Hatena::ブログ(Diary)

安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-11-29

「阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。」(求道者Kさんコメントより)

求道者さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コメント欄にも一部書いたものに書き足してエントリーを書きます。ただし、質問も長文なので、何回かにわけていきます。よろしくお願い致します。

コメントより

>阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。

これについては、真宗では「称名」そのものも、阿弥陀仏の念仏申させるお働きという説明をします。ですから、念仏するという行為そのものは、「私の側の特定の行為の有無で救うか救わないかが別れるという条件」には成りません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480339098

上記はコメント欄に私が書いたものです。

それ以降の、求道者Kさんのコメントには

親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。(求道者Kさんのコメントより)

自然の浄土親鸞聖人がいわれているところは、以下の部分です。

(71)

念仏成仏これ真宗

 万行諸善これ仮門

  権実真仮をわかずして

  自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

(76)

五濁悪世のわれらこそ

 金剛の信心ばかりにて

 ながく生死をすてはてて

 自然の浄土にいたるなれ(高僧和讃)

どちらも同じ意味で「無為自然の浄土」という意味で使われています。

無為自然。さとりの世界は有無の分別を離れ、分別による限定を離れた絶対無限の境地であることをいう。親鸞はこの場合も「自ら然り」という静的なものではなく、「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。(浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

または、自然とは涅槃の別名でもあります。

ですから、自然の浄土とは阿弥陀仏のさとりの領域をあらわされています。そこは、人間の計らいを離れた状態にあります。


「往生浄土は当然の成り行きではないか?」とのことですが、阿弥陀仏の本願力によって救われて行くので、その本願力によれば浄土往生は誰でもできます。ただ、阿弥陀仏の本願では、罪の大小や性別、年齢などによっての違いはありませんが、本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると誓われています。

その意味では、死ねば誰でも浄土に往生するという本願ではありません。「願力成就の報土には、自力の心行いたらねば」(高僧和讃)といわれるように、自力修行の人は浄土にいたることは出来ないといわれています。自然の成り行きで浄土往生はできません。

すみませんが、続きは次のエントリーに書きます。よろしくお願い致します。

みそみそみそみそ 2016/11/30 11:52 最近、真宗の教えに縋って「助けてください阿弥陀様〜!」と言って行きていても不毛だなと思い、
一旦、真宗の教えから離れ、自分なりの解え(悟り)を求めて、色んな教えに触れ、いろんなことに挑戦し、自分の中の生死を離れられない迷いの心を打開しようと模索しています。

しかしなぜでしょう。そういったことをやればやるほど、辿り着く解えは何故か不思議なことに「本願成就文」にたどり着きます。

特別「南無阿弥陀仏」を求めよう、聞こうとせずとも、日常の中にふっと、自然に、「南無阿弥陀仏」の言葉が入ってきます。
これがいわゆる17願、12願と言うもの何かもしれません。

さて、そんなオカルトめいた怪奇現象の話は置いといて、そんなまどろっこしく私に逐一アピールするならさっさと救えよと思うのですがどうなのでしょう。

どれだけ立派な法であれ、それが現実と噛み合っていなければ机上の空論でしかないし、
一人ひとりが持つ迷いの心というものは誰かに何とかしてもらうと言うものではなく、
こればかりは自分と向き合いしっかりと地に足を付けて解決していくべきものではないのかなと思います。


自分でなんとかしなきゃいけない問題をドラえもん(神仏)に何とかしてもらおうという考えで居る限り永遠に救いとやらには巡り合わないと思うのですが如何お考えでしょうか?

ななしくんななしくん 2016/11/30 14:24 宝くじに当たるには買い続けるしかないです
浄土真宗に信仰心がある時点で前後賞は当たっていると考えましょう
どれぐらい道を歩めば1等が当たるのか、答えは風の中に吹かれている

求道者K求道者K 2016/11/30 17:05 山も山様、お忙しい中有難うございます。これからの一連のエントリーを読ませていただいた上で、最後にまた何かありましたら質問させていただきます。
以下は、現状の感想です。

「南無阿弥陀仏一つです」「ただ今救われてください」(≒条件なくみんな救われますよ)とおっしゃる本ブログ管理者様に「条件がないのは当然じゃないですか?でもじゃあ南無阿弥陀仏ってなんなのでしょうね?」と問うと、「本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると誓われています。その意味では、死ねば誰でも浄土に往生するという本願ではありません。」と逆に条件が帰ってくるところが味わいの面白さでありますね。

