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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-12-04

「「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。」(求道者Kさんのコメントより)

生もご縁、死もご縁です。私は母から生まれたがそれもご縁の一つに過ぎない。ガンジス河の砂の数ほどのご縁が私を成り立たせている。だから娑婆の縁尽きれば去っていくのみです。そういう意味でいのちは平等です。縁において生起し、縁において去る。生まれが平等なのにどうして生き様でや死に様で去ることに差が生まれましょうか。そういう縁のもとの世界が海なら、人のいのちは波にたとえられますね。海から生まれ海に還っていく。

よって浄土教ではその海を「浄土」と称しているだけであり、どんな方でも往生浄土は自然な事なのではないでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関しては、前回のエントリーに書きました。自然の浄土といわれる「自然」は無為自然のことなので、「どんな方でも往生浄土は自然な事」ではありません。

では仮にそれがそういうことだとすると、その「往生浄土」という救いと「今」がどう結びつくのかが問題です。「往生浄土」の確信が「今」だとしても、往生は未来のことであり、今目の前の悩み苦しみに向き合う力になるのかに疑問があります。それは今と往生浄土の比較論であり、まるで「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関して、未来の往生と、今の目の前の苦しみに向き合う力の関係についてのご意見だと受け取りました。求道者Kさんのいわれるような疑問は、私も以前ありました。確かに、往生浄土が定まっていても現実問題がなくなく訳ではありません。「未来に救いがあるから、今は耐えていけ」では、特に現代の人は納得できない人も多いです。

阿弥陀仏に救われる、信心決定、信心を賜るなどいろいろと言いかたはありますが、信心という言葉が持つイメージから、先のような疑問は起きていたのだと後で分かりました。それは、阿弥陀仏に救われたら「私は往生間違いないと私が信じられるようになる」と思っていました。しかし、本来は阿弥陀仏が私の往生は間違いないと信じられていることを受け入れることです。言い替えると、阿弥陀仏が私を信じられていることを聞き入れることで、私は始めて往生が定まると信じるようになります。


それについて親鸞聖人は阿弥陀仏の本願の三心(至心、心行、欲生)について以下のようにいわれています。

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻)

現代文明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。

いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。

阿弥陀仏が本願で願われた三心とは、すべて真実の心であって、阿弥陀仏から回向される心です。往生間違いないというのも、阿弥陀仏が私の往生は間違いないと疑い無く信じられているから起きる心です。


私自身も自分が往生できるとは、本来思ってもいないですし、また、法を聞き始めてもなかなか信じられないものです。しかし、そこでいくら「自分で自分に私は必ず往生する」と信じようとしてもとても信じられるものではありません。仮に阿弥陀仏から「自分を信じろ」といわれても出来るものではありません。例えば、受験にしろなにかのスポーツの試合の前に、「自分は大丈夫だ」と自分に言い聞かせても、家族から「自分を信じろ」といわれても安心できないのと同じです。つまり、未来のことを自分で信じようとしても、他人から信じろと現実は何も変わりませんから、そこには安心もありません。


ですから、未来は大丈夫だと信じたとしても、あまり現実の安心とはつながらないのではないかと考えてしまいます。また、阿弥陀仏に「自分を信じろ」といわれても、なかなか信じられるものではありません。


そこで、阿弥陀仏は「貴方が浄土往生することを疑い無く信じています」という信心を私に差し向けて下さっています。言い替えると、「貴方は浄土往生できると信じています」と常に仰っているということです。「阿弥陀仏に私は信じられている、しかも疑い無く」ということです。それを聞き入れる人は、「阿弥陀仏に信じられている人」となるので、それを信心決定といいます。

未来の往生浄土のことではありますが、今日的な言い方をすれば、「私を疑い無く信じて下さる方がおられる」という信心は、現在のことですし、それが現実の問題に対して私を動かしたり、支えてくださることになります。


「往生浄土の確信」というよりは、「私の浄土往生を疑い無く信じて下さる阿弥陀仏がおられる」ところに信心も、安心もあります。どこどこまでも凡夫である私にしてみれば、どんなことより「私の浄土往生を疑い無く信じて下さっている」ことが、私を支えて下さいます。私が信じる以上に、それよりも遥かに強く疑い無く私の浄土往生を信じて下さるのが阿弥陀仏です。その阿弥陀仏の「私を信じる力」によって私もそれをその通りと受け取ります。もちろん、私に能力があって浄土往生するのではなく、全ては阿弥陀仏のお計らいによるものですが、その上で「貴方は浄土に往生しますと信じています」と言い切られるのです。


