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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-10-01

お聖教の根拠を今後WikiArc:浄土真宗聖典にリンクします

林遊さんからコメントを頂き有り難うございました。

また、メールも頂き有り難うございました。

今回のエントリーから、紹介したお聖教上の根拠はWikiArc:浄土真宗聖典のページとリンクを貼ることにしました。

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版」を底本にした内容なので、真宗聖典が手元に無い方でも、全文を読むことができます。

断章取義といわれないように気をつけて行きたいと思います。

本願から除かれるということについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「除かれた者が助かる」は、除かれるのと助かるのとは同時をイメージして書きました。

除かれるかどうかはあまり大事ではないのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254209918#c1254234625

回答します。

尊号真像銘文の親鸞聖人のお言葉をもう一度紹介します。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文

親鸞聖人が書かれているように「ただ除く」というのは、「罪の重きことを示して、全ての人をもれなく救う」ということです。

罪の重さから言えば、「五逆誹謗正法」の者は、救われません。それをことさら「ただ除く」といわれたのは、罪を罪と知らない者に、罪を知らせるという御心だと言われています。

罪を罪と知らされる人は、すでに本願を知らされている人です。罪の深さを認めて、回心懴悔する人は、罪の大小によらず阿弥陀仏の本願に救われた人だと言うことです。

この「ただ除く」といわれた阿弥陀仏の御心からいえば、「除かれたかどうか」ではなく、罪を罪と知らせ、慚愧の心を起こさせ、救うという阿弥陀仏のお慈悲の現れだと言うことです。

「除かれたかどうか」というよりは、どのような者を除くと言われているかという本願の相手はどんな者かということを知ることが大事です。

「唯除五逆誹謗正法」は私の姿というよりは「罪の重い人をももらさず往生させるという弥陀の大慈悲を知らせる」ために「五逆、謗法の罪の重さを知らせる」お言葉ということでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254209918#c1254234625

阿弥陀仏の救いを、「十方衆生」とみるか、「私一人」と聞くかによって、受け取り方は変わると思います。もちろん林遊さんのコメントにもありましたが、他人に対して「誹謗正法」と言う言葉ではありません。

「ただ除く」と、私に強く抑止されたお言葉だと聞けば、私の姿になります。

阿弥陀仏の立場から言えば、コメントに言われるようなことになります。

罪の重さを知らないということは、罪を罪と認めず逃げ回る姿です。自らをたのむ自力の心の人だと言うことです。それでは本願に救われないと歎異抄3章に書かれています。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄3章

自力作善の人とは、今回のエントリーでいえば、罪を罪と知らずに、自分は正しいと自力をたのむ人のことです。そんな人は、他力をたのむ心がありませんから、阿弥陀仏の本願でも救われません。

しかし、罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができます。

煩悩具足の凡夫である私たちは、どんな行いをもっても生死を離れることができないことを哀れに思われて願を起こされた御心は、悪人成仏のためであるから、他力をたのむ悪人は、最も往生の正因であるといわれました。

五逆、謗法、闡提の者でも必ず救うということから言えば、その者に罪を罪と知らせ、自力の心を離れて、回心懴悔させ、阿弥陀仏の本願に救うという御心で「ただ除く」と言われたのです。

そうしますと、そのような弥陀の大慈悲を知ることが大事なのですね。それが阿弥陀仏の本願に向かうということでしょうか?「ただ今救われる本願」は「罪の重い人をももらさず往生させるという弥陀の大慈悲」と同じことでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254209918#c1254234625

今まで説明したとおりです、どんな罪の重いものでも救う本願ですから「逆悪もらさぬ誓願」と親鸞聖人は言われました。

「ただ除く」と厳しく悪を抑止された本願のお言葉は、このようにして必ず救うという阿弥陀仏の大慈悲の現れでもあります。

だからといって、悪を知るためにまず善を実行してからでないと助からないというのは、大きな間違いです。それでは、悪人が善人にならねば助からないことになります。

こういうと「それでは、悪をしてもよいのか?」という方もありますが、生活一般のことから言えば、悪にほこっていいわけはありません。信仰を求める上でも、悪をしてよいといっているのではありません。

悪人成仏とは、悪人は悪人のまま、逆謗は逆謗のまま救うという本願です。

自力の心をひるがえして、阿弥陀仏をたのむことが大事です。

阿弥陀仏の御心から言えば、ただ今救われることが大事な事です。ただ今救う本願に、ただ今救われて下さい。