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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-09-30 元会員さん、最後の学徒さん、orimaさんのコメントにエントリー

阿弥陀仏のただ今の救いを否定する心は謗法罪か?(元会員さんのコメント)

元会員さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

1)阿弥陀仏の本願に救われようとむかったときに謗法罪を犯すとしたら

 阿弥陀仏の本願に救われようとすることは謗法罪を行うという危険を冒すと言うことでしょうか?

2)そもそも現在の阿弥陀仏の現在の救いを否定する心が謗法の罪になるという論理はどこから来たのでしょうか?お聖教でしょうか、それとも獲信して知らされるんでしょうか?唯除五逆誹謗正法がその根拠だと言われるのでしたら、違うような気がします。(元会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254207424#c1254282305

回答します。

1)については、阿弥陀仏の本願に向くと謗法罪を造るというよりは、謗法罪を造る者と知らされると言うことです。

 煩悩具足の凡夫が、阿弥陀仏の本願に向かうと、謗法の者という姿にもなるということです。

 謗法罪を造らなかったら助かると言うことでもありませんし、謗法罪を造ったから助からないということでもありません。

 阿弥陀仏の救いは、逆謗の者でも救うという本願ですから、一番罪の重い逆謗・闡提のものを目当てに建てられています。

世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲してなり。(教行信証総序)

と言われているところからもわかります。

 また、「謗法罪を行う危険を冒す」という言い方は、謗法罪を造れば救われないということになりますが、そうではありません。

謗法と闡提と回心してみな往くによる(善導大師・法事讃)

と善導大師もいわれています。

2)について回答します。

阿弥陀仏の救いを否定する心がなぜ謗法になるのかという根拠は、以前のエントリーでも紹介しましたが、以下の部分です。

問うていはく、なんらかの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩報といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(教行信証信巻・往生論註引文)

どういう姿が、誹謗正法なのかという問いに、答えとして、無仏、無仏法というものであると言われています。仏や、仏の教えを否定するものが謗法の姿ですから、阿弥陀仏のただ今の救いを否定すれば、誹謗正法となります。

阿弥陀仏に救われるのは、十方衆生ですが、私にとって問題なのは、自分が救われるかどうかです。

阿弥陀仏の本願に向かい、自分は謗法罪を造っている者だと知らされるかどうかは、一人一人が知らされることです。

私自身は、ただ今の救いであり、往生に役立つものは何も無いと聞かされていても、何か手立てを捜さずにはおれない自分と知らされ、謗法の者と知らされました。

どんな罪のあるものでもと、見抜いて本願をたて、五劫思惟の願を建てられたのですから、南無阿弥陀仏には、罪の大小によらず必ず救う力があります。

ただ今阿弥陀仏の本願に救われて下さい。

追記

林遊さんのコメントから、引用→引文に修正しました。

林遊林遊 2009/09/30 19:59 安易に誹謗正法という言葉を使いすぎるんですよ。
それに、言葉の概念定義もいい加減だから読む人を混乱させてしまう。
信心を物柄だと思っていらっしゃるんじゃないかな。
教行証はそれぞれ出体釈がありますけど信巻には出体釈がありませんよね。
しいて言えば、至心釈で、
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり、です。
http://wikidharma.org/4ac334801c91c

疑いと誹謗正法を同値しているのかも知れないけど、疑うという事は人間の本性ですよ。
お聖教の中の言葉は人間の側からは使ってはいけない言葉もあるのですが、他者に「誹謗正法」という言葉を投げる事がそれでしょう。
ご自分でも少し混乱なさっているようですが、今まで学んだ概念を捨ててみる方法もあるのかな。
http://wikidharma.org/4ab7fee1bb462

なお、御本典では引用とは言いません、引文といいます。
御開山は引文で自らの著述をなさってるんです。
だから破天荒とも思える訓点でお聖教の玄底を彰して下さったのですね。
まさに依義不依語(義に依って語に依らざる)釈だと思います。

少しキツイ言い方かも知れませんが、行に迷い信に惑っている親鸞会の会員をみていてのお節介だったかな。
ありもしない信心に狂わなければ、浄土真宗のご法義は朗らかに、なんまんだぶ、なんまんだぶと称える明るい御法義ですよ。

林遊さんへ林遊さんへ 2009/09/30 21:01 林遊さん
>お節介だったかな
お節介ではないと思いますよ。ただ、言葉使いが悪いのだと思います。
「上から軽くものを言ってやりたい」的な気持ちがおもいきり伝わってきてしまっています。。
山も山さんは、そういう相手にもとても真摯に丁寧にお話されます。
なかなかできることではないですが、真似してでも見習いたいですし、人としてそうありたいです。
あまり友達がいらっしゃらない方に、林遊さんのような方は多いです。
独りでずーっとこもってきて、なにか詳しいことができたときに、自分を主張したいがために
無意味に乱暴な言葉を使われる。
せっかく詳しい知識を得られたのならそんな風になるのはもったいないです。
語り合える友達を作って楽しい人生を送ってください。

林遊@なんまんだぶつ林遊@なんまんだぶつ 2009/09/30 21:48 なるほど、ちょっと意外だったけどご意見は拝聴します。
ちなみに友達は山ほどいて(悪友が多いかな)、日常会話は無茶苦茶ですが、どのような表現が上から目線アンド乱暴な表現であるのか教示して下さるとありがたいです。
ちなみに、言葉は受け取る側の感性に左右されるのでしょうが、他者を一方的に断定されるあたなの言葉もまた、読み手に(今は林遊)よる自由な解釈が出来ますね。その自由を担保しない議論は戯れの論、戯論だと思いますね。

森 2009/09/30 22:14 林遊さんのような自力の信心の人もいるということですね。
お粗末です。
林遊さんのあさっての方向のコメントは、読む気にもなれません(笑)

田村田村 2009/09/30 22:23 >阿弥陀仏の本願に向かい、自分は謗法罪を造っている者だと知らされるかどうかは、一人一人が知らされることです。
>私自身は、ただ今の救いであり、往生に役立つ者は何も無いと聞かされていても、何か手立てを捜さずにはおれない自分と知らされ、謗法の者と知らされました。
>どんな罪のあるものでもと、見抜いて本願をたて、五劫思惟の願を建てられたのですから、南無阿弥陀仏には、罪の大小によらず必ず救う力があります。
>ただ今阿弥陀仏の本願に救われて下さい。

山も山様、いつもありがとうございます。上記の文章をかみしめております。

元会員元会員 2009/09/30 22:38 ご回答ありがとうございます。ただこの根拠でもって、現在の阿弥陀仏の救いに向かったとき謗法罪を
犯すという論理がなりたつならば、人間に生まれたことを喜べないのも五逆罪とか、話が長いなあと
思っても謗法罪という論理とそれほど変わらないような気が・・・。真実は仰る通りなのかもしれま
せん、獲信したらそう思わずにおれなくなるのかもしれません。しかしこういう手法を繰り返してい
ったら、いつかまたT会長のような人が確実に現れるでしょう、そのことを心配せずにおれません。

田村田村 2009/09/30 22:51 T会長のような人があらわれてもやむをえません。
まずは、自分自身が、弥陀にただ今救われること。
そして、ご縁のある方を思う存分導いてあげたいと私は思っています。

林遊林遊 2009/10/01 07:14 http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090930/1254301340#c1254316463
ご自分が何を言っているのか自分でも判っていないのだと思いますが、
森さんの仰っている「自力」ってどういう意味でしょう?

自力とか他力という表現は俗語ですが、利他力が他力という言葉の意味だと聴いてきましたけどね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B

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