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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2013-07-13

「真宗人としての生き方とはなんでしょうか?」(頂いた質問)

真宗人としての生き方とはなんでしょうか?(頂いた質問)

真宗人といわれるのは、浄土真宗阿弥陀仏の第十八願)の通りに生きる人だと思います。したがって、阿弥陀仏の第18願の通りに生きる人とは、ただ今阿弥陀仏に救われた人であり、信心決定の身になった人のことです。


浄土真宗を信じています」というならば、阿弥陀仏の本願に救われるのが、大前提です。その上で、阿弥陀仏に救われた人はどうするべきなのということについて、親鸞聖人はどのように教えられているのかについて以下、書いていきます。

大きく分けると二つになります。

  1. 阿弥陀仏の本願を伝えよ
  2. 愚者になって念仏せよ

1.阿弥陀仏の本願を伝えよ

これについては、正像末和讚に言われています。

(87)

他力の信をえんひとは

 仏恩報ぜんためにとて

 如来二種の回向を

 十方にひとしくひろむべし(正像末和讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P616)

http://goo.gl/pZLNY

阿弥陀仏に救われた人、他力の信を獲た人は阿弥陀仏のご恩を報ずるために、阿弥陀仏の本願力を全て人に弘めなさいとと言われています。

実際に、阿弥陀仏の本願力によって救われた人は、阿弥陀仏から本願力回向を頂いて、浄土に往生するお働きと、浄土から還ってきて衆生を済度するお働きを頂きます。その意味では、生きている間は確かに還相の菩薩として衆生済度することはできません。しかし、本願念仏を命のあるあいだ、有縁の人に伝えることをさせていただくというのが、親鸞聖人のご生涯の通りの行き方です。


2.愚者になって念仏せよ

これについて、御消息に親鸞聖人は書かれています。

法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。(親鸞聖人御消息(16)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P771)

http://goo.gl/v8P7d

親鸞聖人は、すでにお亡くなりになった法然聖人から「阿弥陀仏の本願を信ずる人は愚者になって往生する」と仰ったことを確かにお聞きになられました。その上で、法然聖人がものを覚えない人たちが法話に参詣することをご覧になっては「あのような人たちが往生するのは間違いない」と、微笑んでご覧になっていることを、親鸞聖人はご覧になられました。また、お聖教のご文をいろいろと出しては、いかにも賢明な振る舞いをする人を「往生はできるのだろうか」と、確かに仰ったことを親鸞聖人はお聞きになりました。


これは、法然聖人が聖道門の修行者の生き方と、浄土門の念仏者の生き方の違いを仰ったものです。聖道門の修行者は、智慧を磨いて仏の覚りを目指すという生き方です。それに対して、阿弥陀仏の救いを聞いている人は、智慧を磨いていく生き方はしません。「愚者になりて往生す」といわれたのは、今日でいえば、やたらと学者とならず、市井の念仏者として一生を過ごしていけよということになると思います。実際に、親鸞聖人は「教団」を形成することもなく、「教祖」となる生き方を否定されていました。ただひたすらに「愚者」という立場で、念仏の法を伝えていかれました。


そのことを仰っているのが、蓮如上人の御一代記聞書に出てくるお言葉です。

一 聖教よみの、仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。なにもしらねども、仏の加備力のゆゑに尼入道などのよろこばるるをききては、人も信をとるなり。聖教をよめども、名聞がさきにたちて心には法なきゆゑに、人の信用なきなり。(御一代記聞書_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1262)

(現代語訳)

「人前で聖教読み聞かせるものが、仏法の真意を説きひろめたというためしはない。

 文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのである」と、蓮如上人は仰せになったということです。

聖教について何一つ知らなくても、仏がお力を加えてくださるから、尼や入道などが喜ぶのを聞いて,人々は信心を得るのです。

聖教読み聞かせることができても、名声を求めることばかりが先に立って、心がご法義をいただいていないから、人から信用されないのです。

http://goo.gl/nmuQ0

ここで言われているのは、ことさら「アホになろうと努力せよ」ということではありません。「アホになろう」と努力する人は、本当の意味では「愚者」「尼入道のたぐひ」ではありません。


ただひたすら、念仏をし、南無阿弥陀仏を聞いて人に伝える以外にないというのが真宗人の生き方です。そのように私は思いますが、異論のある方もあると思います。このようなブログを、何年も書いていることはどうなのかとか、そういう葛藤もあるのが私自身です。とはいっても、有縁の人に、形はどうあれ阿弥陀仏の救いを知ってもらいたいという気持ちで日々生きています。それは命がある間は、かわりません。

純朗房義信純朗房義信 2013/07/13 19:30 本願寺23世の勝如上人の示された「浄土真宗の生活信条」の通りに生きようと日々努力させていただいております。なんまんだぶつ。

