安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏は裕福な人々の奢侈品みたいな感じがして、僕みたいな底辺の人間には高嶺の花のように感じている。」(死人さんのコメントより)

前回のエントリーの続きです。
死人さんよりコメントで

南無阿弥陀仏は裕福な人々の奢侈品みたいな感じがして、僕みたいな底辺の人間には
高嶺の花のように感じている。(死人さんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130602/1370122917#c1370264491

と頂きました。

「南無阿弥陀仏は高嶺の花」というコメントを読んで、考えたところを書いていきます。

南無阿弥陀仏の救いは元々底辺の人間のため

阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏で救う」と本願を建てられたのは、元々仏教で言う「修業」の実践や、「善根を積む」ことができないものを救済する為でした。


そのことについて法然聖人は、このように言われています。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P1209)

大まかな意味は以下の通りです。
阿弥陀仏は、全ての人を平等に浄土に往生させるために難しい条件を全て捨てられました。そして、全ての人が容易く浄土往生できるように本願を建てられました。
もし、仏像を作り、塔や寺を建てるものは浄土往生できるという本願を建てたならば、そんなことができない底辺の人は往生の望みが断ち切られてしまいます。
それに、仏像を作れるような金持ちは全体から言えば少なく、そうでない人の方が圧倒的に多いのです。もし阿弥陀仏が、智慧があり才能もある人ならば浄土往生できるという本願を建てたならば、愚かで智慧の劣った者は浄土往生の望みを断ち切られてしまいます。さらに、智慧がある人の方が少なく、智慧の劣った者の方がずっと多いのです。


もし、仏法の話を多く聞いたり学ぶことができる者を救う本願ならば、聞いたり学んだりする機会のない者は浄土往生の望みを断ち切られてしまいます。実際、多く法を聞ける人は少なく、それほど聞く機会のない人が大変多いのです。


もし、戒律を守る人が救われる本願ならば、戒律を守れない人がずっと多く、戒律を守れない人は浄土往生は高嶺の花になってしまいます。また、戒律を守れる人は少なく、戒律を守れない人はずっと多いのです。上記にあげた以外の仏教で言う「行」もまったく同じことです。


上記にかいたことから、知らなければならないことがあります。これらの「行」で浄土往生できるという本願ならば、浄土往生できる人は少なく、救われない人が多くなります。そこで、阿弥陀仏は、法蔵菩薩であったときどんな人も等しく救うという慈悲の心によって、すべての人を救う為に、仏像を作ったり塔や寺を建てた人が浄土往生できるとう本願にはされませんでした。
ただ、南無阿弥陀仏一つで浄土往生をするという本願にされました。


以上が、大まかな意味です。
改めて読んでみますと、今日とは少々事情が異なるところがあります。それは、浄土往生を遂げようとか、阿弥陀仏に救われようと思う人で「それなら仏像を寄進しよう」「それなら経典の勉強をしよう」「それなら戒律を守ろう」と思う人は今日非常に少ないという点です。


仮に「寺を建てる」「会館を建てる」というのに協力できる人があるとすれば、少なくとも底辺の人間ではないと思います。また「多聞多見」といって、平日の昼間に多く行われる真宗の法話に参詣できる人の多くは、底辺の人間ではないかもしれません。現実問題として、「浄土真宗の教えを聞いている」という人は、平日に寺の法話に参詣したり、講義に参加したり、少数ですが「わざわざ月に何回も富山に出かけたり」する人がそれにあたります。確かにそれらの人は、底辺の人間ではないかもしれません。

時代の変化で「南無阿弥陀仏」が過去の「智慧高才」などになっているのか?

法然聖人や親鸞聖人の時代と違い、南無阿弥陀仏による救いが、浄土真宗のひろまりにより一般化した結果、「南無阿弥陀仏で救われる」という教えについて、「南無阿弥陀仏で救われる人とそうでない人がいるのではないか」と受け取る人が現実に多くあるのではないかと思います。それは、上記の選択本願念仏集でいう「智慧高才」や「多聞多見」などが、南無阿弥陀仏に置き換わってしまい、それによって救われないと思っている人がいるという現実です。言い換えれば、「寺などの法話に実際足を運べるような体力や経済力がある人」でなければ救われないのではないかという意見です。


しかし、いつの世の中でもいろんな意味での「弱者」と呼ばれる人がいます。これは、社会制度が変わってもそれほど変わらないとおもいます。

特別養護老人ホームの祖母について

一例を挙げますと、私事ですが、私の祖母は現在90歳で地元の特別養護老人ホームに入居しています。平日は、短い時間ですが見舞いに行っております。そこに入居されている人の多くは、自分で食事もできず歩行もままならない状態です。とても「多聞多見」の状態ではありません。自らの意思で法話にいくことなどとてもできない状況だからです。それどころか、朝は職員の人に着替えさせてもらい、食事を介助してもらい、風呂にいれてもらったり、日中は椅子に座っている時間が大半で、自分の力では本を読むこともできない人がほとんどです、ましてネットを見ている人はありません。


私の祖母は「もう死ぬ準備をしないといけないね」と最近言うようになりました。そこで、私は南無阿弥陀仏を勧めています。祖母が言うには、「お経の言葉を唱えるのはとても覚えられないが、南無阿弥陀仏は称えられる」とのことでした。


祖母は、認知症もある程度進んでおり車いすでなければ移動もできない状態です。昨日私が見舞いに来たことも覚えていませんし、朝食事をしたことも覚えていません。そんな祖母でも南無阿弥陀仏と称えることはできるのです。
阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏で救うという本願を建てられたことは本当に有り難いことなのだと、祖母の見舞いに行くたびに感じます。


死人さんは、文字を読むことができます。ネットも見ることができます。その点では、私の祖母より「多聞多見」「智慧高才」です。
私は、祖母が「浄土往生は高嶺の花」とは全く思いません。全ては阿弥陀仏の願力によるものですが、祖母がこのまま死んでいくとは思っていません。死人さんも同様です。南無阿弥陀仏の救いは決して高嶺の花ではありません。死人さんを救う為に、阿弥陀仏が成就して下されたものですから、必ず死人さんも救われる時があります。それも、ただ今救われます。


底辺だからこそ、南無阿弥陀仏は届くのです。「ここにしか咲かない花」は南無阿弥陀仏の花です。

参照