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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-18

「今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?(Aさんのコメントより)


Aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

A  2017/04/17 19:53

いつも御教示頂きありがとうございます。質問がありますので教えて下さい。

今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。

 浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?

この先も聴聞を続けて確認しなければと思っているのですが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170413/1492081569#c1492426418

文面だけではなんともお答えしづらい質問です。といいますのは、「今の私には阿弥陀仏の本願へ疑いはありません」というのが、どういう意味で言われているのかが、今一つ分からないからです。

確かに「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」が信心の相ですから、「疑いがない」ということが本当ならばそれは、信心だと言って差し支えはありません。

私からは、Aさんの文面を読んで「そうですよ」という事はできません。なぜなら、会ったこともない人の信心を(会っていたとしてもですが)認定することはできないからです。仮に私が「貴方の信心は間違いない」と言ったところで、私の言葉をたよりにする信心は非常に危ういものになってしまいます。といいますのは、仮に「さっき貴方の信心は間違いないと言ったけれど、あれは勘違いだった」と言ってしまうと、崩れてしまう信心だからです。

しかし、Aさんのコメントからすると、Aさんは信心について以前は以下のように思っておられたということは分かります。

  • 信心決定したら阿弥陀仏のことがいろいろと分かる。
  • 信心決定したら浄土のことがわかる。
  • 信心決定したら浄土往生の確信がある。
  • 信心決定したら南無阿弥陀仏の功徳を実感できる。

上記のようなことを以て「私は信心を獲た」というのは間違いです。なぜなら、「智慧の拡張」が信心の証明といっているようなものだからです。


考えて見ますと「阿弥陀仏のことが分かり」「浄土のことが分かる」のは、本当の意味で言えば仏様でなければあり得ないことです。親鸞聖人は、凡夫が凡夫のまま往生することを教えられました。凡夫があるとき、聖者や仏になってから浄土往生するとは言われていません。

これから聴聞され、確認されるということは、大変有り難いことだと思います。

少なくとも、当ブログの内容を読まれて引っかかるところがあれば、お知らせ下さい。

AA 2017/04/19 19:12  ご回答頂きありがとうございます。宮田様が回答しづらい質問をしてしまったことは承知しております。申し訳ありません。
 前回の質問に関連してまた質問があるのですが、真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。お忙しい中お手数をおかけしますが教えて頂けませんでしょうか。

B 2017/04/20 08:36 信後の人が、「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことはあると思います。
なぜならば、獲信とは自分が予想していた通りの心境になるわけではないからです。

私がよく知っている人で、本人より先に周囲の人が気付いたというようなこともありますよ…

C 2017/04/20 13:07 他力の信心には、我々の感覚器官をもって感知できるような色も味も感触もないので、表現もできません。
ただ、念仏を称えてみればわかるのです。疑う心もなく、称えることをあて力にするでもなく、「どうかお助け下さい」と胸焦がすような切ない願いもなく、本願の御心をただ真直ぐに受け容れるのみの、静かな心相があるのです。それを確かめた時、愚かな私でも阿弥陀さまと共にあるのを感じられます。
自分の信心の所在は、念仏によってしか確かめられないのだなあ、と有り難く南無阿弥陀仏を称える日々です。

名無し名無し 2017/04/24 00:12 何か感じられたから信心を得たわけでもなし
信心を得たから何かが変わる訳でもなし
いい事づくめでもなく凡夫のまま煩悩に悩まされる毎日
ただ助かる以前は助かりたいと思って居た事は覚えている
今その気持ちがない事はハッキリしている
何か得たから助かったのではなく
助かりたいという気持ちが無くなったから「助かっていない状態」では無くなったというそんな感じです

プリパラおじさんプリパラおじさん 2017/04/24 16:09 他力のご信心を頂くというのは、試験にたとえれば、解答が与えられることによって「ああ、そうだったのか。なんだ、そうだったのか、これではっきり分かった!もう間違わない!」ということではありません。

そうではなくて、いつの間にか試験の問題そのものが跡形もなく消え去ってしまうことだと思います。

解答が分かることによってはっきり理解したり自覚するのではなく、何故か、不思議なことですが、問題そのものがいつの間にか無くなってしまっていることです。

だから「これが信心だろうか?」という思いになることはあるとは思いますが、だからといって焦ることもないですし、悩むこともないですね(もちろん、煩悩が無くなるということではありません、煩悩は相変わらず存在しますけど)。

信じることが出来ない私のために、阿弥陀様が南無阿弥陀仏となってくださることを聞かせていただく身にお育て下さるのですから。

必死で試験の解答を求めていたけれども、どこまでも阿弥陀様のお働きが先で、実は最初から問題などなかったんだ、ということに気付かさせていただくことだと思います。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

YGMYGM 2017/04/28 10:03 ↑プリパラおじさんのコメントとても共感できます。いいお味わいですね。
確かに問題そのものが既に阿弥陀さまに先取りされていたわけです。
私が問題にする以前に取り掛かってくださり、解決法まで成就しておるとのことでした。
生死の問題は、私の側から言えば、いい意味で、手遅れだったのです。
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