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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-11-23 「信仰が進む」は浄土真宗にはない親鸞会独自の教義です(Kさんのコ

「信仰が進む」は浄土真宗にはない親鸞会独自の教義です(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

顕真11月号に

「善をしてゆけば、そのうちに助かる」は甚だしい聞き誤り

という、信心の沙汰を紹介した記事が載っていました。その中に、

『「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」と聞き誤りやすいのだと思います。』とか、

『「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、「善の積み重ねで助かる」とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない誤りではないか。』とあります。

そこで、思ったのですが、

「善をしなければ信仰は進みませんよ」というのは、「善をしていけば信仰が進む」という意味でなく、

「(本当の)善ができれば信仰が進むかもしれないが、できないのだから、信仰が進むということは金輪際ない(助かる縁はない)」という意味だととればそのとおりなのではないでしょうか?どう思われますでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091021/1256129656#c1258905196

回答します。その発想は無かった、と思いました。

Kさんの書かれるような意味で話をするということは今まで聞いたことがなかったからです。

そうなりますと、コメントにある顕真の言葉を一部借りますと

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」と聞き誤りやすいのだと思います。(顕真11月号より)

は、以下のような意味だということになります。

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、善をして阿弥陀仏に救われると言うことは金輪際ないのだから、ただ今弥陀に救われなさい。

この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。(教行信証信巻

私たちのする善をもって往生浄土しようにもそれはできないことだと言われているとおりになります。

ただそうなると、余計に「信仰が進む」という言葉の意味がわからなくなります。

何度もコメントの文面を読んで分かったことは3つあります。

  1. 「阿弥陀仏に救われる」と「信仰が進む」は全く別の言葉
  2. 「善をして阿弥陀仏に救われる」ことはない
  3. 「善をしなければ信仰は進まない」→「善をすれば信仰が進む」

この顕真でわかることは、親鸞会では、「阿弥陀仏の救い」と「信仰が進む」ということの2つを勧めているということです。しかも、その2つは別物だということです。

しかも、「信仰が進む」という言葉は、親鸞会内で使われる意味合いからすれば、親鸞会オリジナルの教義といえます。いわば造語です。

ただ「信仰が進む」は、他宗教で普通に使われる言葉なので、真宗にはない親鸞会独自の造語であるということがわかりにくいのです。

そうなりますと、親鸞会では、浄土真宗の教えと、浄土真宗にない教えの二つを混ぜて教えているということになります。

かつて本願寺から、「善をして助かるという教義は真宗にない」という批判に対して、「そんなことは一言も言っていていない」と突っぱねた理由は、ここにあったのだとわかりました。

たしかに一言もいってないはずです。

「信仰が進む」ために善をすすめていたのですから。しかも「信仰が進む」というのは、親鸞会独自の教義だったからです。浄土真宗本願寺派から批判されても、まったく的外れになるのは当然といえます。

「信心決定あれかし」といいながら、「信仰が進むあれかし」と勧めているのですから、聞いている人も、「信心決定したい」のか「信仰がすすむようにしたい」のか、頭の中で混乱します。

浄土真宗を伝えるというのであれば、オリジナル教義の「信仰がすすむ」は言ってはならない言葉です。それでは、仏教だけでなく他宗教の教えをいろいろ取り入れる新興宗教団体と何も変わりません。

「信仰がすすむ」と「阿弥陀仏の救い」の2つを勧めるのが親鸞会の現状のようです。

オリジナル教義の「信仰がすすむ」をしたい人は、親鸞会に残られるでしょうが、「ただ今阿弥陀仏に救われたい」という人は出ていくのが現在の親鸞会の現状だと思います。

私たちの人生は長くはありません。ただ今の阿弥陀仏の救いを求めながら、さらに平行して「善をしなければ信仰は進まない」と一生懸命「信仰がすすむ」ことをやっている時間も体力もありません。

阿弥陀仏の救いはただ今ですから、まず阿弥陀仏に救われる事が大事です。

長らく考えていた「信仰は進まない」という言葉の意味が、Kさんの言葉をきっかけに、「親鸞会独自の言葉」だとよく分かりました。Kさん有り難うございました。真宗に関係ある言葉だという意識がありましたが、全く関係なかったのです。

参照 「善をしなければ信仰は進まない」について、コメント紹介(抜粋) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

ソイソイ 2009/11/23 10:07 親鸞会で教えていることは、二重構造になっているものがあります。
「阿弥陀仏一仏に向け」と「会長へ無条件服従せよ」などもそうです。
会長は、教義批判を受けた時には、一方の正しいことらしき教義を示し、会員には全く別の
教義を教え勧める。
だから、会員は混在した教えを聞かされ続けますので、理解できる筈も無く、
30年、40年聞いたくらいで分かるものではない、という会長の言葉との整合性が
とれるのです。
昔は、正しいことらしき教義が主体でしたが、最近はそれとは別のカルト教義に重点が
おかれていますので、ますます真宗とは程遠い教義になっているのです。

marymary 2009/11/23 10:46 Kさんへ
高森会長の説法では、「善をしなければ信仰は進みませんよ」と「信仰が進まなければ(18願の世界を指示棒で差し示し)ここへは出れませんよ。救われませんよ。」との二つのフレーズは、いつもセットで出てきたと記憶しています。
10月号でもそうですが、なぜ顕真では後半のフレーズを省いてあるのでしょうか?

