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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-03-02

「「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。 」(求道者Kさんのコメント)

今回は、コメントの文章が長いためコメントを紹介しつつエントリーを書きます。コメント全文をそのまま読まれた言い方は、下のコメント欄の文章をお読みください。

求道者K

(略)

「南無阿弥陀仏は救いの条件でなく救いの証拠である」

とは、本派のある僧侶様のお話しでお聞きしたお言葉でしたがなるほどなと聞かせていただきました。

こちら側の条件など一切問われず、つまりは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(一念多念文意)ことをせずとも、南無阿弥陀仏の名号において救いは完成しておる。我々の生き様や死に様を問うことなく、阿弥陀仏の方で十方衆生の往生を誓っておられるのだとお聞かせいただきました。

しかし言うならば、我々が救いを証明しなくとも救いが完成している事実には変わりないのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

この「救いが完成している」については、救いの手立てが完成していると言うことだと思います。

救いの手立ては既に完成しているのですが、後に紹介されているお聖教のご文からしても、阿弥陀仏の救いといいますのは雑行をしているものまで救うと言うお救いではありません。

証拠がなくとも救いが成就しているという事実には影響がない。なんの思いはからいもなく南無阿弥陀仏を称え・聞くことが救いが私に届いていた証拠ではありますが、私が証する以前に阿弥陀仏の方は常におはたらきになっているのですよね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

救いの働き(願力)が私に届いているということと、私が救われる(信心を獲る・往生浄土が定まる)は同じことではありません。

しかし、宗祖はたとえば『尊号真像銘文』の観念法門の文を釈す箇所において、

「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。

と雑行雑修の人を嫌うどころか救いから漏れるとおっしゃっております。これはどういったお心でしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

「本願の行者にあらざるゆえなり」と書かれています。

本願の行者ではないというのは、本願を信じる行者ではないということで、念仏一つで救う本願を信じないで、雑行雑修をしている人のことです。そういう人は、最初から本願を信じ念仏していませんので、本願の救いからは現時点で洩れています。

同文については『一念多念文意』においても

「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」は、てらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。

同様に解釈しておいでです。私としては「このよにてまもらず」という所がポイントであり、救いは完成しているのだが雑行雑修自力の心では「このよ」、つまりは「今・ここ」において救いを感得することができないので、自力を嫌い他力の信をすすめておられるようにお聞きしたのですが。

しかしたとえ自力の念仏であろうとも(あるいは称名すらなくとも?)、(本派さんは死後往生を説くと理解していますが)南無阿弥陀仏と称する人は死後往生、つまりは臨終来迎にあずかるという意味の救いからは漏れないのではないでしょうか。

それこそ生き様死に様を問わず、私の証明行為すらも問わずとも救いを完成させた南無阿弥陀仏のお心かと感じるのですが…。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

摂取不捨の利益に預かっていないのですから、臨終にだけは助けて下さるということはありません。親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の救いは、平生に摂取不捨の利益にあずかるのですから、それなしに浄土往生はありません。

平生に摂取不捨の利益にあずかれば、生き様死に様は関係なく浄土に往生させるというのが南無阿弥陀仏です。

いや「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。

これも宗祖の嫌う「私の思いはからい」ですので、どうぞお導きをいただければと存じます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

平生でも、臨終でも「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の救いが阿弥陀仏の本願です。

「本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせる」という本願において、「本願を信じなくても救って下さい」といわれれば、本願から洩れるのは文章を読まれても分かると思います。


ただ「本願を信じる」というのは、救いの「条件」とはいえません。

なぜかについて「条件」の意味を、以下のものから考えて見ます。

じょうけん【条件】

〖名〗

  1. 約束ごとや契約などの箇条。項目。くだり。また、物事について限定したり制約したりする事柄。
  2. 物事の成立・生起に欠くことのできない事情。物事が実現するのに必要な事柄。(小学館 精選版日本国語大辞典

まず(1)の意味で言うならば、「条件」というのはあてはまりません。

一般に約束事や契約などには、お互いの行為に付いての条件が出されるからです。私が○○したならば、あなたは××してください。という場合です。

阿弥陀仏の救いはこれにあたりません。なぜなら、「本願を信じる」というのは、「私の行為」ではないからです。求道者Kさんのコメント文脈からすると、本願を信じることがなにか私の行為のように読めてしまいます。しかし、聞其名号 信心歓喜するといっても、それは私の行為ではく、名号に手出しをせずそのまま聞き入れただけで私の作為は入っていません。


