、信後の罪悪観は一人一人違うということは、以前書きました。

しかし、ご指摘のエントリーで書いたことは、全ての人が謗法罪を造っているという主張ではありません。

元会員さんが引用された部分

「ただ今救う」という本願を否定する心があれば、謗法罪ということになります。

というのは、イコール「未信の人は全て謗法の罪を造っている」ではありません。

理由は、ただ今救う本願を知らなければ否定もできませんし、向かっている人に否定するとかしないということがあるので、未信の人は全て謗法の罪をすでにつくった者ということにはなりません。

阿弥陀仏の救いに向かって、ただ今救うという本願を否定する心があれば、その心を謗法罪といったのであって、向かっていない人には、謗法の罪をつくっていないということになります。

「自覚の有る無しに関わらず」という言い方は、質問された方が、すでに阿弥陀仏の救いを真面目に求めておられるという前提での回答なので、それをもって、「全ての人は」と例外なく全ての人に適応できることではありません。

なれば獲信しても全てが罪悪深重と知らされるのでなければ、何を根拠として上述の内容を言われているのでしょうか?(元会員さんのコメントより)

信後の罪悪観の上では、同一にならないということをいったのです。

阿弥陀仏の「ただ今の救いを否定する心」というのは、阿弥陀仏の法の上で、阿弥陀仏が私たちを逆謗の機と見られたということです。

「唯除五逆誹謗正法」という本願の上からいったことです。

法の上から照らされる自己は、「出離の縁有ること無し」です。また、「唯除五逆誹謗正法」と誓われた本願に疑い晴れるということです。個人的な罪悪観の上で、「罪悪深重と知らされた」ということではありません。

疑情というのも自力と言うのも、阿弥陀仏の本願に向かった上でのことなので、全ての人は謗法罪を既に造っているとも、全人類は罪悪深重の者という主張と同じではありません。

ご不明な点がございましたら、またお尋ね下さい。