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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-03-20

「報土に往生ができなくても、もう別に化土でいいじゃないか、という気持ちになることがあります。(略)最近は報土に往生ができなくても、地獄、餓鬼、畜生に堕ちるくらいなら、別に自力念仏で化土往生でもいいじゃないか、と思うようになってきました。」(さびしい人さんのコメント)

エントリーが遅くなり、すみません。

さびしい人   2017/03/18 17:22

いつも拝見させていただいております。

たくさんお聴聞させていただいておりますが、お恥ずかしながらまだご信心をいただくことはできておりません。

これはよくないこととはわかっているのですが、報土に往生ができなくても、もう別に化土でいいじゃないか、という気持ちになることがあります。

衆生の行先は3つしかないとよくご法話でもお聞きします。一つは真実報土、二つ目は方便化土、3つ目は三界六道(輪廻)。

実際、飛雲さんのサイトでもよく書かれています。

最近は報土に往生ができなくても、地獄、餓鬼、畜生に堕ちるくらいなら、別に自力念仏で化土往生でもいいじゃないか、と思うようになってきました。

もちろん、このような思いがよくないことは百も承知ですが、最近はそのように思うことも多々あります。

以下のサイトでも「浄土門の人の大半は化土往生」とあります。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515697.html

よくないこととは思いながらも、悪道に堕ちるくらいなら化土往生で構わないという、化土往生に安心してしまう自分が恥ずかしいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170309/1489041231#c1489825344

最初に書きますと、コメント欄で紹介されていたエントリーは、「浄土門の人の大半は化土往生」とは書かれていません。

20願の自力念仏については、浄土門の人の大半がこれです。親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、自力念仏についてばかりです。

(略)

23首で、化土往生を誡められています。誡める理由は、化土往生する人が多いからです。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515697.html

化土往生する人が多いということと、自力念仏する人の大半が化土往生するということは意味がことなります。

親鸞聖人が化土往生する人が多いと言われたのは、それだけ十八願の報土往生を疑う人が多いのでそれを戒めらるためです。「それだけ疑う人が多いから間違えないで下さい」

という言い方です。

では、20願の自力念仏の人は、もれなく化土往生できるのでしょうか?

化土往生する人は、往生要集にあるような「臨終行儀」を行わねばならないというのが、親鸞聖人が誡疑讃を書かれた当時の認識です。

では、臨終に平静な心を保てる人はどれくらいあるでしょうか?決して多くはありません。

そのため、平生業成を勧められた親鸞聖人の教えからいえば、臨終来迎を期待する考えは厳しく戒められました。

そのことは、覚如上人の口伝鈔にも書かれています。

しかればわたくしにこれをもつてこれを案ずるに、真宗の肝要、安心の要須、これにあるものか。自力の称名をはげみて、臨終のときはじめて蓮台にあなうらを結ばんと期するともがら、前世の業因しりがたければ、いかなる死の縁かあらん。火にやけ、水におぼれ、刀剣にあたり、乃至寝死までも、みなこれ過去の宿因にあらずといふことなし。もしかくのごとくの死の縁、身にそなへたらば、さらにのがるることあるべからず。もし怨敵のために害せられば、その一刹那に凡夫としておもふところ、怨結のほかなんぞ他念あらん。また寝死においては、本心、息の絶ゆるきはをしらざるうへは、臨終を期する先途、すでにむなしくなりぬべし。いかんしてか念仏せん。またさきの殺害の機、怨念のほか他あるべからざるうへは、念仏するにいとまあるべからず、終焉を期する前途またこれもむなし。仮令かくのごときらの死の縁にあはん機、日ごろの所存に違せば、往生すべからずとみなおもへり。たとひ本願の正機たりといふとも、これらの失、難治不可得なり。いはんやもとより自力の称名は、臨終の所期おもひのごとくならん定、辺地の往生なり。いかにいはんや過去の業縁のがれがたきによりて、これらの障難にあはん機、涯分の所存も達せんことかたきがなかにかたし。そのうへは、また懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。(口伝鈔)

https://goo.gl/7YRrFt

書かれていることをまとめていいますと、自力念仏で臨終になんとかなろう、化土往生をさせてもらおうと思っていても、死ぬ時にはどんな状況になるか分かりません。なので化土往生もできない(懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。)と言われています。

