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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-11-25

「南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。(求道者Kさんのコメント)

求道者Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

求道者K 2016/11/23 21:24

興味深くよませていただきました。電子書籍のご著書も拝読している最中ですが質問させてください。(これまでと重複であればすいません)

浄土真宗は、南無阿弥陀仏の宗教ですから、南無阿弥陀仏一つです。南無阿弥陀仏一つで救われ、南無阿弥陀仏一つで往生します。

とのことですが、数々の法話等をお聞きしましても、「必ず救われます」というお話しはお聞きしましても、残念ながら「私は救われました」というお話をほとんど聞いたことがありません。

山も山様ご本人様は救われているのでしょうか?救われていることと思いますので、是非、南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。

もちろんお聖教上の言葉による表現もお聞きしたいところではありますが、この現実生活における内容としてそれがどのようなものなのか、なるべく言葉を尽くして表現してくださると有難いことです。よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160929/1475150538#c1479903870

私は救われましたという法話がないのは、法話というのは基本的に阿弥陀仏のお働きを褒め称えるものだからです。なぜなら、阿弥陀仏に救われたと言っても、私は何もしていないので、自分のことで語ることはありません。例えば、九死に一生を得たような場面で、自分の機転や行動に関係なく救助隊の人に救助された人は、仮にその体験を語るにしても、「自分は何もしてないのですが」という前提で話をするしかありません。その上で話をするとすれば、「救助隊の方がどう苦労をされたのか」という話をするしかありません。

そこで私自身が救われているかというお尋ねですが。そういうことでしたら救われています。ただ、どう救われたかということを、ブログに書かないのは先に書いたような理由からです。往生については、阿弥陀仏が必ず浄土往生させるという仰せを聞き入れているだけで、私自身が浄土をこの身で見たことはありません。


お尋ねの趣旨からして、救われたら現実生活の内容としてどういうものなのかということなので、現時点での思うところを書いてみます。現時点で、といいますのは、救われたあとでも真宗では「お育て」という言い方をして、救われた後にまた阿弥陀仏のお育てによって信心についての味わいは成長または変化していくものだとされているからです。それ自身は、私も感じるところです。5年前と今、昨年と今では異なります。


救われたらどうなるかについては、それに該当することが一般に少ないので、私自身が感じることで例えますと、一度クリアしたゲームの二週目といった感じです。

私は、1973年生まれでファミコン世代の人間です。私が10才の時にファミコンが発売されました。それ以降、鬼ごっこや三角ベースをして遊んでいたのが、ファミコンを持っている友人の家に集まってゲームをするようになりました。そのうち私もファミコンを所有するようになり、ゲームに夢中になりました。


どのゲームも最初はエンディングを目指して頑張ります。では、一度クリアしたゲームはそれで二度とやらないかといえば、そうではありません。言い方はいろいろありますが、よくいう言い方では二週目という状態になります。つまり、一周回ってまた、最初からやり直すか、ゲームによってはそのあとも続けるというものです。

二周目になると、一旦クリアをしたので、ゲームをクリアする以外にゲーム内のいろいろなことを試してみたり、ゲームの世界そのものを楽しむようになります。クリアする前は、如何にこのゲームを早くクリアするかばかりを考えていたのが、一転してゲームの世界そのものを楽しめるようになります。

現在の私の感じることは、このゲームの二週目によく似ています。ゲームというのは、クリアしたからといってその瞬間に主人公が急に強くなったりはしないものです。クリアしたことによって出来ることが大きく増えることはありません。多くの人におなじみのスーパーマリオを例にとると、全部のステージをクリアしても、主人公のマリオが出来ることは全く変わりません。一度クリアした人は、クリア自体を目標とせず、それぞれの人が、その人にあったゲームの楽しみを見つけて遊んでいます。

私が救われたあとに、何が変わったかといえば、上記のようなものです。

以前は、現実生活に加えて、自分は救われるのか救われないのかという緊張感が常にある状態で生活をしていました。先が見えない不安は常にあったと思います。

しかし、救われてみると、「どうしたら救われるか」という心配はなくなりました。常に気にかかっていたことが、解消しました。ただゲームと違うのは、ゲームをクリアできるかどうかは、本人の努力次第ですが、阿弥陀仏に救われるには、私の努力は関係ありません。ただ、阿弥陀仏のお力によって救われます。

ゲームの二週目に例えたのは、クリアしたあとのゲームの内容がどんな内容であったとしても、一度終わったという事実は変わりないということです。別の言い方をすれば、私は生きている間に、人生が二周目になったようなものです。「救われるかどうか」の人生が一度終わり、「救われた後の人生」が始まりました。どういうことが起きるかということは、見通せるような智慧はありませんが、阿弥陀仏が私を浄土に往生させ、仏にしてみせると誓われた本願は、その通りと聞き入れています。どんな経路をたどったとしても、浄土往生に変わりがない人生にそれ以上望むものはありませんから、自分のできることはさせて頂こうという気持ちで生きています。

tokuyoshiminetokuyoshimine 2016/11/25 23:18 求道者Kさま

救われたという人が少ない、あるいはあまり聞かないと思っておられるならそれは大きな間違いです。
表現は違っても少なくとも山も山さまのブログのリンク先のブログのかなりの方は表現こそ違え救われたと皆さんおっしゃっています。
私も、「貴方、救われましたか。」と聞かれれば「私は地獄一定ですが、阿弥陀様が私を救うと誓っておられます。私はそれにお任せしました。南無阿弥陀仏にお任せしました。」と言い切ることは出来ます。
そういうものなのです。
阿弥陀様のお慈悲に触れたら、救われたとか救われないとか、どうしたら救われるのかとかが無くなってしまいます。
なかなか理解できないでしょうが、私のブログのここのコメントを一度読んで見てください。
http://tokuyoshimine.hatenablog.com/entry/2015/10/03/204011
よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