考えて見ると、この娑婆世界において私を疑い無く信じている人はほとんどありません。そんな人に会えた人は幸福な人でしょう。真宗では阿弥陀仏を親さまとよくいいますが、疑い無く信じるという意味では、赤ちゃんが親を信じるように、私の浄土往生を疑い無く信じて下さるのが阿弥陀仏です。それだけ信じられていることによって、私は「信じられている」という信心が決定します。

それが、現実の問題になにか影響があるのかといえば、少なくとも「誰かに疑い無く信じられている人」と「誰からも信じられていないと思っている人」は違います。現実の問題に影響があるかとすれば、その点です。

それ以降の求道者Kさんのお尋ねについては、次回に書きます。遅れ遅れになって申し訳ございません。

求道者K求道者K 2016/12/04 11:23 有難うございます。南無阿弥陀仏

みそみそみそみそ 2016/12/04 20:07 有難うございます。南無阿弥陀仏。

ただどれだけの言葉を並べたとしても、つまるところ真宗の教えは「南無阿弥陀仏」と「本願成就文」のこの二つだけ。
そしてそこに「聞いている人」と「聞いていない人」の二種類の境地の人間が居る。たったこれだけの事実。

そこに未信の人が何を言っても、
どれだけその「聞いた境地」を求めて聞けるコツを聞き出そうと質問しても、
また教えそのものに疑問を呈し質問しても所詮机上の空論でしかなく、「信心童貞乙」でおわり。

だだそんな机上の空論を今際の際まで繰り広げるぐらいならいっその事、「念仏で救われる道」を捨てて
最悪「唯除五逆誹謗正法」の重い十字架を背負う覚悟で自力で悟りを開く道を私は決断致しました。

他はどうあれ私は今生で救われることはまずないでしょう。私の決断は100%間違っているでしょう。
ただそれでも良いと思っています。解(こたえ)は全て三大阿僧祇劫後の私が知っているのだから。
後はその三大阿僧祇劫先の未来の自分に今の私の命運の全てを託し、日々を愚直に生き、そして儚い一生を終える。

もうそれで充分だと思っています。

ななしくんななしくん 2016/12/05 10:48 自分なら救われていたら、うほほ〜と活動するとおもいますけどね。
まあ、でも仏法に最初に会ったのがインチキの親鸞会という事実ですでに自分は阿弥陀仏からハブられてると感じている。
「或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる」という言い方ですからねえ。
今頃になってやっとか、あのときちょっとでも耳に入れてくれれば自分なら何の問題もなく即分かったことじゃないかということばかりで
なにかこう、伝えるべきことを故意に隠されてまた元から正しいものをわざと間違った方向に捻じ曲げられ無駄な時間を徒に費やされたという悔しい思いがあります。
助けるまいとする阿弥陀仏の努力すら感じるんです。
だから自分には「貴方が浄土往生することを疑い無く信じています」という信心はくれないだろう。
チラシの裏に書いとく個人的話ですみませんが。

広海広海 2016/12/05 19:48 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。ありがたく文章を読ませて頂きました。また,書き写させて頂き幸せな時間になりました。この一声一声のお念仏が,真実誠種の仏心なのですね。ありがたいことです。

広海広海 2016/12/05 19:48 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。ありがたく文章を読ませて頂きました。また,書き写させて頂き幸せな時間になりました。この一声一声のお念仏が,真実誠種の仏心なのですね。ありがたいことです。

みそみそみそみそ 2016/12/05 22:50 ななしくんさま
横から失礼します。「或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる」の具体的な意味を教えてくれませんか?ググっても分かりません。
ななしくんさまからの回答を頂けたら幸いです。

みそみそみそみそ 2016/12/05 22:51 ななしくんさま
横から失礼します。「或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる」の具体的な意味を教えてくれませんか?ググっても分かりません。
ななしくんさまからの回答を頂けたら幸いです。

ななしくんななしくん 2016/12/06 02:47 みそみそさま

ググったら出てくるとおもいますが

正像末和讃 誡疑讃
(69)
本願疑惑の行者には
含花未出のひともあり
或生辺地ときらひつつ
或堕宮胎とすてらるる

本願を疑う心は他力の念仏者でない自力の念仏者には必ずあり、その罪は重い。
きらひ、すてらるるとあるように阿弥陀仏からもよろしく思われない。
疑う心がある自力の念仏のまま死んでも報土には往けないが一応仮の場は用意されている。
辺地や宮殿に送られて500年閉じ込められる。
そこでは生活に必要なものは全て揃っているが、仏や菩薩などにまみえることは出来ない。
説法も聞けないという難を受けます。引きこもり状態で停滞して何にも成長できない。 報土に生まれるとすぐあらゆる功徳を受けられるので
雲泥の差です。
ゆえに他力の信心を得て報土に往生しなければならないのですが、
それには阿弥陀如来の働きかけが必要だとおもうんです。私見ですが。
それがないと分かっていて焦っても善智識になかなか会えず二進も三進も行きません。
まあ辺地に生まれる者の個人的話なんか聞いてもつまらないですよ。笑
辺地のものは知恵も少なく頭が悪いですから。笑