一、み仏の誓いを信じ
尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます
一、み仏の光りをあおぎ
常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
一、み仏の教えにしたがい
正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます
一、み仏の恵みを喜び
互いにうやまい助けあい 社会のために尽します

おさびしやまおさびしやま 2013/07/14 00:52 親鸞会で、阿弥陀仏一仏以外には絶対向くなと言われてきたので気になるのですが、真宗人の生き方として、神社にお参りをしたり、お祓いを受けたり、神社費をおさめたり、というようなことは、厳につつしむことなのか、さほど気にせずかかわればよいことなのか、どうなんでしょうか。

yamamoyayamamoya 2013/07/14 05:27 おさびしやまさん

自らが現世利益を祈念して、また物忌みを信じてそれらの行為をするということならば慎んだ方がいいです。平太郎のような状況でどうしても行かねばならないということも、今日ではそうそうはないと思いますが、自ら進んでかかわるようなことではありません。

おさびしやまおさびしやま 2013/07/14 13:14 山も山さん

御回答ありがとうございます。平太郎のような状況は、今日ではそうそうないということですが、私の住む地域では、毎年3つの神社から神社費を集めにきますし、集める係りも回って来ます。神社の清掃や祭りの世話役、厄年のお祓いも回って来ます。断ると奇異な目で見られますし、神社費を断ったとき、帳簿に私の名前が赤字で書かれたこともあります。自ら進んでかかわるつもりは全くありませんが、地域で当たり前にやっていることにかかわらない私は異端視されています。神を信じていないなら、地域の人たちとうまくやっていくために、神社でお祓いをしてもらい、祭りにははっぴを着て町を練り歩き、社殿も古くなってきたので建て替え費用を集めにきたら支払って、適当に合わせてやっていけばよいのでしょうか。真宗人の生き方としてどうすればよいでしょうか。

かちかち山かちかち山 2013/07/14 20:41 仏縁が深い人、という言い方は使ってもいいのでしょうか?

ひなひな 2013/07/14 23:18 「真宗人としての生き方」が出たついでに…と言ってはなんですが、「真宗人としての死に方」についてお尋ね致します。
加茂仰順和上は、「やはり、真宗も臨終が非常に大事なんです。
        (参らせてもらいます)と思うて、息を切りなさい。」と仰っておられます。
私は、真宗人は「狂乱往生」でもなんでも構わないと思っていたので、この言葉は以外でした。
「真宗人としての理想的な死に方(臨終の迎え方)」というものがあるのなら教えてください。

一念坊主一念坊主 2013/07/15 04:41 私は「なんまんだぶ なんまんだぶ」称えながら、死んで行きたい

南無阿弥陀仏

ひなひな 2013/07/15 08:04 一念坊主様、同感です。

私も「なんまんだぶなんまんだぶ」と称えながら死んでいきたいです。

一念坊主一念坊主 2013/07/15 09:16 「なんまんだぶ」も称えられないほど死が差し迫ったとき、例えば交通事故とか、戦国の昔なら戦闘のときとか、には「なむ三」なのでしょうね。
私の知り合いで、車のナンバーを「・763」にして乗っている人がありましたが。どんだけの緊張感で生きているのか、と思ったものです。

ひろしひろし 2013/07/15 13:02 ひなさん、こんにちは。
京都の十条でお会いした事のある者です。
四種往生は安心決定抄に出てくる言葉だと思います。
浄土宗では臨終来迎を問題にしますので臨終が問われますが、浄土真宗では御存知の通り臨終の善悪を問いません。
加茂和上の本は、私も5冊ほど持っておりますが、どの本に出てくる言葉でしょうか?
推測ですが、加茂和上は臨終の善悪で往生が左右されるのではなく、臨終にの心構えを仰ったお言葉と思います。
源信和尚の往生要集には臨終行儀が書かれていて、その中に三種の愛心も書かれています。
当生愛は未来生まれる世界への愛着心で、「間違いなく極楽往生させて頂きます」という心持ちで念仏させて頂く、という事が大切だという事だと思います。
臨終行儀には、後の浄土宗の人が儀式を書いていますが、儀式は必要無いですね。
藤原頼道が阿弥陀仏の像と自分の指を糸で繋いで極楽往生を願ったそうですが、真宗人には関係ないですね。

たかぼーたかぼー 2013/07/15 15:00 私は、臨終に称えても称えられなくても、どちらでもいいです。

バットマンバットマン 2018/12/31 15:04 臨終に念仏が称えられるとは限らないので今称えます。
南無阿弥陀仏

ひろしさんとは袖が触れ合ったことがあるかもしれません。
今どうされているのでしょう。

yamamoyayamamoya 2019/01/01 05:12 バットマンさん
コメント有り難うございました。ひろしさんですが、2015年に往生されました。
病気が原因です。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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