次に、(2)の意味でいうのならば、「条件」というのは当てはまりません。

なぜなら、上記に書かれているように、「本願を信じ念仏する人を必ず浄土に生まれさせる」ということは、「本願を信じない」人は浄土に生まれることはないからです。そういう限定の意味は出てきます。しかし、いま本願を信じていない人も、一度本願を信ずれば必ず浄土に生まれさせる本願です。

求道者K求道者K 2017/03/04 19:56 山も山さんはブレませんね。いやブレないのは法ですか。ブレない法をブレる私がそのまま聞くのは難しい事です。断言できるほどにそのまま聞き入れている…ということでしょうか。
有難うございました。南無阿弥陀仏

ototanototan 2017/03/05 10:24  僭越ながらおうかがいします。
 今回の山も山さんのお言葉は、何度読み返しても、凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?
 かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?

 私は、如来の方が我々すべての凡夫の往生を信じているのであり、その本願功徳は成就していると思っております。だからいささかの限定や条件が一切ないのが本願で、こぼれるような者は誰1人としておらず、一切の衆生が他力によって往生する/していると思っております。そこに、凡夫に信がある/ない、というのは阿弥陀さんにはどっちでもいいことだと。
 そもそも「本願を信じる者」と「本願を信じない(知らない)者」という風に阿弥陀如来は差別区別するのでしょうか。「念仏する者」「念仏しない(知らない)者」とを分別するのでしょうか。如来大悲の前では、違いも境目もかわりめも、そこにはないでしょう。「する/しない」などと比べて区別してとらえてしまう、自力煩悩の考え方でとらえようとするから迷うのでありましょう。といいながら私にはそれしかできませんが。
 仏智は生死のその有無を破すという、つまり空でありますね。仏というのは無分別の智慧、無差別の慈悲であります。生きている者も死んでいる者も、阿弥陀如来には一如で区別のなく救済したい愛しい対象でありましょう。
 極端な言い方をすれば、南無阿弥陀仏を知っていようと知っていまいと、信じるか信じないか、阿弥陀さんにはどっちでも良くて凡夫が他力によって救われることは揺るぎないのではないでしょうか。

 釈尊や聖人を拝むのは大切ですが、そして釈尊や聖人のおことば・ご文を信じるのも大切ですが、我々は、釈尊や聖人やみ教えを世にうみだした大いなるものをこそ信仰するべきではないでしょうか。それを阿弥陀仏というのだと理解しています。聖典のご文やみ教えは、そこに我々が遇うための方便であります。み教えの局所部分だけ解釈したら危険であります。その人がどんな師に導かれて、それをどんな場所で、誰に対して、どんな気持ちで、どんな風に話された/記されたのか、全てを考察して頂戴していこうと努力し続ける必要があります。それはとても難しく時間もかかるし普通はできないんですけれど。だから手がかりくらいに思っておいて、阿弥陀仏というのは無量や無辺云々であるという如来の真実を想う、つまりただお念仏であります。なぜなら釈尊も聖人も人間だから、若存若亡するし、一心だったり不一心だったり、時には間違うことだってあったでしょう。ものすごく失礼なことを書いてると甚だ分かってますが。同じ人間である以上そうでありましょう。そういいながら、私も局所部分解釈しかやり方がないんですが。

 人間の実体は空でありますよね? この自我意識も幻想であります。それを無量とか無辺とかいい、阿弥陀仏と凡夫には、大きな隔たりがあるのではなくて、実は阿弥陀仏と一如であり、いのちというのは自分のいのちも含めて全て、無量寿である。この事実にそむいているつもりになるから苦悩という幻痛があるのです。凡夫が浅いところで欲する救いとは、幻痛がなくなることですね。痛いと勘違いしているだけで本当は痛くないんです。無量寿を生きているとてもすばらしいいのちが自己でありました。でも、私も痛いと勘違いしたままで自力で幻痛と悪戦苦闘し続けるのですが。そんな私を「心配すんな、大丈夫だ、それでいい」と本願がささえきってくださってます。それにも反抗してしまう法謗罪悪人の私ですが。