浄土真要鈔
http://seiten.icho.gr.jp/html/720.html
ググって見つけましたが書かれてあります。

林遊林遊 2016/12/06 23:12 みそみそさん
Wikiネタ提供ありがとさんです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%90%AB%E8%8A%B1%E6%9C%AA%E5%87%BA

ロムロム 2016/12/07 00:07 親鸞会の人を見ていると、辺地(富山)や宮殿(二千畳)に閉じ込められて引きこもり、
弥陀の本願が聞けず長い間停滞する、
というのが分かる感じがするなぁ。
個人的な味わいだけれども。
南無阿弥陀仏

RCRC 2016/12/07 13:06 「信心」という言葉の 内容につきまして、私が 聴聞の中で 教えて頂いたことを 申し上げたく、コメントさせて頂きます。
「信心」という言葉から どうしても、聴聞したら、自分の心に何か変化が 起こると 考えてしまいます。
「信心」イコール「救われる体験」と、誤解してしまうと、
「私にはわれる体験がない、救われた境地にならない」イコール「私は救われていない、信心が無い」と言うことになってしまいます。
なので、「真宗の信心」は、「自分の心の問題ではない」と言うことを 前提として、「教え」を聞かないと
聞けません。
例えば、
●私たちは、生まれた時から 空気を吸って生きています。
空気中の酸素が、肺に入って 赤血球に取り入れられて云々 と、いう仕組みを 教えてもらって、初めて 空気が、私の生命を支えていることを知ります。

この例えが、適切かどうか わかりませんが、
この例えを真宗の信心の話に、引き当てると、
「真宗の信心」は、私が、 空気の中の酸素が、私の身体の中の赤血球に 取り入れられて 私の生命を支えていると教えてもらって、「なるほど❗と理解したこと」に 当たります。
空気は、私が私は生命を支えるものと知らない時から、私の生命を支えている重要なものです。
でも それは 誰かに教えてもらって その仕組みがわかって 初めて
「空気は、目には、見えないし、実感もないけれど、そういうものが、私の生命を支えてくれていたのか。」と わかります。
そして 空気というものに とても感謝する人もいるでしょうし、「へー、そんな仕組みだったのか」と、大して 喜ばない人もいるでしょう。

信心(空気が、私の生命を支えていることを知る
)を得ても、ご恩報謝(空気の存在に感謝する気持ち)は 人 それぞれです。

阿弥陀仏は、法蔵菩薩だった時に、「必ず 全ての人を仏にする仏となる。それが 出来なければ 仏と名乗らない」と誓われて、もう 阿弥陀仏になられました。

だから、私たちは、全ての人を仏にする仏が、既に はたらいている世界に生きていて、そのおはたらきは もう はたらいているということです。
では、私たちは、阿弥陀仏のはたらきが はたらいていることを どうやって知るのでしょう。
それがが「南無阿弥陀仏」の ご名号です。
阿弥陀仏は、「名号となって 救う」と 誓われて、今 、私たちは、名号の聞こえる世界に生きています。
法蔵菩薩のお誓いが観戦していなければ、「南無阿弥陀仏の名号」が 聞こえるはずが、ないのです。

「南無阿弥陀仏」は、「おまえを 必ず 仏にする仏がいるぞ。安心しなさい」という 阿弥陀さまの 呼び声そのものです。
だから「南無阿弥陀仏」は、「私の往生浄土の証拠」です。
例えば、受験生が大学に入学出来る証拠は、大学から届いた「合格通知」です。受験生に、合格の自信があろうと無かろうと、「合格通知」が 、大学に入れる証拠です。
私たちが、浄土へ往ける証拠は、「南無阿弥陀仏」です。
何故なら、法蔵菩薩は、「南無阿弥陀仏と、なって おまえを救う」って誓われて 今 ここに「南無阿弥陀仏」が聞こえるのですから。

「死んで浄土へ、行けるから、だから、今は、我慢しろっていうことかよ!」って 思う人にとっては、
そうだと思います。
それは、「空気のどこが 有難いんだよ?」って思う人には、空気は、有難くもなんともないのと同じことです。
有難くなくても、私を支えています。

有難いって 思う人にも、有難くないって思う人にも、善が出来る人にも、出来ない人にも「南無阿弥陀仏」っていう「往生浄土の証拠」が 聞こえてくださること、スゴイなーって思います。
「南無阿弥陀仏を聞いた」ことは、「往生浄土の証拠を聞いた」ことです。
「南無阿弥陀仏を聞いた」ことが 「真宗の信心を得た」ってことです。「聞く」イコール「信」、「聞 即 信」です。