求道者K求道者K 2016/11/26 09:41 お話しお聞かせいただきありがとうございます。またとくよしみね様のブログも少しばかり拝見いたしました。この場をお借りしてお礼申し上げます。現代という時代はこうしてインターネットを通じても信心談義できるのが有難いですね。
さて、もう少しばかり質問させてください。

阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。
親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。
生もご縁、死もご縁です。私は母から生まれたがそれもご縁の一つに過ぎない。ガンジス河の砂の数ほどのご縁が私を成り立たせている。だから娑婆の縁尽きれば去っていくのみです。そういう意味でいのちは平等です。縁において生起し、縁において去る。生まれが平等なのにどうして生き様でや死に様で去ることに差が生まれましょうか。そういう縁のもとの世界が海なら、人のいのちは波にたとえられますね。海から生まれ海に還っていく。
よって浄土教ではその海を「浄土」と称しているだけであり、どんな方でも往生浄土は自然な事なのではないでしょうか。
では仮にそれがそういうことだとすると、その「往生浄土」という救いと「今」がどう結びつくのかが問題です。「往生浄土」の確信が「今」だとしても、往生は未来のことであり、今目の前の悩み苦しみに向き合う力になるのかに疑問があります。それは今と往生浄土の比較論であり、まるで「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。
親鸞聖人は現生十益を上げますが、私はそれも浄土の利益というよりは、縁起の道理から当然受け入れざるをえないことに感じます。私が良いと思うことも、悪いと思うこともいただいたご縁・私を成り立たせるご縁であり、それに対し悲観的態度をとるか、肯定的態度をとるかは私の自由であるからです。
このような形で結果的に死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる私ですが、入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり、そこに南無阿弥陀仏は必要ではないのではないか?と感じました。必要であったとしてもそれは「南無阿弥陀仏のいわれ」であり、「南無阿弥陀仏」ではありません。そうなるとこの救いには「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」という条件が必要となります。「南無阿弥陀仏」と称えるだけではこのような考えに至らなかったからです。(しかし私としてはきっかけは南無阿弥陀仏だったので感謝の意でお念仏は申します。他の人に絶対にコレとすすめるには至っておりません。)
一体、南無阿弥陀仏とは何なのでしょうか?また、往生浄土について私は「自然」のことと思っていますが、「では、無宗教(波阿弥陀仏と称えない人)やキリスト教(他宗)の人はどうなのか?極楽浄土はそこに生まれたいと願う人が皆もらさず生まれる処であり、極楽に強制連行されるわけではない」と言う人もいます。
「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。
以上、疑問が散在しておりますが、複数に分けてでもかまいませんのでお答えいただけると有難いです。

求道者K求道者K 2016/11/26 16:17 すいません、勢いで打ったら誤字が多発しておりました。ゆっくりでかまいませんので、ご返答に期待しております。
×「生き様でや」→〇「生き様や」
×「飢えでくるんで」→〇「飢えで苦しんで」
×「波阿弥陀仏」→〇「南無阿弥陀仏」

yamamoyayamamoya 2016/11/28 22:18 返信が遅くなりすみません。短文ですが、少し書いて行きます。
>阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。
これについては、真宗では「称名」そのものも、阿弥陀仏の念仏申させるお働きという説明をします。ですから、念仏するという行為そのものは、「私の側の特定の行為の有無で救うか救わないかが別れるという条件」には成りません。
明日は、コメントも含めてもう少し長く書いてエントリーにします。すみませんがよろしくお願い致します。

YGMYGM 2016/11/29 15:56 求道者Kさん
大変よく考えられていて、筋道がしっかりした内容だと感じました。
スキがないのでどこから切り込みをいれたらよいかとても難しいです。が、
>>よって浄土教ではその海を「浄土」と称しているだけであり、どんな方でも往生浄土は自然な事なのではないでしょうか。
のところですが、これには違和感があります。
自然に浄土なら、いま浄土でなく人間として迷いの世界にいるのはおかしいです。
いま迷いの世界なら、今後も死後も迷いの世界のままずーっと続いていくのが自然ではないでしょうか。
ただ、
>>死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる
とのことでしたら既に迷いの世界ではないのかもしれません。
であればなお一層弥陀の本願をありがたくそのまま受け入れてゆける筈だと想像致しております。
南無阿弥陀仏のいわれを理解するのは、救いを受け入れたあとのことだと思っております。

求道者K求道者K 2016/11/30 18:00 >YGM様
現生往生、死後往生の違いですかね〜。本派さんは死後往生がはっきりしていますよね。大谷派はあやふやですが、私は現生往生寄りの理解なのだと思います。今の娑婆世界を穢土にしているのが私たち。浄土とは実体世界ではなく(そもそも諸法無我なら当然ですが)、報土因果顕請願ですから、因も果も本願です。つまり本願のはたらく場です。本願(無量寿仏)の光が「今」届いているかどうかなのではないでしょうか。まあ現生の娑婆世界も縁起にして空なるものならば、死後浄土世界論も縁起にして空なる世界としてありえないわけではないのでしょが。そうなると、くえ一処も単なる「海」としての世界ではなく、「実体性をともなった再会」としてあたたかみを持ってはきますね。

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