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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-12-02

「凡夫にとっての「無疑」とは具体的にどのようなものか」(頂いた質問)

レモン 2012/12/02 03:57

質問です。

信心とは無疑心のことですが、疑いが無くなるということは、具体的にどのようなことだと思いますか。

以下、私の考えです。

「信心を獲得しても、阿弥陀仏の存在の有無、極楽や地獄の存在の有無、後生の存在の有無がわかるようになるわけではない。従って、『阿弥陀仏によって救われ、死後は浄土に往生する』ということが、本当にその通りになるかは信後の凡夫にもわからない。ただ、そのような『わかる、わからない』に関係なく、十七願力と十八願力によって名号は与えられ、十一願力によって凡夫は往生を遂げる」

このように考えていくと、「阿弥陀仏は自身の救済活動に無疑である」と表現することに問題はないと思いますが、凡夫にとっての「無疑」とは具体的にどのようなものか、突き詰めて説明するとなると難しい論題のような気がします。

山も山さんはどうお考えでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121201/1354308828#c1354388267

一言でいえば、考えても分からない。仰せに従うだけというところです。

なぜそのようになるのかといえば、「仏願の生起本末」には、私の後生のことも、それを救おうと働いてくださる南無阿弥陀仏もすべて現されているからです。

一ついえることは、ただ今私を救うという仰せは現実に私に働いてくださっているということです。それは、私が考えたことでも、お聖教を拝読した上での推測でもありません。

お訪ねの「凡夫にとっての『無疑』」については、つまるところ凡夫にとってあれこれ言わせないからこそ「無疑」(計らいない)ということです。

親鸞聖人が、

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P170)

http://goo.gl/0SLPy

といわれたのも「勅命」は、受ける側にあれこれ言わせない強い仰せだからです。無疑というのは、そもそも私の方であれこれいう必要のないものに対して使う表現です。「疑わないようにしよう」は私の計らいですが、「無疑」は疑い無いのでありますから、私の方での計らいは一切関係ない言葉です。

たかぼーたかぼー 2012/12/03 12:50 レモンさんが疑問に思ったこの問いは、信後において信心を考えれば考えるほど、同様の問いに行き着くことになるはずの問いであると思います。興味を引かれましたので一言言わせてください。

自分の心の中に現在すると感じられる無疑心を私が観察する対象としてとらえて、これを言葉で説明しようとしても、凡夫の知恵しか持たない私にとって無疑心を説明することは極めて困難であると感じます。常に阿弥陀仏の方が「自身の救済活動に無疑」であることから、また、阿弥陀仏の方に「私を摂取する願心」があることから、私は常に「それでよし」とこれを受容している。これが無疑心である。私が言葉でぎりぎり説明しようとすると、そのようになります。私の智恵では何ら確かな根拠やよりどころを得ることのできない弥陀の救いについて、それにも拘わらず無疑であるということは、もはや説明不能です。お聖教には祖師はさまざまに信楽について説明されていますが、祖師の心底では教行信証にあるとおり「不可称、不可説、不可思議の信楽」といわざるをえなかったのではないかと推察しています。それが歎異抄の「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしとよき人の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土に生まれるたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。」というお言葉になったものと思います。

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