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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-02-25

求道者K求道者K 2017/02/26 17:11 たびたび拝見し学ばせていただいております。どんな質問にも懇切丁寧にお答えくださり有難い事だなと感じております。
さて、ご無沙汰しておりましたがこの場をお借りしてまた一つ質問させてください。

「南無阿弥陀仏は救いの条件でなく救いの証拠である」

とは、本派のある僧侶様のお話しでお聞きしたお言葉でしたがなるほどなと聞かせていただきました。
こちら側の条件など一切問われず、つまりは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(一念多念文意)ことをせずとも、南無阿弥陀仏の名号において救いは完成しておる。我々の生き様や死に様を問うことなく、阿弥陀仏の方で十方衆生の往生を誓っておられるのだとお聞かせいただきました。
しかし言うならば、我々が救いを証明しなくとも救いが完成している事実には変わりないのではないでしょうか。証拠がなくとも救いが成就しているという事実には影響がない。なんの思いはからいもなく南無阿弥陀仏を称え・聞くことが救いが私に届いていた証拠ではありますが、私が証する以前に阿弥陀仏の方は常におはたらきになっているのですよね。
しかし、宗祖はたとえば『尊号真像銘文』の観念法門の文を釈す箇所において、

「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。

と雑行雑修の人を嫌うどころか救いから漏れるとおっしゃっております。これはどういったお心でしょうか。

同文については『一念多念文意』においても

「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」は、てらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。

同様に解釈しておいでです。私としては「このよにてまもらず」という所がポイントであり、救いは完成しているのだが雑行雑修自力の心では「このよ」、つまりは「今・ここ」において救いを感得することができないので、自力を嫌い他力の信をすすめておられるようにお聞きしたのですが。

しかしたとえ自力の念仏であろうとも(あるいは称名すらなくとも?)、(本派さんは死後往生を説くと理解していますが)南無阿弥陀仏と称する人は死後往生、つまりは臨終来迎にあずかるという意味の救いからは漏れないのではないでしょうか。
それこそ生き様死に様を問わず、私の証明行為すらも問わずとも救いを完成させた南無阿弥陀仏のお心かと感じるのですが…。

いや「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。

これも宗祖の嫌う「私の思いはからい」ですので、どうぞお導きをいただければと存じます。

綿棒綿棒 2017/02/27 09:03 浄土真宗というのは結構言っていることと実際が食い違うことが多い
親鸞聖人は珍しき法を伝えずといいつつ、自分の味わいで過去の文章を変えるとか
元々この娑婆世界では実現出来ない正定聚をこの世で成るように誤解させるような指し示しをされてますわね

綿棒綿棒 2017/03/01 15:39 何か勘違いをしていたよう

綿棒綿棒 2017/03/04 21:53 まぬけな私の書き込みを消してください。
コメ汚し棲みませんでした。<(_ _)>

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