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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-08-07

「還相回向が本当なら、数多くの菩薩が出てきておかしくない(←みな曠劫流転しているから)し、菩薩の中にはお釈迦様のように現世で正自覚者となる方が出てもおかしくないのに、なぜそうなっていないのか、疑問なのです。」(ななしビックさんのコメントより)


ななしビック 2014/08/06 20:26

阿弥陀仏の本願の救いにあった境地を客観的な表現で知りたく、浄土真宗を外れたおバカな質問をさせて頂きました。失礼しました。

というのは、自分が阿弥陀仏の救いにあった、ということを客観的に評価する基準がない限り、勘違いしている人も中には必ず出てくる、と思っているからです。そこのところ、みなさんどのようにクリアされているのか、という疑問から各種質問させて頂きました。

みなさんには阿弥陀仏の本願があまりにもハッキリしていて愚問だったかもしれません。

阿弥陀仏の本願は間違いないと知らされていても、浄土のかけらも阿弥陀仏のかけらも確認できない、というのが私には信じられないのです。

還相回向が本当なら、数多くの菩薩が出てきておかしくない(←みな曠劫流転しているから)し、菩薩の中にはお釈迦様のように現世で正自覚者となる方が出てもおかしくないのに、なぜそうなっていないのか、疑問なのです。

菩薩はひっそり暮らしているのでしょうか。菩薩は一握りしかいないのでしょうか。菩薩はさぼっているのでしょうか。私が菩薩の活躍を知らないだけでしょうか。

また、52段あるといわれるいわれる悟りの頂点まで行ったのは、お釈迦様だけだと聞いたことがありましたが、お釈迦様以外の解釈を信じてよいものでしょうか。

このような疑問は阿弥陀仏の救いにあった方には全く湧きようがないものなのでしょうか。

ここをご覧になっている方は誰でも、私の疑問への何らかの回答をお持ちの方がいらっしゃいましたらご回答頂けたら幸いです。

半ば荒らしのようになってしまい申し訳ありません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140806/1407267486#c1407324403

ななしビックさんから、ブログをご覧のみなさんにもお訊ねがありました。何か、ご意見をお持ちの方はコメントを書いていただければ幸いです。

すでに、コメントをされた方の文章はこちらを参照下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140806/1407267486#c1407327877


以下、ななしビックさんのコメントについて書きます。

言われる通り「勘違いしている人も中には必ず出てくる」のは歴史的に事実です。浄土真宗で異安心問題が起きるのも、言ってみれば「勘違いした人」が過去にも多くいたからです。ただ、それを客観的に評価するというのは、なかなか難しいのも現実です。なぜなら、人間は他人の心を完全に知ることはできないからです。そこで、蓮如上人の時代から、信心の沙汰(談合)を勧められました。これは、本来自称も含めて「救われた人」同士で沙汰をしてみなさいということです。そういう場では、思い込みの人の言うことは浮き上がってくるものです。とはいえ、これにも参加している「自称救われて人」が全員「思い込み」だった時は、異安心集団ができあがってしまう危険性はあります。


信心とはどういうものか、阿弥陀仏に救われたとはどういうことかについては親鸞聖人にお聞きするより他に有りません。ただ、それを得手に聞いて「思い込む」人には、お互い話をし、また聴聞をしていくより他はないと思います。


還相回向について

コメントに

還相回向が本当なら、数多くの菩薩が出てきておかしくない(←みな曠劫流転しているから)し、菩薩の中にはお釈迦様のように現世で正自覚者となる方が出てもおかしくないのに、なぜそうなっていないのか、疑問なのです。

菩薩はひっそり暮らしているのでしょうか。菩薩は一握りしかいないのでしょうか。菩薩はさぼっているのでしょうか。私が菩薩の活躍を知らないだけでしょうか。

とあったので、還相回向について書きます。

親鸞聖人は還相回向について、教行信証証巻に以下のように書かれています。

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。(教行信証証巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

(現代語訳)

二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。

http://goo.gl/Pyo5bh

その還相回向について、以下の浄土論を引いておられます。

浄土論』(四二)にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。(教行信証証巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

(現代語訳)

浄土論』にいわれている。

 「出の第五門とは、大慈悲の心をもって、苦しみ悩むすべての衆生を観じて、救うためのさまざまな姿を現し、煩悩に満ちた迷いの世界に還っ てきて、神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。このようなはたらきは、阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門 という」

還相回向とは、浄土論でいうところの園林遊戯地門のことであると言われています。その中で「応化の身を示す」と言われています。

「応化の身」とは、相手に応じて導くことができる相で現れるということです。男性から言われたほうが、法を聞こうという人には男性の姿で、女性から言われたほうが聞けるという人は女性の姿で、親からなら親の姿で、子供からなら子供の姿で、現れてくだされるということです。