法蔵菩薩が 五劫の思惟、兆載永劫のご修行の末に 「南無阿弥陀仏」に なって くださって「おまえは、浄土へ往って仏になるんだよ。心配いらないよ。安心しなさい」って 教えていてくださっていると お聞きすれば
私は、もう お腹いっぱいです。

南無阿弥陀仏

RCRC 2016/12/07 14:55 すみません。
上記の文章の 9行目
「私にはわれる体験」は、
「私には救われる体験」と、訂正します。
他にも、間違えが、あったら、すみませんm(_ _)m

RCRC 2016/12/07 15:04 度々、すみません。
法蔵菩薩のお誓いが「観戦」ではなく「完成」です。

おっちょこちょいで、ごめんなさい、

求道者K求道者K 2016/12/07 16:44 >RC様

おっしゃることはよくわかります。
今、私が疑問に思うのは往生浄土「できる人」と「できない人」がいるということ。
つまり、「なるほど❗と理解できる人」と、「なるほど❗と理解できない人」がいるということです。いや、「なるほど❗と理解できない人」も往生できるのだとすると私と同じような考えになります。

山も山様はそうではないとおっしゃっているように理解しています。(現状では)

南無阿弥陀仏一つで摂取不捨ということがどこで言えるのかが課題です。


また、往生浄土を死後とお考えなら、その救いと現生における救い(感謝)の説明が少し弱い様にかんじます。
たとえとしての空気(信心の比喩)と、実際の空気(我々の生命活動を維持するそのもの)の有難さがごっちゃになってしまっているように感じます。
リアル空気は現生で有難いですが、死後往生をなるほど!と理解する信心がどうして現生において有難いのかが問題となっております。

「お前を救うぞ〜!かならず救うぞ〜!私はお前を救うと信じてるぞ〜!救う証拠もそろってるぞ〜!だから必ず救うぞ〜!…ただし死後にな!」

が、なぜ今の救いか?が問題なのです。

RCRC 2016/12/07 19:07 求道者Kさま

ちょっと、質問させて頂いても、いいですか?
あなたは どこが わからなくて「なるほど❗」って理解できないのでしょう?
阿弥陀仏が、証拠も用意してくださっているのに。

求道者K求道者K 2016/12/07 21:24 >RC様

私自身は救われているのですが、その理解の仕方に誤りがあるのでは?と思い、山も山様にお尋ねしている最中なのです。
過去のエントリーと私のコメントを読んでいただければ詳しくわかると思うのですが、私自身もグチャグチャになってきたのでいい機会と思い整理してみました。

山も山様のブログ内容(私の読み取り)
「南無阿弥陀仏一つで今救われる」「救われる側である私がすることは何もない(何の条件もない)」

私の疑問
・「往生浄土」には何の条件もないなら「南無阿弥陀仏」の名号とは一体何か?
・「南無阿弥陀仏」を称えることすら救いの条件ではないのか?
・「往生浄土」が死後であるならばその獲信は「今」だとしても、どのように現生の救いにつながるのか?

山も山様のブログエントリー
死ねば誰でも浄土に往生するという本願ではなく、自力修行の人は浄土にいたることができない。「本願を信じ念仏するもの」を必ず浄土に生まれさせると誓われる。
私の浄土往生を疑い無く信じて下さるのが阿弥陀仏。それだけ信じられていることによって、私は「信じられている」という信心が決定する。
それが、現実の問題になにか影響があるのかといえば、少なくとも「誰かに疑い無く信じられている人」と「誰からも信じられていないと思っている人」は違う。現実の問題に影響があるかとすれば、その点。

私の疑問
・「往生浄土」に「本願を信じ念仏する」という条件が必要となるとほとんどの人は救われないのではないか?「信楽受持甚持難 難中之難無過斯」というように獲信が難しい。たとえ「信心は賜るもの」(阿弥陀様から投げられたボールを受け取るだけ、ボールは投げ続けられている:過去のエントリー参照)という論理だとしてもそれに気づくのが難しい。とても南無阿弥陀仏一つでその気づきをえられるとは考えにくい。
私の考え
・釈尊の縁起の道理から考えれば、縁において生まれ縁において死ぬという点で生死は平等であり、死後にも差別はないのでは?その誰もが還る世界を「浄土」と称しているだけであって死後の往生浄土は誰にとっても当然ではないか?
・つまり往生浄土には条件はないが、それを実感するのには「南無阿弥陀仏のいわれ」あるいは「縁起の道理」を理解する(獲信)という条件があるのではないか。実感しなければ苦しいままで意味がないので信心が大事。
・往生浄土の救いが死後だけでなく、現生においてもはたらくものとなるには浄土が「今」私にはたらきかけなければいけない。「報土因果顕誓願」というように、浄土(報土)ができた因だけが本願なのでなく、できあがった浄土もまた本願であるならば、浄土とは本願がはたらく場所である。本願(阿弥陀)の光明にてらされ、現生を穢土にしている私の姿が「今」あきらかになるのが救いではないか。それが現生正定聚であり、往生浄土とも称すのではないか。