 随分まえに病気の5歳の坊やの葬儀を執行しました。はたして念仏の「ね」も阿弥陀の「あ」もしらない坊やを見捨てる弥陀如来なのでしょうか? 凡夫自力的な感覚で、5歳の命を見つめたとき、坊やは一度も本願を信じることのなかった人生といえましょう。しかし、私は勝手に彼の往生成仏を確信しています。なぜならその後彼は仏として仏事をおこし、父母ら私含めて縁者に常に回向しているからであります。この「ね」も知らないような小さいいのちでさえ南無阿弥陀仏であるに違いないと勝手に思っております。「救う/救われない」の議論の余地無く、南無阿弥陀仏の中の全く尊いいのちでありました。
 だから親鸞聖人の「本願を信じ念仏もうさば仏になる」というのは、すべて如来の行だと理解しています。我々凡夫は煩悩具足のゆえに「本願を正しく理解すること」「本願をまことに信じること」「念仏を正しく申すこと」「成仏すること」を何一つ自力でできないのであります。阿弥陀如来が本願を信じ、我々一切衆生の浄土往生成仏を信じておられ、その大願が成就しているから阿弥陀仏なのだと想います。だから我々は阿弥陀如来におまかせするしかないのであります。

 私が生きている、命を燃やしている、人間であるということはいつも、阿弥陀様に反発しているいうことであります。対立している、謗法罪を犯し続けているということであります。道徳的、倫理的なものさえも、阿弥陀様には反発であります。私がどんなに阿弥陀仏に反発しようと、決して私を見捨てない、愛しい愛しいであります。
 阿弥陀様の救いとうのものは、そういうものなのでありませんか?
 実は阿弥陀様がいて救ってくださるのではなしに、この救いそのもののことを阿弥陀仏という。救うという行為、救うという作業、これを阿弥陀仏という。救われる、私から見たら、救われている。これを南無阿弥陀仏というのであります。
 救うという阿弥陀仏は不可称不可説不可思議で、よく分からない。どういう風なメカニズムで、どういう風に救っているかよく分からんのですけれど、阿弥陀仏そのものが分からなくてもいいと、本願信じたから、南無阿弥陀仏を申したから、その行為で救ってやろうというのではありませんよね。一声出た時にはもう救われている証拠だというわけであります。人間であることができるのもみんな南無阿弥陀仏なんであります。どこまでもおまえを離しやしないと、支えてくださる。寝たきりになったって、おまえを離さないというところに、これから私が寝たきりになることができるのであります。死んでもおまえを離しやしないといって、支え続けてくださるところに、死んでいく道がきちんと保証されているわけです。
 何があっても、どんなことがあっても、阿弥陀様の手から漏れることはありません。
 そのことが分からなくても、わからんやつは知らんよって、阿弥陀様は言わない。分からんでもいい、支え続けてくださるわけであります。
 反発し続けているのに、阿弥陀仏は何もかまわず、支え続けてくださるので、これから先も永遠の未来に向かって阿弥陀さんもこの私の支えをやめない。

 浅学の愚かな私はそう思っております。だから、今回のご尊文が何度読み返しても限定的な救いに読めてしまって、違和感を感じました。
 乱文ですみません、失礼しました。

林遊林遊 2017/03/06 00:40 ototan さん
浄土真宗の本覚摂化門と往生浄土門のご法義をぐちゃぐちゃにしてるとototan さんのような思考になります。
いわゆる西山派系の『安心決定鈔』にある、

たとへば日出づれば刹那に十方の闇ことごとく晴れ、月出づれば法界の水同時に影をうつすがごとし。月は出でて影を水にやどす、日は出でて闇の晴れぬことあるべからず。かるがゆゑに、日は出でたるか出でざるかをおもふべし、闇は晴れざるか晴れたるかを疑ふべからず。仏は正覚成りたまへるかいまだ成りたまはざるかを分別すべし、凡夫の往生を得べきか得べからざるかを疑ふべからず。「衆生往生せずは仏に成らじ」(大経・上意)と誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり。 仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。

と、いう十劫安心説に近いのかな。
御開山の示して下さった浄土真宗は、過去でもなく未来でもなく、現に、なんまんだぶ なんまんだぶと称えられている往生成仏の仏陀のさとりを得る救いなのでした。
そして、救いは平等であるが、その救いを受容しない者にまで救いは及びません。これははっきりしています。信疑決判といいます。
小児往生を論じていますが、浄土仏教における時間論は一生だけを論じていません。深信釈で、