平たく言えば、化土往生を目指している人の中で、いわゆる凡夫は化土にも往生出来ない(あえて断言)と厳しく戒められています。

ただこれは、覚如上人個人の意見ではありません。親鸞聖人も、同じことを言われています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証 化土巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P412)

現代文

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

https://goo.gl/MSnCxh

ここで知っていただきたいのは「報土に入ることなきなり」です。なぜなら化土往生する人は、五百歳化土にいたあとやがて報土出来ます。それにもかかわらず「報土に入ることなきなり」といわれるのは、言い換えれば「化土往生できない」ということです。

全く報土往生を知らない人ならまだしも、報土往生(第十八願の往生)を法然聖人から聞きながら、化土往生を夢見る兄弟弟子に対して親鸞聖人は、このように仰っています。

さびしい人さんに言われている、親鸞聖人のお言葉だと思われないでしょうか?これは決して、さびしい人さんを謗って言われているのではありません。どうかどうか、報土往生をして下さいとのお勧めです。阿弥陀仏のお勧めを、手前勝手に曲げてはいけません。

貴方が、ただ今救われないのは、貴方の能力の問題でも、性格の問題でも、努力の問題でも、年齢の問題でもありません。ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

「『御文章』白骨章の最後に「後生の一大事をこころにかけて」とお示しでありますが、その「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。なぜ後生が一大事なのでしょうか。」(wmさんのコメントより)

エントリーが遅くなり、すみませんでした。

wm    2017/03/18 21:36

端的におたずねいたします。たとえば『御文章』白骨章の最後に「後生の一大事をこころにかけて」とお示しでありますが、その「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。なぜ後生が一大事なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170309/1489041231#c1489840613

お尋ねの、後世の一大事について浄土真宗辞典から引用します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

ごしょうのいちだいじ 後世の一大事

後生とは後に来るべき生涯、一大事とは最も重要なことの意。生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事をいう。

『御文章』5帖目16通には「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」等とある。

意味はこの通りです。

なぜ一大事なのかと言われれば、生死を離れて浄土に往生するということは、特に凡夫にとっては大変なことです。日々生死から離れられない私にとっては、ここから離れられるということは、ちょっと考えてもあり得ないことであり、これより大事なことはありません。

浄土に往生しないということは、生死の問題を解決できないということであり、苦しみから離れられられないということです。

その生死から離れさせるために、阿弥陀仏は本願を建てられているので、「阿弥陀仏をふかくたのみ」と御文章には続けて言われています。

別の言い方をしますと、生死といいますのは、迷いの凡夫の生み出したものだと言われます。凡夫にとってみては、生きることは「良い事」死ぬことは「悪いこと」と分けて考えます。また健康であることは「良い事」病気は「悪いこと」、若いことは「良い事」老いることは「悪いこと」と考えます。その考えからすると、人は生きて行けば、老いと病と死はさけられません。

そのように、死ぬことは悪いことと思い込む私に、「お前は死んで消えて行くものではない、浄土に生まれるものだ」と常に呼びかけ救って下さるのが阿弥陀仏です。一度浄土に往生すると定まった人にとっては、いたずらに終わる生も、消滅や先行き不明な死はもはやなくなってしまいます。

白骨の章でいわれいるのは、世の無常を切々と書かれていますが、最後に「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をたのみ」と言われています。それは、「朝に紅顔、夕べに白骨」でそれで「お終い」なのが貴方ではありません。貴方は終わらないですよ、なぜなら阿弥陀仏が浄土に生まれさせると誓われています。浄土に生まれる人には、空しく終わる生も、暗黒の死もありませんから、阿弥陀仏をたのめと勧められています。