私の疑問
・しかし上記を「往生浄土」という救いとするならばその救い(を実感する)には「南無阿弥陀仏のいわれ」を理解するという条件が必要になる。そうではなく、「私がすることは何もない、南無阿弥陀仏一つで救われる」とするならばどこでそのようなことが言えるのか。
・また、そもそも往生浄土を死後とするならば、それは現生の救いにどのようにつながるのか。

RCRC 2016/12/08 16:44 求道者Kさま

長いコメント、ご苦労さまです。

ところで、求道者Kさまは、何を もって ご自分が救われていると思っておられのでしょうか?

私の 周りの お念仏を喜んでおられる方々は、
南無阿弥陀仏が何か?なんて 疑問を持つお同行の方は いらっしゃらないので。

南無阿弥陀仏に救われて、南無阿弥陀仏に疑問があるって とても不思議な方だなって思っています。
求道者Kさまは、南無阿弥陀仏に救われたのでは、 ないのですか?
南無阿弥陀仏に救われたら、私の口から 南無阿弥陀仏が 出てくださることが、有難いだけです。

私は、埼玉の熊谷で、埼玉恵日会という勉強会をしています。次回は、1月22日に 熊谷商工会議所というところで、14時10分から開催されます。
本願寺の布教士の方に教えておられる僧侶の方に質問をするという形での勉強会です。
今まで、どんな質問にも スッキリ ハッキリ お応え頂いています。
私が言うのも失礼かと思いますが、お話しの内容、教学力の高さも 抜群で、安心して質問していただけるかと、思います。

前回の勉強会で
「信前信後は、何が変わるのでしょうか」という質問が、ありました。
先生は「信前と、信後は、変わる。何が変わるのかというと、名号をどう受け取るぎ、変わる。南無阿弥陀仏の値打ちが変わる。」とおっしゃってくださいました。その時に 「タコ茶碗」というお話しをしてくださいました。
すごく要約して 言いますと、焼物の値打ちのわからない人が 、たまたますごく高価な焼物を 高価な物と知らずに
普通にお塩の入れ物に使っていたけれど、ある時に その焼物の値打ちが1000万円以上するった 聞いて、途端に、その焼物を 桐箱に入れて大切にした というお話しでした。
求道者Kさまには、ぜひ 直接 、先生に質問して頂けたらと思います。
ところで求道者Kさまは、ご自身では、お念仏は、どんな気持ちで称えておられるのでしょう?
南無阿弥陀仏は、私にはたらいてくださっている南無阿弥陀仏が、私の口にから そのはたらきのまま 出てくださっているだけです。
法蔵菩薩が 五劫の思惟と兆載永劫のご修行で、私のために完成してくださった宝物です。
よかった。って 思って 「なんまんだぶつ」では、何か足りないですか?

求道者K求道者K 2016/12/08 20:29 >RC様
う〜ん、せっかく書いたのですが…お話がかみあわず残念です。
ご紹介いただいた勉強会は残念ながら大変遠方で伺えません。私の疑問について何かわかりましたら教えてくださいね。

仏教の救いは個人の心の持ちようの救いではなく、我も人も共に救われれていくものでしょう。まさに浄土ともいうべき場が求められています。
私だけの納得ならもうできたのですが、他人にも伝える立場の者としては少しの疑問もうやむやにしたくないのです。

私は南無阿弥陀仏から入って釈尊の縁起の道理に結びつきました。諸法無我・諸行無常・一切皆苦・涅槃寂静です。
そういう意味では、私ではなく仏(真実に目覚めた人・真実の世界)を念じるという意味で波阿弥陀仏に感謝はしておりますが、その南無阿弥陀仏とは何かということを突き詰めている最中です。

