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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-07-30 より深く信じられるようになったのが信心ではありません(頂いた質問

より深く信じられるようになったのが信心ではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏をたのむということは、阿弥陀仏をより深く信じていくということなのでしょうか?(頂いた質問)

より深く信じるかどうかになると、どれだけ信じられるかどうかが問題となります。

深く信じると言う言葉が、段階的な意味で言うならば、自分の心がより純粋になったことが救われたことになります。

信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いのないことであって、より深く信じられるようになったことではありません。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

信心か、そうではないかの違いは、「如来の御ちかひをききて疑ふこころ」が「ない」か「ある」かです。

阿弥陀如来の本願を聞いて疑う間は、迷いから離れることはできません。信心一つといっても、阿弥陀如来の本願を聞いて疑いないことです。

どれだけ真剣に聞いたかとか、どれだけ回数を重ねたかは、信心とは関係ありません。本願を疑うかどうかが、信心か否かの違いです。

より深く信じられるようになったことが、阿弥陀仏をたのむことではなく。本願を聞いて疑う心のないことが、弥陀をたのむということです。

自力を捨てて、弥陀をたのめと御文章にたびたび勧めておられるのは、より深く信じるように心がけなさいということではありません。

ただ今阿弥陀仏に救われなさいというお勧めです。

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