なるほど「自然の浄土」とは「往生浄土」が自然なのでなく、浄土の「性格・はたらき」が自然ということなのですね。そういえば「自然はすなわち報土なり」でしたね。
我がはからいによるお聖教の切り取り読みが危ういことを教えていただきました。

しかし、「往生浄土」に「本願を信じ」という条件が必要となるとほとんどの人は救われませんね。「信楽受持甚持難 難中之難無過斯」ですから。「信心もいただくもの」「阿弥陀様から投げられたボールを受け取るだけ」という論理が展開されるのかもしれませんが、その受け取ることを大多数の方が疑って自力を尽くしていくわけですから。摂取不捨とは言いながら阿弥陀様も器の小さいお方です。とても安心して「おまかせ」なんてできませんね。くわばらくわばら…。

さて、「南無阿弥陀仏のいわれ」の論理展開にはお育ていただいた環境による影響も大きいのでしょうね。本派か、大谷派か、それ以外か…なお私は大谷派です。
長文による論理解釈のこねくり回しも大事ですが一度それを捨てて単純に表してみるのも整理できてよいかもしれません。

?娑婆に誕生→獲信(=正定之聚)→死亡即往生浄土即成仏(覚り)→(還相)→涅槃
?娑婆に誕生→獲信できず→死亡→輪廻?
※無我であるならば往生する主体、未獲信者の死亡後の輪廻主体は?

?娑婆に誕生→獲信(=正定之聚=等正覚=往生浄土とも称す)→死亡(=涅槃=往生浄土とも称す)
?娑婆に誕生→獲信できず(=辺地=疑城胎宮=輪廻)→死亡(=涅槃=往生浄土とも称す)
※獲信に関わらず往生できるがそれでは苦しいままの今生なので獲信が大事。つまり救いには条件がないが、救いの実感には条件があるみたいな。

とか。私は現状で??みたいな感じの味わいっぽいです。
しかし、「往生」とか「浄土」とか「涅槃」とかの言葉に関して、ヴィドゲンシュタインの「箱の中のカブトムシ」のたとえ話のように、言語理解の相違による行き違いがあるだけでみんな同じようなことを考えているのかもしれません。

いずれにしましても今後の展開に期待大でお待ちしております。

求道者K求道者K 2016/11/30 17:06 >みそみそ様
「わからない」「救われない」と言いながら自分の「思い(自力)」で「悟り」とは何か、「救いとは何か」を握りしめているから「わからない」のだと思います。
自分の思いと違うからわからなくなるのです。「悟り」や「救い」を求めているつもりで「自我」と一人相撲しているようにお見受けします。

「人間は無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信ずることによって迷うのだ」(ルソー)

です。
「悟り」や「救い」とは「悟りや救いがわかる」のではなく「悟りや救いなどわかならい私」がはっきりと「わかる」のだと思います。「わからない私」は悟りや救いに「おまかせ」するのみです。
だから「救うよ」の呼びかけに対し「はい、わかりました」の返事で終わりなのです。あとはゆっくりと味わうのみです。私は今、味わいの最中でこうして山も山様にご迷惑をかけているのだと思います。

求道者K求道者K 2016/11/30 17:09 すいません文字化けしてますね。略表は上から1、2、3、4で私は3、4のような理解であるとお伝えしたかったのです。

ななしさんななしさん 2016/12/01 07:02 求道者Kの言われることは無生忍を悟るということでしょうか?

求道者K求道者K 2016/12/01 09:20 >ななしさん様
わかりません。ななしさん様は無生忍を「わかって」いるのでしょうか?そもそも無生忍を悟ってない人が無生忍をわかるのでしょうか。自分の思う「無生忍ぽいもの」を捨てれた時に無生忍などわからないという形で無生忍に包まれるのかもしれません。
阿弥陀がわからない、阿弥陀の救いがわからないという人も「わからん」と言いながら自分のイメージした「阿弥陀っぽいもの」「救いっぽいもの」を追っかけているのではないでしょうか。
(たとえば神秘体験とか恍惚感とかスッキリ心洗われる感じとかはっきりわかった感とか)
そんなものないのですからいつまでも悟りようがありません。誰も阿弥陀を見たことも感じたこともないのに「まあ、こんなものだろう」と阿弥陀を手作りしているのです。それが「自力」です。
「そんなものなどどこにもなかった」「わかるはずもなかった」と知らされるところに「如」「あるがまま」「阿弥陀」の真理の世界が開かれるのではないでしょうか。「真理などない私」は真理に逆らう形で真理に包まれるのだと私は感じています。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証