有難うございました。

南無阿弥陀仏

FlowerFlower 2016/12/08 21:14 求道者Kさん

疑問解消には、『安心決定鈔』を読まれると良いですよ。

蓮如上人が、黄金を掘り出すような聖教とまで絶賛された名著です。

RCRC 2016/12/08 21:24 求道者Kさま

私は、自分もお念仏を喜んで 、皆さんもお念仏を喜んでくださることが 大切と思います。
知恵のない煩悩具足の私には、南無阿弥陀仏は、法蔵菩薩が 作ってくださった宝物ということしかわかりませんが、それだけで 充分過ぎる程 満足できます。
今、現在 南無阿弥陀仏を喜んでいます。
死後の救いが、なぜ今の救いになるのか?
だって、長い長い迷いの生が終わるように、阿弥陀仏が、私のためにご苦労してくださったと お聞きして、
どうして、今 うれしくならないのでしょう?
今 往生が決まるから、今 うれしいです。
南無阿弥陀仏は、突き止めるために 作られた訳では、ないと思いますし、凡夫に突き止められるようなものなら、煩悩具足の凡夫を救うことなど出来ないかと思います。

また、ご縁が、ありましたら、一緒に、お念仏を喜びたいです。

南無阿弥陀仏

RCRC 2016/12/08 21:54 求道者Kさま。

私のお同行のある方が 丁寧に、貴方のご質問、疑問について まとめて、私に メールをくださったので、コメントに掲載させて頂きますね。
私は、かなり おっちょこちょいで、ザックリとしたお応えしか出来ませんでしたが、細かく応えてくださってありますので、良く読んで頂けたらと 思います。

求道者kさんの
1.「とても南無阿弥陀仏一つでその気づきをえられるとは考えにくい。」

これは蓮如上人の仰る二心ですね。
南無阿弥陀仏に対する疑いです。
浄土真宗の救いは
南無阿弥陀仏ひとつ以外にありません。
南無阿弥陀仏ひとつと定まる以外はすべて二心です。

また下記のカッコ内の内容とは違う
南無阿弥陀仏の理解をされています。
「阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。」wikipediaより引用



2.「死後往生をなるほど!と理解する信心がどうして現生において有難いのかが問題となっております。」

死後の往生は死なないとわかりません。死後のわからない私、何もできない私、

と教えて下さった

阿弥陀様が「必ず往生させる」と仰るので私達はその通りに受け取り、ただ

阿弥陀様におまかせするだけです。それ以外には何もありません。

また死後の問題と言っても、苦しむのは今です。

阿弥陀様にその問題を今すべておまかせしたので

今死後のその苦しみは消えます。今が有り難いです。

(庄松同行と法主のやりとりを思い出せばわかると思います)



3.「往生浄土」には何の条件もないなら「南無阿弥陀仏」の名号とは一体何か?

往生浄土に条件は必要です。
ただ私達にはそれがクリアできないから
阿弥陀様がすべて私達に代わって仕上げて
差し向けて下さっています。
南無阿弥陀仏があるから、私達には何の条件も必要とされません。

4.「南無阿弥陀仏」を称えることすら救いの条件ではないのか

歎異抄第1章
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

「おまえを必ず助ける」という南無阿弥陀仏を聞き容れ(=救われて)往生できると
信じて念仏しようと「心が起きたとき」に救われるとあります。
聞其名号 信心歓喜 乃至一念です。当然その心で念仏する人は、その心を
持っているのでその時点で既に救われています。

ご参考までに。
法主「そちはどうじゃ、信をいただいたか」
  庄松「ヘエ、いただきました」
  法主「その信を得られたすがたを一言もうしてみよ」
  庄松「なんともない」
  法主「それで後生の覚悟はよいか」
  庄松「それは阿弥陀さまに聞いたら早ようわかる。われの仕事じゃなし、
われに聞いたとてわかるものか」
  法主「よういうた。弥陀をたのむというもそれより外はない。
多くはわが機(人々そのもの・または人々の仏にたいする信心を表す)
をたのんでおるでいかぬ。」

え?え? 2016/12/09 10:38 未信の人は、自分の力(意思)で念仏を称えていると思っているので、念仏を称えるということが条件だと思えるのではないのでしょうか?

