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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2010-01-05 自己否定は、大慈悲に目が向かなくなります(bottom_lineさんのコメ

自己否定は、大慈悲に目が向かなくなります(bottom_lineさんのコメント)

年が変わり初のエントリーです。今年もよろしくお願いいたします。

bottom_lineさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

それは、ふつうの人がふつうに生きていくために人として自然な欲求であるお金・恋愛・結婚・仕事…、それらを彼は「相対の幸福」と命名し、「やがて自分を裏切るもの」と、それらを求める人や求める行為を否定した。

(中略)

そして自分で自分を悪しかできない最低の者と「自分で思い込もうと激しく努力した」

自己否定、自己否定、自己否定。

(中略)

どこで

私は

間違えたのか?

教えてください。(bottom_lineさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091230/1262179898#c1262530401

コメントを頂き、私も同じように思った時期があったことを思い出しました。そういう意味で、bottom_lineさんは、かつての私であり、私がbottom_lineさんと同じ立場になっても何の不思議も無かったと思います。

親鸞会で苦しんだことのある多くの方が苦しんだ原因は、bottom_lineさんが言われる理屈によって自己否定をしたことによるものだと思います。

どこで間違ったかと一言で言えば「煩悩を否定(または抑制)しなければ救われない」という親鸞会の間違った教義によるものです。

言葉を換えれば「善をしなければ信仰はすすまない」の犠牲になったということです。

これはKさんのコメントにいわれたような、部分と重なるところになりますが、こういうと「煩悩を否定しなければ救われない」とは親鸞会は言っていないと言うところだと思います。(これに関してはまた別エントリーで書きます)

またbottom_lineさんのような意見を親鸞会に言えば、聞き間違いだと言われるのだと思います。

阿弥陀仏の本願は、煩悩を否定しなければ救わないという本願ではありません。

生活上の普通に私たちが必要とするもの、食べたり、お金を求める欲望を抑えようにも抑えられないのが凡夫です。抑えるどころか常に燃えさかっているのが凡夫です。

煩悩を抑制することができる人は、聖道門の仏教で修行をされればよいのですが、私はそうではありません。

生きていく上では、罪も造り、煩悩もあるのが私です。それを否定していては、阿弥陀仏の慈悲がなくなってしまいます。煩悩具足の凡夫である私に、阿弥陀仏の大慈悲はかかっているのです。

煩悩具足の自己を否定すると言うことは、阿弥陀仏の大慈悲を否定することになります。「こんな自分はダメである」と言い続けることは、結果として「そんな自分を哀れに思われている大慈悲に目が向かなく」なります。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。(歎異抄1章

阿弥陀仏の本願は、老少善悪の人を差別されない本願です。弥陀をたのむ真実信心一つの救いです。それはなぜかといえば、罪悪深重、煩悩が燃えさかっているものを助けようとする願であるからです。

自己否定をするではなく、かりにダメな自分だと思っても自己にかけられた阿弥陀仏の大慈悲にどうか目を向けて下さい。自己を否定しても阿弥陀仏の救いとは何の関係もありません。bottom_lineさんを救おうという阿弥陀仏の大慈悲は現在働いていますから、まったく自分を否定する必要はありません。

煩悩熾盛の衆生を、哀れに思われただ今救うのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今救われて下さい。

KK 2010/01/06 01:37 本年もよろしくお願いいたします。
早速ですが、質問です。上記記事とは直接関係無いのですが、
某箇所に、
「自分の行動も弥陀のお計らいと受けとるところに味噌がある
つまり実際には救いに自己は関与しているということ。(それぞれ個体差がでる)」
とありました。私もそのように思うことがあるのですがどうなのでしょうか?
救いについては自分が何をしようがそれも阿弥陀仏にさせられていることであって、私がやっていると思ったとしてもそれは
救いに関係することは実際はすべて阿弥陀仏がされていることであって、私がやっているのではないということなのでしょうか?
よろしくお願いします。

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