rudelrudel 2009/11/23 11:55 >maryさんへ
ツッコミ入れられるのが嫌だからじゃないでしょうか。。。
「善をしなければ信仰は進みませんよ。信仰が進まなければ救われませんよ」
どう言い訳しても、高森会長は「善をやらねば助からない」という話をしているわけですが、
それを活字にして残したらまたいろいろ批判されてヤバイとでも思っているのでしょう。
もはや浄土仏教でもなんでもありませんね。

KK 2009/11/23 12:15 「善をしなければ信仰は進みませんよ」への批判に対する弁解が目的になっているからでしょうね。
ただ、「信仰が進まなければ(18願の世界を指示棒で差し示し)ここへは出れませんよ。救われませんよ。」
も、善をして信仰が進むというのは本当はないことなのだから善をして18願の世界に救われるということは金輪際ないという意味だと考えればつじつまが合います。そうしますと「信仰が進む」は「18願に救われる」ということ以外あり得ません。確かに「信仰が進まない」という言葉は聞きますが「信仰が進む」は聞いたことがありません。
親鸞会で言っていることが正しいかどうかはもはやよりも何が正しいかを知ること明らかにすることが大事だと思います。

KK 2009/11/23 12:19 >親鸞会で言っていることが正しいかどうかはもはやよりも何が正しいかを知ること明らかにすることが大事だと思います。

(訂正)
親鸞会で言っていることが正しいかどうかはもはやそれほど重要ではなく、それよりも何が正しいかを知ること明らかにすることが大事だと思います。

ソイソイ 2009/11/23 14:47 「善をすれば信仰が進む」とは確かに聞いたことがありません。これが二重構造の特徴です。
会長は分かっているのです。それで突っ込まれても逃げ道を作っているのです。

ここが卑怯なところです。
信心決定の教えと、会と会長一族繁栄のための教えを混ぜたのです。

会長のトリックに騙された多くの会員が、そのことに気付かずにいたのです。

MCされていた人MCされていた人 2009/11/23 22:59 善をしなければ信仰は進みませんよ
信仰が進まなければ信心決定出来ませんよ
会にいる時会長はこう言いました。
これは紛れもなく善→信心決定を言っています。 善→信仰が進む 信仰が進む→信心決定 このように信仰を間に入れて誤魔化していますが、結論は善をしなければ信心決定できない。会長は、このこと一つが言いたいのです。
でも信心決定に善を持ち出したら真宗でなくなります。でも、どうしても善と信心決定を結び付けたかった理由は、ズバリ、お金と人を集めるためでしょう。弥陀の救いには何も要らないのに、善(お金や人)を善知識である私のところに運びなさいとのたまう。会長はとんだ宗教詐欺師です。こんなカルト団体の教えを聞いて助かろうなんて夢のまた夢です。退会して仕切りなおしましょう。

弥陀をたのめ弥陀をたのめ 2009/11/23 23:36 結局、信仰が進むというのは、進む方向性が定まっていく事を表しているのだと思う。でも、阿弥陀仏に向かわないで、ただ善をしていっても、根本的に真宗の方向とは違うからだめじゃないの?善の勧めをしていない宗教なんてないし。もちろん邪教やカルトでも建前上、善をせよと言っているし。

林遊@なんまんだぶつ林遊@なんまんだぶつ 2009/11/24 01:17 >弥陀をたのめ

頭腐ってるんじゃないの。
浄土仏教における「善」とは何かを考えてごらんよ。

浄土真数では、たのめは憑むと表記するのだが、あなたの「たのめ」ってどういう意味なのかな。

YGMYGM 2009/11/24 08:46 私は過去1度だけ聞いたことがあります。
19願の説明で、「善をしてゆけば、19・20と進んで救われる」と。
聞き誤ったのでは絶対にありません。
なぜならば、そのときのアシスタントのコダ○H部長でさえ「え、それは、、・・・」と
大変驚いていましたから、鮮明に記憶に残っています。
会長は、困惑したH部長に「19願に善を勧めて助けると誓っておられるじゃないか」と言っていました。

正本堂の御報謝が始まってから、三願転入の話(19願のみ)が増え始め、
毎回の会合で財施の話が19願を添えてされ始めました。
正本堂の前までは、今救われるんだということがもう少し叫ばれていたと思います。。。残念です。