また、それについては親鸞聖人浄土論註を引かれています。

〈応化身を示す〉といふは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。(教行信証証巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

(現代語訳)

<救うためのさまざまなすがたを現す>とは、『法華経』の普門品に、観音菩薩が衆生を救うためにさまざまなすがたを現すことが説かれているようなものである。

http://goo.gl/odm6c5

還相回向として「応化身を示す」のは、法華経の普門品にあるようなことだといわれています。「普」とは「あまねく」ということで、菩薩が現れないところはないということをいわれています。菩薩は無数のすがたをあらわして私を導いて下さるということです。


こういうご文を拝読するとでいえることは「自分は還相回向の菩薩ではない」ということです。もちろん、本当の還相回向の菩薩は分かっておられるのだと思いますが、それを自分から言われることは有りません。このブログを読んでいる方の中にも、そんな方があって「そこはもう少し言い様があるだろう」と思われているかもしれません。

そういうところから、浄土真宗では自分以外を全て阿弥陀仏のご方便と味わう伝統があります。私も、法を聞くという点から言えば、私と縁のあったいろいろな人たちも還相回向の菩薩だったのだと味わっています。もちろん、「実は私は…」という人には会ったとこは有りません。また「ワシのお陰だろ!」と言う人は違うと思います。



時間の関係で、今日はここまで書きました。続きはまた書きます。よろしくお願いします。

追記 2014/08/08 18:01


還相回向が本当なら、数多くの菩薩が出てきておかしくない(←みな曠劫流転しているから)し、菩薩の中にはお釈迦様のように現世で正自覚者となる方が出てもおかしくないのに、なぜそうなっていないのか、疑問なのです。(ななしビックさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140806/1407267486#c1407324403

還相の菩薩といっても、上記に書きましたようにあらゆる相であらわれて下さいます。「菩薩像」そのままの相で現れるとは限りません。

また、お釈迦さまのような仏のさとりを現に開く人があらわれない件については、そのような形で仏がまだ現れていないところに出ておられるのだと思います。この地球上では、現にお釈迦さまが現れられて「教」を説かれているので、仏の相ではあらわれられないのではないでしょうか?


菩薩はひっそり暮らしているのでしょうか。菩薩は一握りしかいないのでしょうか。菩薩はさぼっているのでしょうか。私が菩薩の活躍を知らないだけでしょうか。(ななしビックさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140806/1407267486#c1407324403

現在この念仏の教えを聞かれる方がおられるのは、菩薩方の活躍の結果だと思います。

また、菩薩の働きについては、さぼられるようなことはないということを教行信証証巻から紹介します。

〈本願力〉といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳の相と名づくとのたまへり(教行信証証巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

(現代語訳)

<本願力>とは、八地以上の菩薩が平等法身のさとりの中において、常に禅定にあって、さまざまなすがたを現し、さまざまな神通力をあらわし、さまざまな説法をするのであるが、これらはみな阿弥陀仏の本願力によるものであることをいう。たとえば阿修羅の琴は弾くものがいなくても自然に調べを奏でるようなものである。これを思いのままに衆生を教え導く第五の功徳の相というのである」

http://goo.gl/Z7Uy7X

本願力による還相回向の活躍をされる方々を、「たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし」と言われています。還相回向の菩薩の活躍は本願力によるので、その菩薩自身が「やる気」を起こさないとできないものでは有りません。それを「阿修羅の琴」に例えられています。阿修羅の琴は、「聞こうと思えば弾かなくても自然に意にしたがって妙なる音を出すといわれる」ものです。それに例えられたということは、還相回向の菩薩の活動も、自分で「こうしよう、ああしよう」と考えるものではなく、本願力によって自然にそうなることだと言うことです。


また、52段あるといわれるいわれる悟りの頂点まで行ったのは、お釈迦様だけだと聞いたことがありましたが、お釈迦様以外の解釈を信じてよいものでしょうか。

このような疑問は阿弥陀仏の救いにあった方には全く湧きようがないものなのでしょうか。(ななしビックさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140806/1407267486#c1407324403

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、教行信証の中で真実をあきらかにされるのはお釈迦さまだけであるということで書かれています。

教行信証教巻は、真実の教は大無量寿経であるといわれ、その大無量寿経が真実である根拠については経典からしか引かれていません。教巻に限っては、七高僧の著作も引文されていません。その意味で、お釈迦さま以外の解釈をされなかったのが親鸞聖人です。その親鸞聖人のお示しに従うことには疑問はありません。もちろん、その前提として阿弥陀仏の仰せに疑いないというのがあります。


教義としてわからないことは、いろいろあります。そこは勉強しか有りません。ただ、勉強すればそれだけ南無阿弥陀仏の謂れを知らされて有り難いものです。