安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分を入れる分だけ遠くなるのが他力です(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

少し考えてみました。
次の3通りがあると考えます。
(1)ただ今阿弥陀仏に救われる(弥陀をたのむ、弥陀まかせ、他力)
(2)今は救われないが、何かしたらあるいは何かしていくと救われる(努力、自力)
(3)今は救われないが、何もしなくてもそのうち救われる(無努力、自力)

普通、(2)と(3)しか考えられないので、(2)ではないと言われると、じゃあ(3)か?となり、
(3)ではないと言われると、じゃあ(2)か?と、そういうように(2)と(3)を行ったり来たりにしかならないのだと思います。
(2)か(3)か?ではなく、(2)でも(3)でもない、(1)だということで理解したら私なりには納得できます。
これで考えますと、(2)と(3)で共通するのは今は救われないということで、(1)と比べると、阿弥陀仏の本願との距離か隔たりか壁があるように思えます。それが救われない理由なのではないでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100123/1264247282#c1264516191

本願に対する距離感といいますか、自分が支えねばとか、自分が関与しなければならないとい思うからではないかと思います。
他力とは、私の行いが入る余地がないから他力といいます。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(御消息20/末灯鈔7

他力と言うのは、義なきを義とすといわれています。義というのは、私のはからいを義といいます。阿弥陀如来の誓願は不可思議なので、仏と仏のはからいであって、凡夫のはからいではありません。弥勒菩薩でも、仏智の不思議をはからう人はありません。そのため、阿弥陀如来の誓願には義なきを義とすと、法然聖人は仰いました。といわれています。

自分がそこに関与しようとした分だけ、阿弥陀仏のお働きは私から遠くになっているように感じるのは、他力には私の計らいはそもそも必要ないからです。必要ない者を差し挟んだ分だけ遠くなってしまいます。

上記の御消息は、法然聖人のお言葉として親鸞聖人が紹介されているものです。
同じように、他力とは凡夫のはからいのないことであるといわれた法然聖人のお歌を紹介します。

他力とは 野中にたてる竿なれや よりさわらぬをば 他力とぞいう

私からいえば何も関与できないことですし、自己を入れさせない働きが他力なので、自力を捨てさせるのは他力と説明されることがあるのはこのためです。

私からのはたらきかけもなく、ただあるのが阿弥陀仏の本願力です。その阿弥陀仏の本願力ただ一つによって救われますので、ただ今救われます。