>弥陀をたのめさんへ
信仰が進むというのは進む方向性が定まっていく事だと思われていますか?
それは違うと思います。
方向性が定まるどころか不回向ですから。
「方角たたずに泣くばかり」です。
阿弥陀仏が先手のお助けですから、よくよくお聞き下さいませ。

nowherenowhere 2009/11/24 11:11 「ただいま救う阿弥陀仏の本願にただいま救われる」とお聞きします。また宿善開発したひとは、「阿弥陀仏の浄土にただいま救われたい」となったひとであるともお聞きします。
自分の心は如何と問えば、「ただいま」とはどうしても思えません。つまりは宿善開発していないのです。
浄土真宗の本質は、とどのつまり、この「ただいま」との距離感ではないでしょうか。阿弥陀仏の救いを漠然と遠くに感じている私のこころ。行者の心にある「阿弥陀仏の浄土」と、阿弥陀仏がただいま救うぞと言われる「阿弥陀仏の浄土」との距離をどう縮めるのか。これを「宿善」といい、「求道」といい、「信仰が進む」といっているのではないですか。
これについてどう導くのかが、善知識の能として問われるところのように思います。

弥陀をたのめ弥陀をたのめ 2009/11/24 12:59 「方向性が定まる」と言う表現は言葉足らずだったと思いますが、仏教をお伝えする方が、人を頭が腐っているなどと言うべきではないと思います。どこが間違っているか、分るように教えてくださればいいだけでしょ?
 「阿弥陀仏とのご縁をもっと求めるようになる」「阿弥陀仏のことを聴聞したくなる」つまり、方向とは、「阿弥陀仏に向かうようになる」このような意味で、かつてですが、会長は話していたのではないかと思うと前半はいいたかっただけ。
 後半は、三願転入の説法以後の話で、世間の宗教団体の勧める善の話や因果の道理が殆どで、阿弥陀仏に向って、今救われる話はほんの少ししか、聞けなくなりました。会長は口では今と言うのですが、善をして、その後としか救われないような言い方でした。
 浄土仏教、真宗の善は「南無阿弥陀仏」でしょ?これ以上、これ以下もない。
 弥陀の名号を受け取ることで救われる。受け取る心すら阿弥陀仏が用意してくださっているのだけれど。

KK 2009/11/24 23:29 「ただ」の救いだと聞いて
「ただじゃそうな」と自分の問題になっていないのが、
『信仰が進む』と、自分の問題になって、どうなったただか「ただがわからん」となる。
というような言い方は聞きました。
たしかに、自分の問題になっていない状態から自分の問題になっている状態になって行くようにも思います。
しかし求めている時点で、「ただじゃそうな」ではないのでそんなに力を入れて説くところなのか疑問です。
それよりもその後が重要ですよね。

まず「阿弥陀仏のただ今の救い」に救われようとし、ところが救われないので、どうすればただ今救われるのかと色々やってみるけれど、結局何をやっても思ってもダメで、何もやらないのも思わないのもダメで「ただ今の救い」がわからない。
そうすると「これが信仰が進んでいることで、この心がもっと深まって行って、どこかで何か方向転換が起きて救われるのかな」というように思ってしまいますが、違うのですよね?
今は、「もっと無常を観じてこのままだと救われずに死んでしまうぞと自分に言い聞かせたほうがいいか」とか「絶対救われないということをもっと深く実感できないか」とか「もっと阿弥陀仏に向かうべきか」とか「でもそれも自力だからやめておこう」とか「あ、これも自力じゃないか」とか思ったりしています。それほど深刻な心境でもなく、何を質問していいかも分からないのですが、すみません、山も山さん何か思われることなどありましたら教えていただきたいです。よろしくお願いします。

永く会員だった人永く会員だった人 2009/11/25 00:55 「信仰が進む」という表現は、やっぱり、使っちゃいけないNGワードだったのですね。自分の信仰が進んでいるどうか、立ち位置がどの辺かなんて分るはずがないだろうしね。それをいいことに、会長が「ワシにお金を沢山、持って来い、聴衆を一人でも多く、引っ張って来い、そうしないと信仰が進まないぞ、一息切れたら、後生は一大事だぞ」とおねだりする為の会員さんたちを騙す、都合のいい、殺し文句、だったのですね。おねだりと言うより殆ど強制的なおどしかな?

たくさんポイント溜めたけどたくさんポイント溜めたけど 2009/11/25 12:45 「信仰が進む」「宿善が厚くなる」「光に向かって」表現は少しずつ変えているけど、結局どれも、「ワシや会に献金しろ。お金がない貧乏人は人を連れて来い。掃除や草むしりやチラシまきといったただ働きでも構わんぞ」という深い御心だったよね。
 本願寺との論争以後は「宿善を積む」でなく「宿善を求める」と言うように指示があった。宿善の説明でコップに水が溜まって溢れた時が信心決定という説明はしないようにとも。
 でも、言葉を変えただけで中身は変わらないんじゃないと当時疑問に思ったけど。信仰も宿善も阿弥陀仏とのご縁でさえもお金や人集めや労力でポイント溜めてその先に信心決定があると教えていたんだから。宗教詐欺の仕方どこで教えてもらったのかな?それとも○○商事かな?まんまと騙されて大金はたいてしまったな。

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