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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-12-10

「「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。」(求道者Kさんのコメントより)

しばらくエントリーができず申し訳ございませんでした。また、その間コメント欄にコメントされた方々に御礼を申し上げます。

コメント欄に、求道者Kさんが続けて書かれていることもありますが、最初に書かれたコメントの文面からエントリーを書きます。

このような形で結果的に死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる私ですが、入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり、そこに南無阿弥陀仏は必要ではないのではないか?と感じました。必要であったとしてもそれは「南無阿弥陀仏のいわれ」であり、「南無阿弥陀仏」ではありません。そうなるとこの救いには「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」という条件が必要となります。「南無阿弥陀仏」と称えるだけではこのような考えに至らなかったからです。(しかし私としてはきっかけは南無阿弥陀仏だったので感謝の意でお念仏は申します。他の人に絶対にコレとすすめるには至っておりません。)(求道者Kさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」ことが条件になるのではないでしょうか?とのことですが、大ざっぱにいえば条件になります。なぜなら、念仏一声も称えない人を、本願のほの字も知らない人まで浄土に往生させるという本願ではありませんから、「無条件の救い」という言葉の前提は、なんらかの形で念仏申したり、法を聞くご縁にあった人のことです。

しかし、そのように念仏するようになったのも、法を聞くご縁に恵まれたのも信心を獲るのも阿弥陀仏の回向のお働きであり、私が何かをしたからそうなったのではないと、親鸞聖人はいわれています。

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弥陀の回向成就して

 往相・還相ふたつなり

 これらの回向によりてこそ

 心行ともにえしむなれ(高僧和讃)

そこで、法を聞くようなご縁にあった人に、このブログ上でいろいろと信心についてお尋ねを頂きます。私のブログは、「何をしたら助かるのでしょうか?」という方には、「何かをしたら助かるという条件はありません」と書いてきました。「まだまだ時間がかかりそう」という方には「今救われて下さい」と書いてきました。「為すことがないなら待っていればいいのですか?」と問われれば、「待つのではなく、今聞いて下さい」と書いてきました。

このように、人に対して何とか救われて下さいと勧める立場でいうと、「努力が必要で自分にはまだその努力が必要」という人には「努力せよ」とはいいません。「待てばいい」という人には、「待ってはいけません聞いて下さい」といいます。それは相手がこれが条件だと思い込んでいることを否定してるだけです。その意味で「無条件の救い」が阿弥陀仏の救いです。勧めるのは、一言で言えば南無阿弥陀仏となります。

また、南無阿弥陀仏と南無阿弥陀仏のいわれは分けることはできないものです。なぜなら南無阿弥陀仏のいわれの結果、南無阿弥陀仏となられているからで、南無阿弥陀仏のいわれと南無阿弥陀仏は別の二つのことではありません。

念仏を申す人は、「浄土往生の法」とか「阿弥陀仏の喚び声」などなどいい方はいろいろありますが、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて念仏されているからです。

一体、南無阿弥陀仏とは何なのでしょうか?また、往生浄土について私は「自然」のことと思っていますが、「では、無宗教(波阿弥陀仏と称えない人)やキリスト教(他宗)の人はどうなのか?極楽浄土はそこに生まれたいと願う人が皆もらさず生まれる処であり、極楽に強制連行されるわけではない」と言う人もいます。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

そこで南無阿弥陀仏とは何かについてコメント欄の他の方が安心決定鈔を紹介しておられましたので、そこから紹介します。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。 (安心決定鈔)

https://goo.gl/5j2j4W

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の仏のさとりの全体です。南無阿弥陀仏を離れて、阿弥陀仏の正覚はありません。だから、全ての人を浄土往生させるという本願が成就して阿弥陀仏となられたので、私たちの往生の体でもあります。私たちの往生の体であるから、阿弥陀仏の願と行がすべて私に具わるということです。

「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

これについて、南無阿弥陀仏は救いへの感謝ではありません。

救いの条件については、前述しましたが大きくいえば念仏申す、法を聞くご縁にあうことです。その意味で、今キリスト教を信じ、真宗の存在そのものを知らない人が突然浄土往生する身になるような無条件の救いではありません。先にも書きましたが、法を聞いたり念仏申すも阿弥陀仏のお働きによるものですから、私が○○したから法を聞くご縁にあえたということは本来はありません。その意味では私の側で「○○したら助かる」という条件はありません。ただ、それは救われてみれば頷けることで、何も知らない人が聞いて納得できるものではありません。