信後の人は、自分には念仏を称える心も無かったということが知らされた後なので、念仏を称える心も阿弥陀様がくださったのだな〜と喜んでいるだけなのです。 

自分の力でやらなければならないことなら条件になるけど、全部他力なので、こちらに求められる条件など一切なかったですね・・・南無阿弥陀仏。

求道者K求道者K 2016/12/09 11:36 >Flower様
貴重なご指摘ありがとうございます。聖典も開かなければ宝の持ち腐れですね。読み進めてみます。


>RC 様
RC様からも、また、お同行様からもお心遣いいただきましたこと、誠に有難うございます。

死後については、阿弥陀仏がいようがいまいが、もともと私たちの分限にはありませんし、未知のものであり、本来「おまかせ」する以外どうしようもありません。その未知のものに恐怖するのは人間の本能であり、だからこそ、「死後は極楽に往生させるぞ」という阿弥陀様のお誓いを「今」信じるならば、それが「今」ありがたいのはよく分かります。
しかし、苦とは「死」のみならず生・老・病もあれば愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五陰盛苦もあります。それら生の内に抱える様々な「苦」と「死後往生の救い」の関係性が課題なのです。
「苦」の根本原因は「無明」煩悩です。親鸞聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」とおっしゃりますので、南無阿弥陀仏は無明すらも障りとしないことはあきらかですが、それが死後の往生についてのみならば現生は苦しいままです。
「南無阿弥陀仏のいわれ」や「縁起の道理」にはそこから人間を救うはたらきが溢れていると感じていますが、それは救われた側(救いに気づいた側)の論理であって、そこにいたるまでは私としては人生経験などの境遇や聞法などのすなわちご縁が不可欠だったわけであり、「南無阿弥陀仏」の一言のみでそこにたどりついたわけではないからです。つまり、南無阿弥陀仏に救われるには南無阿弥陀仏一言で救われるんだと理解する・信知する努力が必要という条件がかされてしまうのではないか、と申しているのです。

そろそろと山も山様がエントリーを更新して私の疑問を晴らしてくれるやもしれませんので、共に次回を待ちましょうか。

ご縁をいただき感謝申し上げます。

tokuyoshiminetokuyoshimine 2016/12/09 22:08 求道者Kさま

山も山さまが回答する前に とくよしみね の戯れ言を聞いて下さい。

>つまり、南無阿弥陀仏に救われるには南無阿弥陀仏一言で救われるんだと理解する・信知する努力が必要という条件がかされてしまうのではないか、と申しているのです。

そもそもこの言葉に求道者Kさんの問題の根源があると思います。
求道者Kさんはご自分が救われたと言い切れるものがあるのでしょうが、やはりそこに何か阿弥陀様が条件を付けられていると思われいます。
ところが他の方は皆さん、無条件と言われています。
その事に対して、そうでは無いとの思いがあるのでしょう。それは自力の心の薄皮一枚かまたは、自力の残り香かもしれません。
そもそも阿弥陀様に救われるというのは全分他力です。自他力廃立がされておられるなら阿弥陀様のお慈悲に対して頭が下がることしか無いと思います。
人によって救いに差が出るのは、その人の宿縁です。
阿弥陀様はすべての人を、拗動のたぐいまでも救うと誓われているのです。
ところが救われない原因はこちらにあるのです。阿弥陀様に条件はありません。
救いを拒否しているのはこちらです。
その自分に気がつかされたら無条件降伏しか無いのです。
だから親鸞聖人はその宿縁を腹底から慶ばれたのです。わたしもそのお心の一端を味わわせていただきました。
全分他力とは当たり前ですが私の力は一切及ばないと言うことです。
つまり救いはすべて阿弥陀様のお力ということ。
そこに疑いが無い、だから無疑心と言われるのです。
求道者Kさんは無疑心ではないのですか。
文章からそうでは無いとは思いますが、ご自分の思いは本当に当てになりません。仏語は怖ろしく思います。

とりあえず、まずは一言だけ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

とくよしみね

tokuyoshiminetokuyoshimine 2016/12/09 22:14 わかりにくいところがあるかもしれませんので追加です。
救いは一方的に阿弥陀様から頂くだけです。
こちらは一方的に拒否するだけです。
ところが阿弥陀様の力が強いので私は親鸞会を退会後、私自身をぶち破られました。
それが人によって差があるだけです。
それだけです。

とくよしみね

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

tokuyoshiminetokuyoshimine 2016/12/09 22:14 わかりにくいところがあるかもしれませんので追加です。
救いは一方的に阿弥陀様から頂くだけです。
こちらは一方的に拒否するだけです。
ところが阿弥陀様の力が強いので私は親鸞会を退会後、私自身をぶち破られました。
それが人によって差があるだけです。
それだけです。

とくよしみね

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

求道者K求道者K 2016/12/10 08:24 >とくよしみね様
色々とお気遣いありがとうございます。

これまでの文脈をお読みいただければお分かりいただけたことと思いますが、ご指摘いただいた箇所には私の「表現の誤り」がありました。

>つまり、南無阿弥陀仏に救われるには南無阿弥陀仏一言で救われるんだと理解する・信知する努力が必要という条件がかされてしまうのではないか、と申しているのです。



>つまり、南無阿弥陀仏に救われていることに気づくためには

と表現すべきところでした。

むしろ私としては一貫して死後往生には全くの条件がない。誰でもいのちのふるさとと言うべき処(浄土とも称する)に往生する。
しかし、大事なことはその浄土のはたらきを現生で受ける現生往生であり、その救い(阿弥陀の光明が届いていること)に気づくには条件というか、こちらの歩みも必要ではないかと申しておるのです。
みんな救われているのに気づかないとせっかくの浄土のはたらきに包摂されないので気づくという信心が大事なのではないかと。

