安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

行者正受金剛心の「行者」は何を行じる人?(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。

 別のところで、正信偈の中の「行者正受金剛心」の「行者」とは、廃悪修善を実行することだと聞いたことがあるのですが、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂く「行者」とは何を行じる人のことでしょうか。また、信前の「行者」と信後の「行者」の行いに違いはあるのでしょうか。(御文章?の「行者の悪き自力のこことでは助からず」云々と「念仏の行者には天神地祇も・・」といわれる行者の行いに違いはあるのでしょうか。)(メンデルさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110224/1298519758#c1298711577

1,阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂く「行者」とは何を行じる人のことか?

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂く「行者」は、一心念仏の行者です。歎異抄でいうところの「念仏者」「信心の行者」です。
正信偈大意の「行者正受金剛心」の部分には、以下のように書かれてあります。

 「開入本願大智海 行者正受金剛心」といふは、本願の大智海に帰入しぬれば真実の金剛心を受けしむといふこころなり。
 「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」といふは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。(正信偈大意・浄土真宗聖典(註釈版)P1036)

真実の金剛心を受けた人のことが「行者」であり、それを次の行では「一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば」と書かれています。
「行者」は、一心念仏の行者で、阿弥陀仏に救われ念仏する人のことです。廃悪修善を実行している人のことではありません。
私は、親鸞会でそのような解説をしていたことを聞いたことがあります。因果の道理の演題で話のときに、大体以下のような話がありました。

「まかぬ種は生えない、まいた種は必ず生えるので、一回聴聞した人と、10回聴聞した人と結果が同じはずがない、『行者正受金剛心』だから、行者とは「行く人」「実行する人」この横の線は廃悪修善で進む道だから、廃悪修善を実行していく人が、金剛心を受けることができる」と話をしていました。

これは、間違いです。廃悪修善を実行した人が救われるといっているからです。金剛心を正しく受けるのは、「本願の大智海に帰入する」からであって、「廃悪修善を実行した」からではありません。南無阿弥陀仏のお働きに帰入するからです。

2.信前の「行者」と信後の「行者」の行いに違いはある?

結論から言いますと行いそのものが念仏のときは同じです。その場合は、信心が異なります。念仏以外の行で何とか助かろうとしているひとは、行いそのものも異なります。

お尋ねの御文章と歎異抄の行者については、該当する箇所を以下に書きます。

まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。(御文章1帖目15通・宗名・当流世間・浄土真宗聖典(註釈版)P1106

ここでいう「行者」は、阿弥陀仏の救いを求めている人のことです。信前の人のことをいわれています。
「わろき自力のこころにては助からず」とありますから、行いそのものは念仏です。しかし、心が「わろき自力のこころ」なので、自力念仏では往生できません。

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。(歎異抄第7条・浄土真宗聖典(註釈版)P836

歎異抄第7条にでてくる「信心の行者」は、念仏者と同じ意味で、阿弥陀仏に救われた人のことです。

念仏は、行ではありますが、私自身が作り出す行ではなく、阿弥陀仏の行です。南無阿弥陀仏そのものの、私を浄土へ往生させる働きです。
その南無阿弥陀仏のお働きのままに、本願を信じ念仏する人が、金剛心を正しく受ける行者です。
なにかが実行できる人や、実行した人のことではありません。