ですから、過去から多くの先達は、法を聞いて下さい、念仏申して下さいと有縁の人に勧めてきました。法を聞かれるようになった、念仏申されるようになってからは、また南無阿弥陀仏を疑い無く聞く以外になにもないのが真宗の救いです。それ以外は条件はありません。コメントの文脈上「救いを実感する」というのが、信を獲るということだと理解して上記のように書きました。

これどうですかこれどうですか 2016/12/11 02:30 信心も、南無阿弥陀仏。往生も、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏が、本願力。本願力にて、往生す。

 奥深きことを、知ろうと思うなよ。南無阿弥陀仏が、奥の奥なり。

     昭和五十四年十一月二十一日 

                九十五歳   稲 垣 瑞 劔

え?え? 2016/12/11 08:34 そうですよね。
「聞其名号」とありますから、名号を聞く(称える)のは条件だと思います。
でも、例えば「家がある者を救う。」という条件を出した上で、その家も阿弥陀様が建てて下さるのですよね。

善知識の役割は、自力(その人があて力にしているもの)を捨てさせて、「本願を聞いて下さい。」と勧めるだけですよね。

私が親鸞会をやめたのは、肝心の本願(第十八願)が親鸞会では聞けないことに気付いたからです。

ななしくんななしくん 2016/12/11 10:06 昔映画の中の登場人物になる夢を何度か観ました。映画の中で行く先を悩んでも
ストーリーは製作者に創られたもので、もう決まっているので映画を観ている側からすれば無用な悩みと感じたものです。
自然というのは決まったストーリーで条件というのは登場人物が感じることでしょう。

求道者K求道者K 2016/12/11 13:06 この度は誠にありがとうございました。しばらくはお教えいただいたことをよくたしかめながら歩んでみたいと思います。また何かありましたらお力添えください。
言葉を尽くしてご説明いただきましたこと、感謝申し上げます。

お⚓お⚓ 2016/12/13 02:50 ロムを決め込んでこの流れには入るまいと思っていましたが、呟かずには居れなくなりました(笑

>このような形で結果的に死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる私ですが、入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり、そこに南無阿弥陀仏は必要ではないのではないか?と感じました。必要であったとしてもそれは「南無阿弥陀仏のいわれ」であり、「南無阿弥陀仏」ではありません。そうなるとこの救いには「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」という条件が必要となります。「南無阿弥陀仏」と称えるだけではこのような考えに至らなかったからです。(しかし私としてはきっかけは南無阿弥陀仏だったので感謝の意でお念仏は申します。他の人に絶対にコレとすすめるには至っておりません。)

このようなご発言は真宗の信心とはかけ離れています。

私として特に問題なのは

>入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり

のところです。求道者K氏の出口が「縁起の道理」であるならば、それは祖師の書き置かれてある信心とは別物です。
どなたかもご指摘ありましたが、入口がお念仏のいわれであるならば、出口はお念仏です。
お念仏から出てしまわれたなら、それは真宗ではありません。どうぞ出られたところで学び遊ばせ。

阿弥陀仏の救いに少しでも多くのお方にあってもらいたいと、このサイトを何年も続けてこられた膨大な過去の問答に、いくらも答えは書かれていますよ。
真宗は南無阿弥陀仏を聞き、南無阿弥陀仏を頂き、南無阿弥陀仏を伝え、南無阿弥陀仏を喜ぶ教えです。
南無阿弥陀仏を離れて何かがあるとするのは、真宗ではないのです。

求道者K氏は「理解」「理解」とおっしゃるが、信心にとって理解など何ほどのものか。
私ごときの理解力で何ほどのものが得られるのか。信心は理解とはかけ離れている。

弥陀の救いに条件などない。
もし条件と思えるものを得ていたならば、全て弥陀の差し回しと喜べ。遠く宿縁を喜べ。祖師は先回りして答えを書き置かれてくださってある。愚問で同行を煩わすなかれ。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

た 2016/12/15 21:22 個人的には求道者Kさんの態度は立派だったと思う。
南無阿弥陀仏

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