むしろ「本願を信じ念仏する」という条件が出されたのは山も山様からの方です。それをこれからどう解説されるかが山場です。賜る信をどこまで一切衆生が気づくものとして表現できるかどうか。

>救いは一方的に阿弥陀様から頂くだけです。こちらは一方的に拒否するだけです。

のみの表現ですと、救われるか救われないかは運次第。実際には多くの人が救われないまま人生を終えていくような印象を受けます。

まあ、縁起の道理に照らせば

救われるているのは全員だが、救いに気づく・救いを実感するのは縁次第、と言っても差し支えはないと思うのですが。

よろしくお願いします。

え?え? 2016/12/10 09:03 求道者Kさんは、浄土真宗の御教えを他者に勧める難しさと格闘しておられるのではないのでしょうか?

阿弥陀仏の救いは無条件だといっても、未信の人からすると「じゃあ、何もしなくてもいいの?」となりますよね。
でも、「無条件なら、何もしないで待っていよう。」と言うと、「待つことも自力です。」と言われてしまう・・・。「じゃあ、どうすればいいのか?」となりますよね。

私は、「本願を聞いて下さい!」とひたすら勧めて下さる方に出会えて幸運でしたが、獲信するまで他者を導くのは、本当に難しいことだと思います。

tokuyoshiminetokuyoshimine 2016/12/10 09:16 求道者Kさま

言われることはよく分かります。
私の言葉が足りなく申し訳なく思います。
全分他力、すべて阿弥陀様のお力、信後の人は信前の人に向かい叫び、信前の人は信後の人を頼りに道を進む、仏様は連続無窮の働きを永遠に続ける、その中で私に意思があるのか、無いのか。
自分に選択の意思があるのか無いのか、それと菩提心との関係はどうかなどいろいろ思いはあります。
また、阿羅漢果の悟りと何が異なるのかととか空と何が違うのかとか・・・。
まあ、そんなことは私は気の向くままいろんな本を読みながら一生考える事かなと思っています。

では、またご縁がありましたら。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

GGRGGR 2016/12/10 17:13 求道者Kさま

通常こちらのサイトでは自らの信仰に対する問いを
山も山さんに尋ねるということが多かったと思います。
今回は求道者Kさまご自身の信仰に対する疑問というよりは
現代人に分かりやすく伝道するために課題を挙げて下さったと
読ませて頂きました。多くの方々のコメントもあり、求道者Kさまが
そのコメントからどのように気づかれ課題を克服されていくのかに私は
注目しております。

その上で申し上げますと
求道の過程、自らの努力という点ではおそらく
浄土真宗よりも、浄土宗西山派の證空の「五段鈔」の方が
より詳しく書かれているだろう、と聞いたことがあります。
お読みでなければ一読されてはいかがでしょうか。

浄土真宗は捨自帰他(南無阿弥陀仏)が特徴の教えですから
すべての努力を捨てよとするその本当の意味を聴聞によって
知らされる必要はあると私は思います。
仏法は聴聞に極まると言われるので当然聴聞する努力が
必要だとする立場です。

南無阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏の言葉に限定されるだけでなく
伝道されるためのすべての言葉を貫いている言葉だと頂いております。
この世のすべての伝道は、南無阿弥陀仏の言葉の出現から始まったと
考えれば、南無阿弥陀仏に気づかされることひとつで、その救いに
遇ったと理解してもよいのではないでしょうか。
ただそれだけではわかりづらいとして證空をはじめ浄土宗の方々が
信前の過程を強調されたのではないかと理解しております。

求道者K求道者K 2016/12/11 13:15 >え?様
おっしゃる通りです。「何かよくわからないけど、ありがたいんだよね〜、だからあなたもそのまま疑わず有難がってよ」
とはいかないものです。伝えるからこそ言葉に責任も伴うのでしょう。


>とくよしみね様
こちらこそ、申し訳ありませんでした。また色々とありはとうございました。
仏教では運命論は否定されることになると思いますが、南無阿弥陀仏に触れるご縁をいただいたというのは本当に遠くからの宿縁を慶ぶべきことですね。その縁が広まるべく、こうしたブログがあることは大変に有難いものだと感じました。


>GGR様
浄土宗西山派の證空の「五段鈔」ですか。失礼ながら全く存じ上げませんでした。他宗の方の見解問うのは大変貴重ですね。事実私は禅宗の方のお話を聞いていて、お念仏にたいする理解も深まったように感じています。
ありがとうございました。

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