 自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし

という、無限の過去と無限の未来を論じての救済でした。
その意味のおいて、私が仏になることによって有縁の人を救済しようというのが、御開山の示された浄土真宗のご法義です。
少しく御開山が還相回向と仰った意図を学んでみましょうよ。ototan さんの前に全く新しい視野が開けてくるのかもですよ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

bibibibi 2017/03/06 12:29 この方のブログ拝見して気付きました。
http://tkboo.hatenablog.com/entry/2017/01/28/000000

昔から信心決定された方が当たり前のように言うことが理解できず、どのようにそう感じるのだろうと不思議で、獲信できないことはそこが理解できないからと悶々と格闘していたんですが、
阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?
獲信者が当たり前のように話す事柄もその信楽あっての前提で無自覚で話されている。
しかしその心は説明することが不可能とブログの方が言われてます。

素地が出来てないといくら頑張っても救いは得られないんだとおもいます。
素地の出来ている人には弥陀にお任せするだけだ簡単に助かると言えるが
それ以外の人にはどうにもならない言葉になるんでしょう。
ある種選民的なところがあるかもしれない。

おそらく全ての人を救うといっても現時点だけ考えると数的に限界があるんではないでしょうか?
環相が増えるとその数も増えるのかもしれない。
自分はまあお育てを待つしかないです。

ototanototan 2017/03/06 12:37  左様であります、私はどっちかいうと一遍の教えに傾倒している者なので、前述の釈尊や聖教を生み出したる大いなる存在を敬え、っていう部分は、そこらへんに起因しています。だから前述したみたいに、聖典や先人の文言の一部分だけ抜き出して、それを正しいと言い切ってしまうことを危険だと思うようになりました。とかいいながら自分もそういうやり方しかできないんですけれど。
 かつて安田理深先生(お会いしたことないけど)が「おれはうなぎだ」って言ったそうです。学生らは一生懸命考えて、うなぎとは何か、自己とは何か、うなぎと人間の違いとは何か、赤塚不二夫か、バカボンが好きなのか、とか探求してそれぞれ素っ頓狂な議論を楽しく盛大に展開したそうです。そして先生の答えは「先生、注文何します?」「おれはうなぎだ」ということだったそうです。
 仏道でも同じことが起こってますね? 部派仏教から大乗へ変遷が起こったのは、釈尊の言葉を大切にするあまり、その言葉の一部分を追求するあまり、深まりすぎて釈尊の言いたかったことが見えなくなっていき、本質からずれた仏道が時間をかけて展開されていった。だから私は「釈尊の説いた法を信じるか、釈尊を説いた法を信じるか(融通念仏宗)」の問いを大切にしております。とかいいながら、いつもウナギについて考察を深めて、分かった気になってる私なんですが。
 どんな歴史を経てバトンが託されてきて紡がれてきて、どんな時代背景、その時の情報量、誰に対して、どんな気持ちで、その人は語ったのか。追求し続けないといけないということです。18願でさえ、「〜〜という解釈が正しく、これが結論だ」とか確定論付けしてはいけないのであります。無量寿経が生まれた歴史を考察し続けないといけないのではないでしょうか。
 大谷派さんでいえば、最近「親鸞は現生往生を説いたのか」と、小谷信千代先生と水島見一先生が言い争ったそうです。往生は現生か後生か、たいへん凡夫らしい議論だと思いませんか。仏智は生と死の分別を破すのであります。
 如来の智慧とは何か、慈悲とはなにか。ほんものの、究極の大悲とはどのようなものなのか、人間の言葉で説明できないはずのものを説明しようとすると無理があるんです。でも考えれば考えるほど、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず(一遍)」に頷けるなぁと落ち着いてしまうのでありました。まぁ、このように、広大な過去から現在に至るまでの膨大な法の中のほんのごく一部分だけ抜き出して、自分の都合良く解釈してその気になっている私でありますが、皆さんはどうですか? 私と同じですか? 一部分解釈で喜んで分かった気になってしまうのでしょう? それを考え直すための楽しい議論をする場が座談やこういう掲示板なんでしょうね。
 安心決判も、所詮最近の人間が自力で考察した理論じゃないですか。不可思議功徳の前に凡夫の言葉は空です。凡夫である偉人の言葉や概念に思考束縛されるずに信じて歩めと、かつての師に言われました。信と疑は一如です。そもそも如来の慈悲を拒絶する者と受容しようと努力する者に、どんな違いがあるでしょうか。なんの差別もないと思いませんか? 流転と不退転は何が違うのか。もっと言えば、仏と凡夫と何が違うのか。死者と生者、時間と空間に一切の分別区別がないことをアミターユス、アミターバというんであります。
 そういうのを無量というのでしょう。はかれないし、はかりしれないし、区別差別できないし、違いも格差もない。そういういのちが無辺にカテゴライズされないいのちの世界を倶に生きとると、あらゆる生命現象物質が一如であると思ってます。この真実を妨げるものは何も無くて、揺るぎない。この真実に対してまさる法は見当たりません。イエスもアラーもアマテラスも、みな今ついに我々が念仏するための如来の化身であります。ちっとも曇らない、ダイヤモンドみたいなお願いが、奥底からまっすぐ全てのいのちを支えているのであります。これをなんまんだぶといって拝んでいるんですよね。

