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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-03-06

「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

お尋ねの件は、阿弥陀仏の本願には疑いないのだけれど、これが無疑心と言ってよいのか、それともなにかこれ以上に証拠になるようなことがあるのではないかということだと思います。

一番大事なことは、「阿弥陀仏の本願はそうだなと思っている」という点が、どういうことなのかということです。お尋ねの方は、「阿弥陀仏の本願に疑いないのだけれど、なんだかもやもやする。何か証拠が欲しい」ということですが、何か確かな証拠とは何でしょうか。「このもやもやがすっきりした」という実感でしょうか。 もしそうなら、疑いがあるということです。

しかし、すっきりしたという「実感そのもの」は信心ではありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通)

http://goo.gl/0jUyLc

この御文章では、阿弥陀仏の本願が成就したすがたが、いまの南無阿弥陀仏であると言われています。つまり、南無阿弥陀仏から言えば、この南無阿弥陀仏に疑いないこと(確かなこと)が、阿弥陀仏の本願が確かな証拠であるということです。


また、阿弥陀仏の本願が確かということになれば、私が浄土に往生することも間違いがないということになります。

別の言い方をすると、阿弥陀仏という仏が本当におられるのか、浄土は本当にあるのかという証拠は、南無阿弥陀仏以外にはありません。


一般には、「証拠」というのは何かの数字や計測装置、あるいは「具体的なもの」のことを言います。例えば、アインシュタインによって示された重力波は、米国の研究施設「LIGO」によって検出されてその存在が証明されました。重力波というものがあっても、それを計測する機器やデータがなければ、その存在を証明できないのが科学の世界です。また、それ以外でも「言葉」が有っても、それを裏付ける「言葉以外の証拠」がないと、それは「不確かなもの」とされてしまいます。


そういう意味では、「お聖教にこう書かれている」というのは、証拠にはならないというのが、現代の普通の感覚です。しかし、御文章に書かれているのは「その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。」です。いまの南無阿弥陀仏が、助けるお働きであることに疑いなければ、それで私が往生することも、阿弥陀仏の本願があることも、阿弥陀仏がおられることも間違いないという証拠となります。また、信心決定というのは、それらに疑いないことですから、信心決定したかどうかの証拠は、いまの南無阿弥陀仏に疑いないかどうかです。いま南無阿弥陀仏と称えて念仏していること自体が、証拠となります。もちろん、南無阿弥陀仏と称えているけど、これで助かるのかどうなのか、また何回称えたら助けて下さるのだろうかと考えるのは、南無阿弥陀仏を疑っている状態ですから、信心決定しているとは言えません。

お尋ねの「もやもや」が「証拠がないことにもやもやしている」のか、「南無阿弥陀仏にもやもやしている」のかは分かりませんが、南無阿弥陀仏が私を救う働きであることに疑いないのが信心です。ただ今救う仰せを聞いて、ただ今救われて下さい。

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