第七回真宗合同布教大会に出させていただきました。私は「浄土真宗の信心について」と題して話をさせていただきました。
20分の持ち時間でどんな話をしようかと考えていましたが、考えて見るほど信心について話をするというのは、なかなか難しいものだと思いました。
なぜ難しいかと言えば、親鸞聖人の定義される「信心」と、日常に使う「信心」の意味があまりに違うからです。同音異義語である「信心」について話をしようと思えば、言葉の定義の話をしなければなりません。しかし、今迄いろいろな方と話をしてきて感じることは、この「信心」の定義を抜きに話をしても、お互い話しても質問をしても一方通行になってしまいます。
まず、信心については、親鸞聖人は無疑心であると言われています。
信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり(一念多念証文)
それに対して、私たちは信心と聞くと、疑わないことだと思っています。
現在の日本語辞書では以下のようになっています。
大辞林 第三版の解説
しんずる【信ずる】( 動サ変 ) [文] サ変 しん・ず
- 疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。 「おのれの−・ずる所に従って行動する」 「サンタクロースを−・じている」
- 疑うことなく,たよりとする。信頼する。 「 − ・じていた友人に裏切られる」 「わがチームを−・じている」
- 神仏などをあがめ尊び,身をまかせる。信仰する。 「仏教を−・じている」 「神を−・ずる人」
この(1)と(2)で使う場合が殆どです。
ですから、「信じるの反対語はなんですか?」と聞けば「疑うことだ」と答える人は多いと思います。
では、「疑う」の対義語を「信じる」以外で出すとどうなるでしょうか?
疑うの反対語は「疑わず(不疑)」となります。
では、信心=疑わず(不疑)なのかといえば、そうではありません。あくまで信心=無疑心であって、無疑心≠不疑心です。
不疑とは、「私は疑っていない」という状態で、そこには常に「私」があります。「私は疑っていないという自覚」が「不疑」ですから、親鸞聖人の言われる「無疑心(信心)」とは異なります。では、無疑心とは何かといえば、文字通り「疑が無い」状態です。ここで「疑」というのは、「私は疑っていない」といっている信心を言います。それを自力の信心ともいいますが、その自力の信心が「無い」のが無疑心であり、信心です。「私は疑っていませんと自分で力むような私がない」のが、親鸞聖人のいわれる信心です。私は信じていますということなく、ただ南無阿弥陀仏を聞き入れているのが、信心です。