ototanototan 2017/03/06 12:37  左様であります、私はどっちかいうと一遍の教えに傾倒している者なので、前述の釈尊や聖教を生み出したる大いなる存在を敬え、っていう部分は、そこらへんに起因しています。だから前述したみたいに、聖典や先人の文言の一部分だけ抜き出して、それを正しいと言い切ってしまうことを危険だと思うようになりました。とかいいながら自分もそういうやり方しかできないんですけれど。
 かつて安田理深先生(お会いしたことないけど)が「おれはうなぎだ」って言ったそうです。学生らは一生懸命考えて、うなぎとは何か、自己とは何か、うなぎと人間の違いとは何か、赤塚不二夫か、バカボンが好きなのか、とか探求してそれぞれ素っ頓狂な議論を楽しく盛大に展開したそうです。そして先生の答えは「先生、注文何します?」「おれはうなぎだ」ということだったそうです。
 仏道でも同じことが起こってますね? 部派仏教から大乗へ変遷が起こったのは、釈尊の言葉を大切にするあまり、その言葉の一部分を追求するあまり、深まりすぎて釈尊の言いたかったことが見えなくなっていき、本質からずれた仏道が時間をかけて展開されていった。だから私は「釈尊の説いた法を信じるか、釈尊を説いた法を信じるか(融通念仏宗)」の問いを大切にしております。とかいいながら、いつもウナギについて考察を深めて、分かった気になってる私なんですが。
 どんな歴史を経てバトンが託されてきて紡がれてきて、どんな時代背景、その時の情報量、誰に対して、どんな気持ちで、その人は語ったのか。追求し続けないといけないということです。18願でさえ、「〜〜という解釈が正しく、これが結論だ」とか確定論付けしてはいけないのであります。無量寿経が生まれた歴史を考察し続けないといけないのではないでしょうか。
 大谷派さんでいえば、最近「親鸞は現生往生を説いたのか」と、小谷信千代先生と水島見一先生が言い争ったそうです。往生は現生か後生か、たいへん凡夫らしい議論だと思いませんか。仏智は生と死の分別を破すのであります。
 如来の智慧とは何か、慈悲とはなにか。ほんものの、究極の大悲とはどのようなものなのか、人間の言葉で説明できないはずのものを説明しようとすると無理があるんです。でも考えれば考えるほど、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず(一遍)」に頷けるなぁと落ち着いてしまうのでありました。まぁ、このように、広大な過去から現在に至るまでの膨大な法の中のほんのごく一部分だけ抜き出して、自分の都合良く解釈してその気になっている私でありますが、皆さんはどうですか? 私と同じですか? 一部分解釈で喜んで分かった気になってしまうのでしょう? それを考え直すための楽しい議論をする場が座談やこういう掲示板なんでしょうね。
 安心決判も、所詮最近の人間が自力で考察した理論じゃないですか。不可思議功徳の前に凡夫の言葉は空です。凡夫である偉人の言葉や概念に思考束縛されるずに信じて歩めと、かつての師に言われました。信と疑は一如です。そもそも如来の慈悲を拒絶する者と受容しようと努力する者に、どんな違いがあるでしょうか。なんの差別もないと思いませんか? 流転と不退転は何が違うのか。もっと言えば、仏と凡夫と何が違うのか。死者と生者、時間と空間に一切の分別区別がないことをアミターユス、アミターバというんであります。
 そういうのを無量というのでしょう。はかれないし、はかりしれないし、区別差別できないし、違いも格差もない。そういういのちが無辺にカテゴライズされないいのちの世界を倶に生きとると、あらゆる生命現象物質が一如であると思ってます。この真実を妨げるものは何も無くて、揺るぎない。この真実に対してまさる法は見当たりません。イエスもアラーもアマテラスも、みな今ついに我々が念仏するための如来の化身であります。ちっとも曇らない、ダイヤモンドみたいなお願いが、奥底からまっすぐ全てのいのちを支えているのであります。これをなんまんだぶといって拝んでいるんですよね。

tokuyoshiminetokuyoshimine 2017/03/06 22:17 ototanさま

申し訳ありませんが、貴方の言われることは浄土真宗ではありません。
貴方は後生心配ないならそれで良いのでは。
でも、貴方の言葉は私には届かない。
全く、肯定できません。
林遊さんも言われる通りです。
まあ、そう言っても私の言葉が貴方に伝わるとは思いませんが、言わずにおれませんでしたので一言書きました。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

証 2017/03/07 03:17 「 私が生きている、命を燃やしている、人間であるということはいつも、阿弥陀様に反発しているいうことであります。対立している、謗法罪を犯し続けているということであります。道徳的、倫理的なものさえも、阿弥陀様には反発であります。私がどんなに阿弥陀仏に反発しようと、決して私を見捨てない、愛しい愛しいであります。
阿弥陀様の救いとうのものは、そういうものなのでありませんか?」

そのとおりです。そういう意味において阿弥陀仏の救いは無条件ですし、この救いに漏れる者は一人もいないのです。

問題は、人とはこの尊い救いを頑として受け容れない「我」であるということです。疑情ともいわれます。18願に誓われた世界はこの疑情の晴れた世界です。阿弥陀仏によって疑い晴らされ、信心いただき、念仏あふれる身になってはじめて、阿弥陀仏の救いの無条件であることを実感できるのです。

すべての人は、刻一刻と阿弥陀仏の救いに向かっているのであり、
私がただいまの救いにあうことが、その証明となるのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

証 2017/03/07 04:31 「でも考えれば考えるほど、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず(一遍)」に頷けるなぁと落ち着いてしまうのでありました。まぁ、このように、広大な過去から現在に至るまでの膨大な法の中のほんのごく一部分だけ抜き出して、自分の都合良く解釈してその気になっている私でありますが、皆さんはどうですか? 私と同じですか? 一部分解釈で喜んで分かった気になってしまうのでしょう? それを考え直すための楽しい議論をする場が座談やこういう掲示板なんでしょうね。」

信不信、浄不浄と言っても自力信においてのことならば区別は無用、南無阿弥陀仏を勧めるのは至極当たり前のことでしょう。とはいえ誰にもできることではないので、尊いことと思います。

この掲示板の役割はいろいろあるのでしょう。私は板主さまが、皆さんの信心得られるための少しなりとも縁になればと思われてのことと拝しております。であればこそこの板には願力がはたらくものと思っております。楽しいのも大事でしょうが、誤りがあればそれを改めることが何より求められています。無条件の救いに対して、碍げは常に己の側にあるのです。助かりたいこころがある限り求め続けねばなりませんが、助かりたいこころこそが碍げの大元でもあります。行き詰まったら南無阿弥陀仏、阿弥陀さまにお任せで間違いは、ない。助かりたいこころがあるならば‥

sumimasensumimasen 2017/03/07 13:55 角のたつ書き方しているのに、色々反応していただいてすみませんm(__)m 聖教や先人のことば引用するのはあまり好きじゃないんですが、「他力他力いうこころがみな自力(金子みすず)」というますもんねぇ。自分が自分の受けとめに醜い執着しているのは分かっているんですが、やめられないんですよ。

tokuyoshiminetokuyoshimine 2017/03/07 22:19 ototan = sumimasen さま

また、一言。
どんな妄想も必ず理由があります。
調べていくと凡夫が知らされます。
私も貴方ほどではありませんが妄想にとらわれたことがあります。
色々な方に質問もしました。
最後は赤尾の道宗21か条のお心に帰らせていただきました。
簡単ですがそんな所です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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